日中の懸け橋

映画と“結婚”した中国の元新体操の妖精=NPO法人日中映画祭実行委員会理事長・耿忠さん

文化 Cinema

2015年10月の開催で10周年を迎えた「日中映画祭」。主催者に日本と日本映画とのなれそめを聞いた。

耿忠 GENG Zhong

中国南京生まれ。NPO法人日中映画祭実行委理事長。プロデューサー、女優、版権会社社長。新体操の元中国代表選手。1989年から日本に留学。97年、松竹映画「ラブ・レター」で中井貴一の相手役として女優デビュー。99年、映像制作・アニメ版権ビジネスを中心とするムーラン・プロモーションを設立。2006年以降、NPO法人の理事長として「日本の映画を中国へ・中国の映画を日本へ」紹介する「日中映画祭」の運営も担当。

映画館での2つの思い出

NPO法人日中映画祭実行委員会理事長・耿忠さんには映画館で経験した忘れがたい思い出が二つある。

一つ目は17年前、日大芸術学部を卒業後、幸運にもヒロイン役を射止め中井貴一と共演した初主演映画「ラブレター」(森埼東監督、原作浅田次郎)を日本の観客と一緒に、もう一つは、日中関係が難しい局面を迎えていた10年前に上海国際映画祭で初めての日本映画週間の上映作品を中国の観客と一緒に、それぞれ見たときのことだ。

17年前は初主演がうれしかっただけではなく、作品に感動して観客の一人として一緒に泣いてしまった。

「映画館の中で、周りの人たちは最後にみんな泣いていました。その時、『あっ、映像の力って凄いな』と思いました」

映画の世界で生きていこうと決意した瞬間だ。

10年前は「こんなときに日本の映画を中国に持っていっても本当に見に来てくれるのかしら」と不安な気持ちでいっぱいだった。結果として毎回満員の大人気となり、その時館内で耳にした「中国の人たちの笑い声、拍手が今でも忘れられない」という。

そして、日中の懸け橋としてこの映画祭を続けていこうと心に決めた。

日中間の歴史的な悲劇の舞台となった古都・南京で生まれ、幼いころは中国の教育で育ったため、日本に対して「特別な気持ち」があったという。ところが1980年代半ば、日本人と結婚した姉の夫は家族に対してとても優しかった。今と違ってインターネットもなくテレビでは日本を紹介する番組もないが、姉から送られてくる雑誌を見ると、「街の雰囲気もファッションも凄く素敵だ」と思うようになった。

突然の転機~89年に観光ビザで留学?

1989年、大きな転機は突然やってきた。

それまで新体操の選手として毎日8時間を練習に費やし全国で3位という輝かしい成績を挙げていたが、南京師範大学への入学とともに新体操のナショナルチームを離れ、大学での勉強のかたわら大学生選手として全国大学生大会で優秀な成績を収めた後に、軽い気持ちで姉の暮らす日本へ観光旅行に出かけ、何とその滞在中に留学ビザを取ってしまった。

観光ビザで訪問した先での留学ビザへの切り替えはふつう大変難しいいことだが、姉に強く勧められ、「ダメで元々」と入管で申請したところ、切り替えに成功した。メダルを持った新体操ウエアの写真が利いたものか。

申請の翌日、義兄に電話で確認があって、もう一度呼び出され、通訳を介して「日本が好きです。日本語を勉強し、もっと新体操の選手たちや、いろんな日本人と交流したい」と訴えてから数カ月後、日本女子体育大学に留学することになった。

中国でもアスリートとして特殊な生活を送っていたため世の中のことはあまり知らなかったが、日本で留学生として生活を始めてからも学ぶことばかり。

その中でも、スポーツクラブでエアロビクスや健康気功を教えながら接する年上の女性会員たちからは、日本の習慣やお茶、日舞など教科書以外のことを「感謝しきれないほどたくさん」教わったという。

すでに、中国の教科書で教わった“歴史”だけが日本のすべてではなくなっていた。

92年、日本大学芸術学部に転校、演劇などの勉強をして、卒業後の翌年97年に、松竹映画「ラブ・レター」のヒロインとして選ばれ女優デビュー。その後、日中合作テレビ連続20話ドラマ「ロング・ラブ」の主演兼プロデユーサーを務め、中国で知名度の高い女優・中野良子に直接会ってドラマの出演依頼をした。中野さんは戦後第一弾として公開された日本映画「君よ憤怒の河を渡れ」に主演しており、自分が中野良子さんに憧れて女優を志した幼いころの気持ちも本人に伝え、夢だった共演を実現した。

翌99年、日中映像制作、文化交流、アニメ版権ビジネスを中心とする株式会社ムーラン・プロモーションを立ち上げ、2006年から日本の映画を中国へ、中国の映画を日本へ紹介する「日中映画祭」の運営も担当する。映画祭の運営にもプロデューサー業にも時間とお金がかかる。平行してテレビドラマ作りや中国の地方政府の観光プロモーションも手がけた多忙な10年間、「女優・耿忠」へのオファーも、恋愛もちょっと横において映画祭を最優先した。この間、つらい思いも経験しなかったわけではない。「何でそんなに忙しいの」「何でそこまでするの」という声もいくどか浴びた。

社長を務めるムーラン・プロモーション(東京渋谷区)で、日本の漫画の著作権も多数取り扱う

映像通じ「日本人の真実を中国に、中国の真実を日本に」

「姪のお小遣いまで提供してもらった時が一番情けなかった」

「借金なんてしたことなかったので、ドラマを作るのに自分の財産を失うのではないか」と家族もひどく心配した。中国に残る母の面倒を見ることもできずに、自分が貯金して上海で買ったマンションを売却したり、4人兄弟の姉たちがお金を出してくれたこともあったという。

そして今、日中関係が低調な時も、「逆にそういう時だから」と思って両国で続けてきた映画祭が10年の節目を迎えた。集まってきた多くの仲間たちとともにさまざまな経験を経て、「映画祭はみんなのものだから、意見を出し合っていい映画祭として発展して行けたらいい。次の10年に向かって色々と新しい挑戦もしてみたい」と決意を新たにしている。

「ニュース報道には偏っている面もあるけれど、映画は文化とか社会問題、若者の考え方を含めて真実を伝えることができる。映像を通じて日中の文化交流をすれば、日本人の気持ち、真実を中国に、中国の真実を日本の皆さんに伝えることができるんじゃないかな」

執筆=三木孝治郎・nippon.com編集部

カバー写真=日中映画祭10周年を刻む中国映画週間、舞台で挨拶する耿忠さん

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