シリーズ 桜物語
荘川桜——湖底に消えた故郷の思い出
[2015.03.24] 他の言語で読む : ESPAÑOL | العربية |

時代ごとに日本の風景を彩ってきた桜。戦後の復興と高度成長の陰で、多くのものを日本人は失ってきたが、この時代を象徴する桜が山奥のダム湖の湖畔にある。

故郷の代わりとなった桜

岐阜県の北部、白山と飛騨山脈の間の渓谷にある御母衣(みほろ)ダム。そのコンクリートで固められたダムサイトに、エドヒガンザクラの大木が2本そびえている。樹齢は約450年と見られ、ともに樹高は約20メートル、周囲約6メートル。毎年、5月初旬に満開の花を咲かせている。

もちろん、4世紀前からこの場所にあったのではない。本来の場所は、その隣にあるダム湖の底だった。1961年の御母衣ダムの完成に伴って水没した荘川村にあった寺院、光輪寺と照蓮寺の境内にあった村を代表する古木であった。

日本が生き残るためのダム建設

御母衣ダムの建設計画が持ち上がったのは1947年。日本が、まだ戦後の混乱の中でもがき苦しんでいた時期。復興需要が高まり続けているのにエネルギーの供給は絶望的に低水準で、電力の不足は慢性化し、各地で産業用、家庭用を問わず停電が頻発している状況だった。特に関西地方の電力事情はひどく、この地域向けの電源の新規確保が国家的な急務となっていた。52年には、電源開発促進法が制定され、特殊法人・電源開発が設立、御母衣ダム建設の主体となることが決まった。ダムはロックフィル式で高さ131メートル、総貯水量3億7000万立方メートルと当時としては巨大な計画だった。

同じ時期、飛騨山脈の反対側、富山県の黒部渓谷でも関西電力による黒部第4ダムの計画が並行して進んでいた。御母衣ダムとは比べ物にならないほど厳しい自然環境下での難工事となり、1956年から63年までの工事期間中に171人の殉職者を出した。現在の日本ならば政権の1つや2つ吹っ飛んでもおかしくないくらいの犠牲であるが、それほどエネルギーの確保は当時、資源のない日本にとって死活問題にかかわる重大事であった。

村を見守ってきた老木

高碕達之助(提供・時事)

とはいえ、日本が生き残るための犠牲とはいえ、当事者たちがおいそれと、先祖代々住み着いてきた故郷を失うことを受け入れるわけがなかった。約230戸が水没し約1200人がよその土地に移らねばならなかったのである。当然、水没予定地域の地元では大反対運動が起きた。「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」が結成され、交渉にも全く応じない姿勢を示していた。電源開発側は、初代総裁である高碕達之助(当時の鳩山内閣の経済審議庁長官)が、直接、膝詰め談判に何度も出向いた。住民の合意を得るまで強行しないという方針のもと、補償交渉は結局7年がかりとなった。1959年11月、交渉の妥結を受けて「死守会」は解散。その解散式には、高碕も同席した。 

式の後、高碕は「死守会」の幹部らと村内を歩いて見て回った。その時、このエドヒガンザクラの大木を目にした。その時、高碕は突然、思い立ってこの桜を移植し保存しようと言い出し、隣にいた電源開発職員に頼み込んだ。故郷を湖底に沈める決意をした村人たちの気持ちが響いたのであろう。

「桜伐るバカ、梅伐らぬバカ」

しかし、移植は簡単にできるものではなかった。2本の老樹の重さは合わせて73トン。これを50メートル引き上げ、600メートル動かすのである。重さだけではない。桜は外傷に極めて弱い品種であり、しかも老木である。別な場所に運んで植えたとしても、そこに根付く保証はどこにもなかった。ともかく前例のないことだった。

そこで高碕は、民間の桜研究家、笹部新太郎を直接交渉で説得、移植の指揮を引き受けさせた。翌60年11月に行われた移植作業は、2本の桜の枝と根を伐り払って工事用のブルドーザーで運ぶものであったが、その桜の無残な姿に高碕と笹部には非難が集まったという。しかし、61年の春には、2本の老木には若葉が芽吹いた。無事、新しい場所に根付いたのである。さらに10年近くかかって満開の花を咲かせるまで樹勢を回復させた。

水没した荘川村の住民たちは、毎年、桜の季節になると、ダムサイトにあるこの2本の老木の周りに集まった。幹にすがりついて涙する者もいたという。

桜でなければ伝わらなかった

このエピソードは、この時代を振り返るとき、事あるごとに語られ続けた。復興から高度成長の時期にかけて、多くの日本人が故郷を失い、あるいは捨てて行った。その中で、その故郷への思いをどんな形でもよいから残そうとした努力が、日本人の琴線に触れるのである。

しかし、なぜ高碕は、最も移転が難しく、失敗する可能性も大きかった桜の老樹を選んだのか。建物やほかのものではいけなかったのか。おそらく、彼にとって「故郷」という言葉にもっともふさわしい存在が、桜だったのであろう。そして、それは村人にとっても同じだったのであろう。半世紀以上たって、当時には想像もできなかったほどの成功と繁栄のなかにある日本人たちにとっても、毎年満開の花を咲かせる桜は、失ってきた懐かしい風景を思い起こさせるものかもしれない。桜とはそれほど日本人の心に刻まれた花なのである。

カバー写真◆荘川桜(提供・毎日/アフロ)

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  • [2015.03.24]
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