シリーズ 2020東京パラリンピック開催に向けて
「大切なのは心のバリアフリー」長野大会バイアスロン金メダル・井口深雪さん
“1998長野パラリンピアン”の今

矢内 由美子【Profile】

[2015.01.06]

2020年東京パラリンピックは世界で初めて同一都市で2度行われるパラリンピックだ。ホスト国の国民として、我々は東京パラリンピックをどのように迎えるべきか。98年長野パラリンピックで活躍したパラリンピアンのその後をたどりながら、大会の意義を考えたい。

バイアスロン競技で2度の金メダル

茨城県つくば市。学術・研究都市の一角に、井口(旧姓小林)深雪(みゆき)さんは住んでいる。小柄ながら引き締まった体つきには、「元アスリート」の雰囲気がたっぷりだ。

「明るいところなら人影がうっすらわかる程度の弱視」という視覚障がいを持つ井口さんは、「小林深雪」として冬季パラリンピックのバイアスロン競技(クロスカントリースキーの中に射撃を組み合わせた競技)に3度出場した。

24歳で出た長野大会で金メダルを獲得し、02年ソルトレイクシティ大会では6位にとどまったものの、06年トリノ大会で再び金メダルを獲得したという華々しい経歴の持ち主だ。

長野大会表彰式で金メダルを胸に喜ぶ小林深雪さん(写真右)とガイドの中村由紀さん(写真左)(写真提供=時事)

トリノ大会後に結婚し、07年に引退。現在は、理学療法博士であり筑波技術大保健科学部で講師を務める夫・正樹さんと、12年5月に誕生した長女・来夢(らいむ)ちゃんとの3人家族。専業主婦として幸せな毎日を過ごしている。

「主人も視覚障がい者なので、家族3人の中で一番見えているのは娘。絵本の中身をだんだん覚えてきて“これは象さん”などと教えてくれるんです。主人も私も兄弟がいるので、子供はもう1人欲しいと思っているんですよ」

笑顔と明るい口調が印象的な深雪さんは、パラリンピックからどういう影響を受けてその後の人生を歩んでいるのか。パラリンピアンとしてどのような思いを抱いているのか。

地元開催の盛り上がりが後押し

1973年11月19日、長野県小谷(おたり)村で深雪さんは生まれた。冬場の降雪が3メートルになる豪雪地帯。子供のころ、夏は野山で伸び伸びと遊び、冬は体育の授業も放課後の遊びもスキーという毎日を過ごした。

視力に異変を感じるようになったのは小学校低学年のころ。視力が弱い、視野も狭い。何度も病院に通った末に判明したのが「黄斑部変性症」という病気だった。

小学校6年の2学期から、松本市の盲学校に編入し、高等部までそこで学んだ。卒業後は筑波技術短期大学(現筑波技術大)に進学。そのころになると、「網膜色素変性症」も併発しているということが分かった。

パラリンピックを目指してみないかと声を掛けられたのは短大2年のとき。子供のころからスキーの素養があったこと、そして松本盲学校時代に全国障がい者スポーツ大会で好成績を収めるなど、抜群の運動神経を持っていたことで、盲学校時代の恩師が誘ってくれた。長野大会開催が決まったことで、国を挙げて選手を発掘・強化しようという動きが活発化していたときだった。

短大卒業後は東京の特別養護老人ホームに就職し、長野大会には職場を休職して出場した。自腹で経費を払わなければいけない部分はあったが、地元開催ということで周囲の理解や協力があり、盛り上がった中での挑戦だった。

「社会面」から「スポーツ面」へ変わった報道姿勢

視覚障がい者のバイアスロン競技は、ガイドの後ろについて滑るクロスカントリースキーと、音で的の位置を判断して打つ射撃を組み合わせて行うルールになっている。深雪さんは優れた射撃センスに加え、コースを熟知しているという地の利もあって見事に金メダルを獲得。大会初日の金メダルということで、日本中が大いに沸き上がった。

大歓声の中、ゴールを目指す(写真提供=時事)

報道の観点から言えば長野大会は大きな変革をもたらした大会だ。管轄団体から新聞各社に「社会面ではなく、スポーツ面に掲載してほしい」という要請があり、一般紙はそれまで社会面に掲載していたパラリンピックの記事を、他のスポーツと同じ面に掲載するようになった。「小林 金メダル」の見出しは、全国紙のスポーツ面を大々的に飾った。

ソルトレーク大会では6位でゴール(写真提供=時事)

目に見える周囲の変化と、金メダルという好結果。ところが長野大会が終わるとお祭りムードはしぼんでいった。長野前には相応な配分を受けていた国からの助成金が激減するなど、経済環境が悪化。深雪さんはトレーニングに専念したいという理由で職場を退職し、生活費を節約するために長野の実家に拠点を移して活動を続けたが、それでもソルトレイクシティ大会後は蓄えが底を突いた。視覚障がい者の競技ではガイド分の費用も負担しなくてはならない。これもきつかった。

けれども、深雪さん自身の気持ちは長野大会前よりもむしろ燃え上がっていた。地の利のあった長野大会では金メダルを獲ったが、世界と横並びの状態に投げ出されたソルトレイクシティ大会では6位。この悔しさが新たなモチベーションとなったのだ。

重圧を乗り越え8年ぶりに手にした金メダル

トリノ大会を目指して厳しいトレーニングに励む一方で、遠征費用を捻出することができずに強化合宿の参加を諦めるという状況に陥っていた04年。深雪さんに朗報が舞い込んだ。東京に本社を置く株式会社日立ソリューションズ(当時は日立システムアンドサービス)が、障がい者のスキー部を創設することになった。

トリノ大会バイアスロン女子12.5キロ視覚障害クラスで疾走する小林深雪さん(写真右)とガイドの小林卓司さん(写真左)(写真提供=日立ソリューションズ)

04年11月に「日立システムスキー部」に入った深雪さんは、翌05年4月、社員として同社に入社。オフシーズンは社内で社員のマッサージを行うなどの仕事をしながら、さらに競技力を高めていった。

企業スポーツということで社を挙げての強化体制も確立されていった。スキーのトレーニングはもちろん、本格的な射撃の訓練にも取り組み、深雪さんは自他共に認めるトリノパラの金メダル候補へと成長していった。

収入が保障され、会社を挙げての支援体制があるということは、裏を返せば相応のプレッシャーが掛かることにもなる。しかし、深雪さんはその重圧をも乗り越え、トリノ大会で見事に金メダルを獲得。パラリンピック3大会で金メダル2つを手にした。

トリノ大会で金メダルを獲得し笑顔の小林さん(写真提供=日立ソリューションズ)

06年8月、正樹さんと結婚すると、翌シーズンは「井口深雪」としてさらに大活躍。07年3月のワールドカップを最後に引退して同年7月に同社を退職した後は、当時正樹さんが通っていた大学院のある米アイオワ州に移り住んだ。09年夏、茨城県の病院に理学療法士として就職した正樹さんとともに帰国。12年5月に長女を授かり、現在に至っている。

小林さんはワールドカップでも活躍(写真提供=日立ソリューションズ)

東京パラリンピックを娘に見せたい!

「パラリンピックでは普通の人にはできない経験ができた。それは、競技場の中だけではありません。試合での経験以上に、競技場の外で多くの人との出会いがあったことに幸せを感じています」

しみじみと語る深雪さんは、2020年の到来を心から楽しみにしている。娘の来夢ちゃんはそのころ8歳。東京オリンピック・パラリンピックで、オリンピアン、パラリンピアンが頑張っている姿を見させてあげたいと思っているのだ。

一方で2020年を前に、改善してほしいと思うことも少なくない。一番強く思うことは、日本人の抜本的な意識のあり方だという。

「日本ではバリアフリーとよく言いますが、心のバリアフリーは海外の方が進んでいます。海外に行くと、少しでも見えなさそうな人がいるとか、車いすの人がいると、すぐに『お手伝いしましょうか』と声を掛けてくれる。こちらがアッと思った瞬間に声を掛けてくれるんです。日本がバリアフリーと言うのなら、都市機能の整備より、まずは気持ちからではないでしょうか」

自国開催で盛り上がった長野大会、金銭的に苦しみながら出場したソルトレイクシティ大会、企業スポーツの一員として整った体制で臨んだトリノ大会。深雪さんにはそれぞれ異なった環境でパラリンピック3大会に出た。そこから浮かび上がるのは、自国開催のときだけお祭り的に盛り上がるのではなく、後世につながる遺産を残していく必要があるということだ。

海外と比較して、日本では心のバリアフリーが足りないという指摘にもしっかり耳を傾けなければいけない。20年東京パラリンピックに向かおうとしている今、長野パラリンピアンの貴重な声に耳を傾けていきたい。

タイトル写真提供=時事(長野パラリンピック・バイアスロン女子B2B3クラスで優勝した小林深雪さんの射撃)

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  • [2015.01.06]

スポーツライター。1966年6月23日、北海道生まれ。北海道大学卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、テニス、五輪、サッカーなどを担当。2006年に退社、以後フリーランス。著作は『Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代』(講談社/2009)、『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書/2011)など。

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