シリーズ ターニングポイント1995年から20年、日本はどう変わったのか
「安全神話」は国を滅ぼす——霧の中に隠し続けた原子力のリスク
危機管理の20年①

佐々 淳行【Profile】

[2015.04.14] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية |

教訓となる事件・事故がどれほど起こっても、日本の危機管理に進歩はなかった。「安全神話」がすべてを覆い隠してしまうからだ。中でもはなはだしいのが原子力。3.11で最悪の危機が現実のものになるまで、問題を直視するきっかけはいくつもあった。しかし日本は国として逃げて回った。警察庁警備課長として関わった原子力船「むつ」迷走航海以来、日本の主要原子力事故を間近に見てきた危機管理の第一人者が、日本の原子力安全神話の噴飯ものの実態を明らかにする。

95年に一通り危機を経験したが

20世紀末、軍事用語での「CBR(Chemical Biological Radioactive)危機」、あるいは警察用語での「ABC(Atomic Biological Chemical)危機」が、よく取りざたされた。これに「D(Disaster)」を加えたABCD危機を20世紀中に日本は全部体験した。しかも、1995年にはこのすべてが起こっているのである。

1月の阪神淡路大震災(D=大自然災害)、3月の地下鉄サリン事件(BC=生物化学兵器テロ)、12月には、のちの東海村臨界事故や東日本大震災による福島第一原子力発電所事故に比べれば被害規模は小さいが、Aの核・放射能施設事故として、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム冷却材漏洩火災事故が起きている。

その意味で1995年は、日本にとって国家レベルでの危機管理の問題点が露呈した年だった。では、その後、95年の教訓を基に日本の危機管理は改善されたのであろうか。決してそうは言えないのである。

「神話」を捨てていれば福島第一の惨事はなかった

そもそも95年の教訓とは何だったのか。一言でいえば、それまで日本は政府も社会も「安全神話」に頼り切っていて、最悪の事態に直面することなど想定していなかった。そのことを「ABCD」すべての局面で思い知らされたことだった。もちろん、警鐘は様々な形で鳴らされていたが、特に役所では「安全神話」を前提にシステムが組み上げられて物事が動いており、「神話」を否定することは少なくとも内部では許されない行為だった。

95年に次々と起きた事態は、「神話」を否定するものばかりであった。しかしその後、神話を前提としない危機管理体制が組み上げられたかというと、そうではなかった。「神話」の陰に隠れて、現実を見ようとしていない分野があちらこちらに残り続けたのである。

その最たるものが、Aの危機の分野、つまり原子力の分野だった。過去の事故の教訓から、「絶対安全」という前提から抜け出し、合理的な対策をとっていれば、2011年の東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故は起きなかった。それだけではない。それまであまりにかたくなに「絶対安全」が唱えられ続けた反動で、事故後、世論は極端な原発拒否へ振れてしまった。皮肉なことだが、原子力安全神話がこの20年で一番変わることになった。

原子力船「むつ」以来、さまよい続けた原子力安全神話

これまで日本の原子力の基本政策は、国民の間に原爆による核アレルギーがあったことから、「平和利用はいいのだ」という原子力基本法をつくったうえで、これを安全神話で守っていた。原子力は全く危険がないという間違ったことを国民に信じさせてしまっていた。この建前にそぐわないことはすべて否定された。極端なくらい何ら対策を考えないでいて、原子力の問題を危機管理の問題として考えること自体を禁止していたといってよい。そういう非科学的な対応の仕方だった。われわれ危機管理専門家が、何回も警告したのに、この建前は変更されなかった。だから、歴代の自民党政権の罪はとても重いと思う。

日本の原子力開発において危機管理能力が欠如していることが明らかになった最初の例が、1974年の原子力船「むつ」の試験航海の失敗だった。その時、私は警察庁警備課長の職にあり、騒動の一部始終を裏方として目の当たりにすることになった。

こんな人たちが原子力開発をしていたのか!

最初の原子力航行実験の際、母港の青森県むつ市大湊港の地元の反対はすごかった。ホタテ貝の養殖が盛んな場所で、それが「汚染する」といって大騒ぎしていた。もちろん科学的な根拠があってではなかったが、反対運動の盛り上がりは、お祭り騒ぎで、漁民を挙げてみんな酔っぱらい、大湊の酒屋の一升瓶が全部売り切れてしまったといわれるぐらいだった。その勢いで、錨に体を結び付けたり、「むつ」が出航できないようにへさきの前にぎっしり漁船を並べたりしていた。

これに対し「むつ」は、台風接近でできた漁船の包囲網の隙をついて出港し、沖合で初臨界に達した。実験主体の日本原子力船開発事業団も科学技術庁も、自信満々であった。ところが、原子炉の遮蔽壁に設計ミスがあり、微量の放射能漏れが発生した。技術開発の世界では初期不良はつきもので、常識的なレベルの対処法を準備してさえいれば、それで済んでいたはずだった。この場合、板状の鉛で隙間を埋めればよいだけだった。しかし、技術的に問題ないという前提だった「むつ」には、そのような準備は何もなかった。

そこで航海中の「むつ」がやむを得ず採った処置というのが、驚いたことに夜食用のおにぎりで問題の隙間を埋める、というものだった。それも最初は、誰もが近づくのを嫌がったので、投げつけるという方法だった。当然うまくいくわけがないので、今度は下っ端の若い研究員が指名され、近づいて手で隙間を埋めた。この際、水杯を取り交わしたという。ともかく、このような人たちが原子力開発をやっていたのかと思えるほど、惨憺たる状況だった。

中央も危機管理できず、恥をばらまく

いうまでもなく、最悪の事態を想定するという危機管理意識の欠如がもたらしたものであるが、問題はそれだけではなかった。これも、事故など絶対に起きないという前提ゆえのことであるが、「むつ」には報道関係者を満載していた。そのため船内のドタバタが、逐一報道される羽目になった。全く無用の大騒動を起こしてしまったのである。

この放射能漏れ事故が起きた時、私は森山欽司科学技術庁長官の長官室にいた。反対運動が激しかったので海上保安庁ではとても処理ができず、青森県警機動隊と東北化学機動隊を動員して警察事案として処理するということが、関係閣僚懇談会の席で決まってしまっていた。そこで国家公安委員会代表として、あの日、森山さんのそばについていた。

森山さんのデスクの上に電話の受話器が10ぐらい並んでおり、その中に一つ赤電話があった。森山さんが「佐々君、あの赤電話は何だと思う?」というので、「いや、知りません。消防か何かとつながっているんですか」と答えたら、「いや、そうじゃないよ。あれはね、原子力船『むつ』の船長との直通電話なんだ。何があっても第一報がわしのところに入るようになっとるんだ。だから、それから対応策を考えても十分」という説明だった。ところが後日、「森山大臣、直通の電話というのはどうだったのですか」と聞くと、「それが鳴らなかったんだよな」という答えだった。ひどい話だった。監督官庁である科学技術庁にも、警察にも事故の一報は入らず、テレビのニュースのほうが先だった。

カネで黙らせて済む話ではなかった

ただでさえ反対が強かった大湊港は、当然ながら寄港を拒否。そのほかの港も当然拒否で、「さまよえる原子力船」となってしまった。どこへ行っても、その港の港湾労働者と漁協が大騒ぎした。そのたびに私は警備課長として部隊を現地に派遣せねばならず、急に忙しくなった記憶がある。

漁協がみんな漁業補償をしろといって手を出してくる、みっともない限りの状況だった。それに対応していたのが自民党総務会長の金丸信である。徹底的に札びらでほっぺたを叩くという、金権政治丸出しのやり方で結局、漁業関係者を黙らせようとした。ところが、そうなってしまうと、漁民たちの要求もとどまるところを知らなくなる。原子力船「むつ」を廃棄せよ、原子力船の指定港の波止場など港湾施設を全部破壊して元に戻せ、と。それに、約20億円かかった。

これだけの騒動になったのに政府の原子力行政は化学防護車を用意するとか、ほかの原子力施設の欠陥はないか一斉検査するとか、危機管理を強化する方向には向かうことはなかった。事故が起きうるという危機管理の大前提は、安全神話の霧の中に入れておいた。これが、原子力船「むつ」の結果なのだ。

事件・事故を扱うことができない監督官庁

そもそも、原子力開発はその後も科学技術庁が所管だった。しかし、原子力施設の事件事故の対応は科学技術庁では無理だ。第一、科学技術庁には事件事故に対する実働部隊が存在しない。それに、この役所の性質からして「事件・事故」という発想がないからだ。

それが如実に表れたのが、1995年12月の高速増殖炉「もんじゅ」の冷却材ナトリウム漏洩火災事故だった。このとき科学技術庁の審議官が記者会見で、「もんじゅで起こった事象は」と発言した。それで、記者クラブが騒然となって、「事象とは何だ。事件とか事故というべきだ」と迫ったら、この審議官は「科学技術庁の内規によると、これは事象である。人身事故に及ぶと事件。人身事故のない機械だけ壊れたとか焼けたというのは事故。ナトリウムが漏れるというのは、事件、事故という範疇にも入らない。これは事象である」と頑張った。 

私はずっとそれを聞いていて、ばかなことをいっているなと思った。そのときの新聞かテレビのコメントで、「あれを事象と呼ぶのはおかしい。嵐や雷とか、天然現象になってしまうから、ナトリウム火災を天然現象であり、人災ではないといっていることになる。嵐や雷と同じに、原子力発電所ナトリウム事故を扱うことが、内規だとすれば、内規を変えなければ駄目だ」ということを言った。

そうしたら、その審議官から、長い手紙が来た。「あなたは内規を読んでいるのか。そこに書いてあるからそれでいいんだ」という変な頑張り方を、その審議官はされた。分厚い手紙で、肉筆で書いていた。それをより目になって書いている審議官というのは、それはそれで鬼気迫るものがあるが、あきれ果ててしまった。

原発の地震対策の可能性も役所が握りつぶしていた

この事故の直前、阪神淡路大震災の発生時に、田中眞紀子さんが科学技術庁長官だった。この方だけが、「原子力発電所は地震ではまったく大丈夫だとみんないっているけれど、本当に大丈夫なんですか。調べたらどうですか」と提案した。そうすると、そういう調査を始めたとなると、やはり地震に弱いんだといううわさが出て、原子力発電所反対運動に火がつくという理由で、役所を挙げて「地震の影響は絶対ない」と頑張ってしまった。しかも、科学技術庁の事務方がいうことを内閣が支持してしまった。

あのときに地震との関係を調べるべきだった。そうすれば、3.11の福島第一原子力発電所の事故は防げた可能性が高い。

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  • [2015.04.14]

初代・内閣安全保障室長。1930年東京生まれ。東京大学法学部卒業。国家地方警察本部(現警察庁)入庁。警視庁警備第一課長の時に東京大学安田講堂事件を担当、警察庁警務局監察官の時に、あさま山荘事件を担当。警察庁警備課長、三重県警察本部長、防衛庁官房長、防衛施設庁長官を歴任。1986年に初代の内閣安全保障室長に就任。89年に退官後、著書多数。

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