シリーズ 吉田松陰とその弟子たち
革命の体現者、高杉晋作
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松陰の没後、門下生たちの過激行動で長州藩は政治的に自爆する。その混乱の中に現れ、短期間で軍事的成功をおさめ、討幕・維新への道筋をつけたのもまた松陰の高弟だった。

どん底での登場

高杉晋作が世界史にその姿を現したのは、1864年9月8日のことであった。以下は、イギリスの外交官・通訳官、アーネスト・サトウによるイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国による下関砲撃の後の休戦交渉の描写である。

「正午に帰艦すると、例の伊藤俊輔(注:伊藤博文)が来ていた。長州は講和を希望し、全権を委任された家老、すなわち世襲の顧問官が談判に来るとのことであった。そこで、その偉い人を迎えに、すぐに一隻のボートを出した。まもなく、家老が旗艦の後甲板に到着した。家老は、黄色の地に大きな淡青色の紋章(桐の葉と花)のついた大紋と称する礼服をきて、絹の帽子をかぶっていたが、中部甲板を通るときそれを脱いだ。すると、チョン髷(まげ)が房のように頭の後方へゆるくたれているのが見えた。白絹の下着は、目がさめるように純白だった。家老より1階級下の身分の2名の同伴者も同様に結髪していたが、袍衣は着ていなかった」。

「彼らは、船室へ案内された。ジラール師とラウダーと私が通訳することになって、提督の面前へ出た。彼らはまず、長州藩主は敗北を認めて、友好関係を開くために講和を望んでいると言った……彼ら3名は、その姓名を、長門の家老宍戸備前の養子宍戸刑馬(ぎょうま)、参政の杉徳輔、渡辺内蔵太と名のった」。

「日本の使者の態度に次第に現れてきた変化を観察すると、なかなかおもしろい。使者は、艦上に足を踏み入れた時は悪魔(ルシフェル)のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには伊藤の影響があったようだ」。

「休戦協定ができると、田舎へ逃れていた人々が、危険な砲台付近の道を通って、どんどん下関の町に入ってきた。もちろん、戦争の終結を心から喜んでいた。伊藤と井上(注:井上馨)の2人以外は、ヨーロッパ人は夷狄に等しいと思っていた長州人のだれもが、みんな忠実に協定を守った。この点から見て、彼ら長州人は信用に値する人間だといってよかろう」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)。

サトウは戦闘から和平交渉に至るまでその場に立ち会った。この攻撃は、前年の63年、「攘夷の決行」として、関門海峡を通過する外国船に対し長州藩が砲撃を繰り返したことへの報復として行われた。結果は、長州藩の一方的な敗北であった。4か国艦隊は、単に砲撃するだけではなく、陸戦部隊を上陸させ、長州藩の守備隊を打ち破り、砲台を徹底的に破壊した。外国軍が日本本土に陸上して戦闘を行ったのは、13世紀末にフビライ汗のモンゴル帝国が侵攻を行って以来の出来事であった。

高杉晋作(国立国会図書館蔵)

サトウが説明しているように、長州藩はこの休戦交渉でこれまでの狂信的な排外方針を転換したのであった。イギリスは、ちょうど1年前に、生麦事件への報復として薩英戦争を起こし、鹿児島を砲撃、薩摩藩兵を打ち破った上で、薩摩藩の政策を親英に転換させていた。これでイギリスは、当時、幕府に対抗する2大勢力であった薩長2藩と友好関係を結んだことになる。また薩長が行った方針転換もまた、その後の日本の運命を決めることになる極めて高度で重要な政治的決断であった。

「悪魔のように傲然」としながら、重大な政治的転換を意味する交渉条件受け入れを柔軟に行った休戦交渉の首席代表、宍戸刑馬は偽名で、実は、吉田松陰の高弟、高杉晋作であった。

革命と国民の創生

長州藩は、この1864年には政治的に完全に破綻していた。8月に蛤御門の変で軍事力が壊滅した上、尊王攘夷派の指導者の多くを失った。引き続き、4か国艦隊の下関砲撃を受け、これに屈服。さらに幕府の征討を受け、これにも屈服した。しかし、

「この重大な危機にあたって、一人の若い武士が藩政の舞台に登場してきた。それは当時の日本においておそらく最も傑出した軍事的天才と思われる高杉晋作である」。

「高杉は1864年から翌65年にかけて、みごとに幕府遠征軍の裏をかき、かろうじて保たれていた幕府の威信に痛手を与えた。この時かれの指揮したのが『奇兵隊』である。これは高杉とその武将とが募集し訓練した義勇兵であった。この奇兵隊のもつ革命的要素は、兵卒と下級幹部の多くが、武士階級でない富農、小市民、およびいうまでもなく、あらゆる色合いをもった浪人から成り立っていた事実にある」。

「奇兵隊は将軍の封建的召集軍を駆逐して、日本でも武士だけが戦闘に適した人間ではないことをまず証明したのであるが、この観念は前代の歴史と伝統を根本から否定することになった。この意味から、奇兵隊こそは1873年に実施された徴兵制度の先駆であった。つぎに奇兵隊は、商人でも富農でも、庶民階級の有能なひとびとには能力発揮の機会を与え、かれらの熱意と、なかんずく近代兵器の購入に必要な経済的支援とを動員した。また奇兵隊は日本の近代的軍事官僚の最初の実例をつくり出した。すなわちこの長州の庶民軍は、貧窮武士、浪人、農民および町人からなり、市民から十分な資金の援助を受け、武士階級の下層出身の若い侍に指導されたのであって、ここに、明治日本の政治ならびに社会の特徴をなした、同様の社会的絡み合いと相関関係の縮図が示されている」(E・ハーバート・ノーマン著、大窪愿二編訳『日本における近代国家の成立』)。

ちなみに、E・ハーバート・ノーマン(1909〜57年)は、カナダの歴史学者、外交官で、若き日にマルキシズムの洗礼を受け、戦前に、エドウィン・ライシャワー、都留重人、羽仁五郎らと親交を結び、日米戦の開戦時には東京の公使館員であった。戦後はGHQに招聘され、マッカーサーと昭和天皇の会談の際の通訳も務めた。この論文は、1940年に刊行されたものだが、知日派とはいえ、当時から日本軍国主義に厳しい評価を下していた人物の手によるものであることを考えると、高杉に対する評価は絶賛に近いといっていい。

ノーマンが指摘したように、松陰の死から長州戦争による回天に至る長州藩の変遷は、そのまま、明治へと向かう日本の変化を先取りしている。高杉は、その過程を体現しているのであった。

長州の暴走と自爆

松陰の死の翌年、1860年に桜田門外の変で「安政の大獄」の中心であった幕府の大老、井伊直弼が暗殺された。幕府の譜代大名を中心とする旧体制派の威信は一気に失墜した。これで体制内改革派であった一橋派の天下になるかと思われたが、そうはならなかった。波乱要因は京都朝廷で、政争は京都を中心に行われた。そして、その混乱の中心になったのが長州藩、しかも吉田松陰の門下生たちであった。

「尊王攘夷」を打ち立てて、不平派の公家や、各藩の反幕府的傾向の強い武士と接近、「尊王攘夷派」と呼べる大勢力を作り上げていった。彼らは、天皇の「攘夷」命令などの勝手な発布や、反対派や外国人へのテロを繰り返した。「攘夷」によって困難な立場に追い込まれるのは幕府であった。井伊暗殺以降の国内の混乱をさらに増幅すること自体が目的で、結局、「尊王」も「攘夷」も、反幕府のための口実であった。

これに対し、孝明天皇をはじめ、将軍の政治顧問となっていた一橋慶喜、さらに越前藩、薩摩藩、幕府の京都守護職を命じられていた会津藩といった、幕藩体制温存派は反撃を計画。1863年9月(旧暦の8月)の「8月18日の政変」で、長州藩とその親派の公家を追放して主導権を取り戻した。翌64年8月(旧暦7月)に、長州藩兵や親派の各地の浪人が大挙、上洛、京都御所に突入したが、薩摩、会津を中核にした幕府軍に撃破された。いわゆる「蛤御門の変」である。4か国艦隊による下関砲撃はこの直後に行われたものであった。はっきり言って、政治的暴走を繰り返した果ての自爆であった。

一連の政変と蛤御門の変の戦闘のなかで、長州藩の指導者となっていた久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一、吉田稔麿などの松陰の門弟が多く死んだ。彼らの暴走を、松陰の影響と見るべきなのか、時流と見るべきなのかは、様々な意見があろう。冒険主義、積極行動主義は松陰の言動にも見て取れる。しかし、混乱を大きくするためだけにテロを繰り返したことは無定見に過ぎるし、最期もあまりに無謀であった。外圧に対抗するために外国の見聞を広めなければならないと考え行動した松陰の見識はここには見られない。政治的煽動があまりに効果があったので、繰り返したあげく、それによって引き起こされた事態に自縄自縛になったのであろうが、あまりに未熟であった。その結果、長州藩は、この1864年末には幕府の討伐(第一次長州征伐)を受け、降伏する羽目になるのである。

衣鉢を継ぐ者

この長州藩の政治的・軍事的破産の事態を収拾したのが高杉晋作であった。さらに言えば彼は師の吉田松陰が持っていた方向性、外国に対する開明的政策による軍事力強化、天皇中心主義つまり徳川幕府の打倒、平等主義による政治改革などを、すべて長州藩で実現していくのである。

高杉は1839年、天保の混乱期の終わったころ、長州藩の中級官僚の家に生まれた。藩校の明倫館では秀才の評価が高く、藩の留学生として江戸の昌平坂学問所で学んだ。松下村塾でも松陰は久坂とともに将来を期待したという。高杉に転機が訪れるのは、62年に幕府の貿易調査団の随員として上海に渡航した時であるという。欧米帝国主義列強の事実上の植民地と化した清の実情に大きな衝撃をうけたという。帰国してからは、久坂らとともに「尊王攘夷」活動を行い、江戸御殿山に建設中のイギリス領事館焼き討ちを行ったりした。

高杉が日本人の記憶に残る行動をとり始めるのはこのころからである。高杉は、1863年に、当時、攘夷戦の最前線であった下関の防衛部隊として「奇兵隊」を創設する。このあと、藩内各地の豪商、豪農たちがパトロンになって同様の部隊がいくつも作られる。これらは総称して「諸隊」と呼ばれ、長州藩の中核軍事力として成長していった。諸隊の中には、当時の被差別部落民で構成された隊もあった。長州の全階級が参加した正規軍だったのである。

高杉晋作生家(山口県萩市南古萩町)

歴史の転換点となった功山寺クーデター

蛤御門の変の際には、高杉は、京都への進撃には反対で長州で自立する割拠論を主張した。しかし軍事行動に訴える面々の説得に失敗。説得行動の際の脱藩の罪を問われて投獄され、京都の戦闘には関与せずじまいだった。しかも、だが、4か国艦隊の下関砲撃が始まると和平交渉のため罪を許され、「悪魔のように傲然」としてイギリス艦の甲板に立ったのである。

高杉は、この破滅的状況の中で的確に判断して方向転換をなしえた。しかし、周囲のすべてがそれについていけたわけではない。蛤御門の変で、尊王攘夷派の主要な活動家が戦死または行方不明となったことと、この年の秋の幕府の第一次長州征伐で降伏した結果、尊王攘夷派の後ろ盾となっていた藩の首脳が処罰されたことがあり、長州藩は、急速に「俗論党」と呼ばれる守旧派、親幕府派に傾いていった。尊王攘夷派の弾圧が始まり、高杉はいったん藩外亡命を余儀なくされる。

会戦が行われた太田・絵堂の山間部(山口県美弥市)

しかし65年1月12日(旧暦の前年12月15日)、長州に舞い戻り、諸隊を率いてクーデターを起こした。いわゆる「功山寺蹶起」である。クーデター軍の諸隊は、太田・絵堂(現在の山口県美弥市)周辺で、旧来通り藩の世襲武士団によって編成された萩の俗論党政府の軍隊と衝突。約10日間の激戦の末、これを打ち破って藩内政治の主導権を奪い返した。庶民軍が正規武士団の軍隊を、戦場で打ち破って政権を奪ったのである。日本史のレベルでは革命的状況なのであった。

実質的な討幕戦の勝利

革命戦は、これだけで終わらなかった。幕府は再度、長州征伐を行おうとした。長州には、蛤御門の変以後、潜伏生活を続けていた桂小五郎が戻り、藩政を主導し対幕府戦争の準備を行った。桂は松陰と年が近く松下村塾の生徒ではなかったが、松陰の門人であり同士でもあった。かつて久坂らとともに京都での長州藩の活動を主導していた。

桂は、藩内の庶民階級である村医者の出身ながら、西洋兵書の翻訳者であり軍事理論家として著名となっていた大村益次郎を抜擢して、戦争準備を進めた。また敵対関係にあった薩摩藩とも水面下で同盟を結んだ。薩摩藩は、蛤御門の変で主導的な役割を演じてはいたが、63年の薩英戦争で敗北した上に、むしろイギリスに積極的に接近して幕藩体制からの自立志向を強めていた。第二次長州征伐にも、パワーバランスが崩れ幕府が力を増すことにも否定的だった。

薩摩との同盟はすぐに大きな成果を生んだ。長州は対外的に日本を代表する政府である幕府から敵として扱われた。大村は数で勝る幕府軍に対抗するため、ミニエー式ライフル銃で全軍を武装しようとしたが、幕府と条約を結んでいる諸外国は表だって武器の売却は行えなかった。薩摩藩を通すことではじめて輸入が可能になった。ミニエー式ライフル銃は、従来の歩兵銃に比べ飛躍的に射程が長く、命中精度が高かった。このため兵は長期の高度な訓練を必要とする横隊戦術をとることなく、散開して戦えた。ライフルで武装し散兵戦術を使う無階級軍、当時、西欧で形成されつつあった国民軍と同じ性格をもつ軍隊を長州藩は短期間で作り上げたのである。

1866年6月から始まった対幕府戦の戦闘では、高杉は奇兵隊を中核とした軍を率い、関門海峡越えの戦線を指揮した。対岸の小倉藩領に上陸した長州軍は最終的に小倉城を陥落させ、関門海峡の両岸を制圧した。

門司から小倉方面を望む。海峡の対岸は下関・彦島

このことは戦略的には決定的な成果であった。当時の国内最大の物流ルートの一つ、北前航路を封鎖することができるようになったからである。しかも九州島南端の薩摩藩と軍事同盟を結んだことで、西九州を幕府の影響下から分離することに成功した。これで、数少ない国際貿易港であった長崎は、幕府の奉行所が存在し続けたものの、実質的に西国雄藩の支配下に入った。彼らは幕府を無視して自由に海外貿易を始めたのである。この段階で西国諸藩は幕府から事実上、独立したのであった。高杉の唱える「割拠」であった。

その静かな退場

「長州に対して、この1年間、反逆者の首を持ち帰ると高らかに騒いで江戸より軍勢を差し出した大君の処置についてだが、途中で京都朝廷に妨害されたわけでもないのに、高官を長州に遣わして、表向き服従したように偽って和睦を謀ろうとしたことは、大君の最も大いなる恥辱ではないか。今、誰も大君を日本の主権者と言う者はいない。自らに服従すべき者を制御する事ができない時は、制御できない者たちも、そして外国人も、もはや大君を日本の主権者として敬い憚る者はいなくなる。外国政府が大君と条約を結んだことは大いなる誤りである」。

これは、アーネスト・サトウが1866年に、横浜・居留地の英字新聞に匿名で発表した論文の一部を現代語訳したものである。この論文は、発表後すぐさま翻訳され、『英国策論』と名をつけられて日本の要路で読まれ、幕末の政局に大きな影響を与えた。条約の履行能力の分析からも、幕府は国際的に日本を代表する政府ではあり得ず、天皇を中心とした諸侯の連合体が日本を代表すべきである、と言う主旨である。

注目すべき事は、幕府が国家の統治能力を喪失したと判断する事実として、対長州の戦争の失敗を挙げていることである。政治史上の倒幕・明治維新自体は、1868年1月3日の王政復古クーデターとそれに続く戊辰戦争の結果、成し遂げられるのであるが、サトウ、もっといえば大英帝国の認識では1866年の長州戦争の段階でポイント・オブ・ノーリターンを越えたことになる。

しかし、その立役者、高杉は小倉陥落の翌年の1867年5月、肺結核のため死去する。彼もまた、師、吉田松陰同様、明治維新を目にすることはなかったのである。

死後、高杉は奇兵隊の本拠のある山口県下関市吉田に葬られた。1911年になって墓の隣に顕彰碑が建てられた。碑文は伊藤博文によるもので、冒頭にはこうある。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」。

(編集部・間宮 淳)

カバー写真=クーデターの地、功山寺の境内に建つ高杉晋作像(山口県下関市長府)

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