シリーズ 長崎の光と影
戦後70年目の原子爆弾被爆地「ナガサキ」を訪ねて

原野 城治【Profile】

[2015.07.17] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية |

被爆、「1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分」。長崎に原子爆弾が投下されてから70年を迎える。戦国時代から江戸時代初めまで、西欧、中国、朝鮮など海外に開かれた唯一の日本の“窓口”だった長崎。ポルトガル船の来航(1571年)からちょうど374年目の1945年8月9日、米軍爆撃機から投下された原子爆弾は、長崎駅から北西約2.5キロメートルの浦上盆地の上空で爆発、多くの死傷者を出した。8月6日の広島に次ぐ、2度目の原爆投下。今、「ヒロシマ」と「ナガサキ」という被爆地は、人類が被った“負の遺産”として厳然と存在し、「平和希求」の祈りの地となっている。戦後70年という節目の年に、長崎市の「長崎原爆資料館」や爆心地近くの「浦上天主堂」などを訪ねてみた。

生存被爆者は18万3000人、平均年齢は初の80歳超

厚生労働省が2015年7月に発表した日本全国の「被爆者健康保健手帳所持者」の統計データによると、15年3月末の被爆者総数は18万3519人で、前年同期より9200人減少した。生存者の平均年齢も80.13歳で、初めて80歳を超えるとともに、1年間に亡くなられた方の人数も過去最高となった。生存被爆者は、長崎が4万7868人、広島が8万3367人となっている。

爆心地である「平和公園」の周辺500メートルは、爆発と同時に真空地帯となりほぼ全員が死んだといわれる。しかし、その中で生き残った人が1人だけおり、高齢者ながら現在千葉県で生活をしているという。

訪れた「長崎原爆資料館」(長崎市平野町)の被爆継承課の刈茅謙さんは、「被爆者の高齢化、やがて被爆者全員がいなくなる日が来る。そういう中で、被爆の実相をどう継承していくか大きな課題になっている」と強調した。戦後70年、被爆をめぐる“風化”の問題は広島だけでなく長崎にも重くのしかかりつつある。

小倉の天候不順で、長崎に投下

では、語り継がれるべき事実とは何か。

長崎型原爆「ファットマン」。プルトニウム239を使い、球形のケースで囲んでいる火薬の爆発力で中心部を圧縮して核分裂が起きるようにしている。

米国は1945年8月、第2次世界大戦終結のため原爆投下の候補地として広島、小倉、長崎、新潟とすることを決め、8月6日に最初のウラン型原子爆弾を広島に投下した。その2日後の8日、ソ連が日本に対して宣戦布告するとともに、米国は米陸軍在グアム第20航空隊司令部に対して、「小倉を第1、長崎を第2目標」として翌9日に投下するよう指令した。

プルトニウム型の原子爆弾「ファットマン(太っちょ)」を積載したB29爆撃機「ボックスカー号」は9日午前3時前、テニアン(マリアナ諸島)を飛び立ち小倉に向かった。しかし、小倉上空は焼夷弾による煙と曇り空のため投下できず、長崎に向かうことになった。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の智多正信館長によると、「投下しないで帰ろうという意見もあったようだが、4トンの原爆を積載しているため、基地へ戻れなくなる、ということで長崎に投下した。燃料も少なくなり爆撃機はテニアンに戻れず沖縄に帰還した」という。しかも、原爆は風にも流され、目標だった三菱製鋼所や三菱兵器製作所などの軍需工場群から大きく外れ、日本の隠れキリシタンの聖地でもある浦上天主堂の近くに落下、浦上地区周辺のカトリック信者1万2000人のうち約8500人が死亡し、周辺は“原子野”と化した。

被爆で長崎市民の62%が死傷 

国立長崎原爆戦没者追悼平和祈念館の地下2階にある「追悼空間」にある12本のガラスの柱と、原爆戦没者を収めた名簿棚

長崎市原爆資料保存委員会によると、被害規模(1945年12月までの推定)は、死者7万3884人で、うち65%が高齢者、子供、女性で占められ、負傷者は7万4909人に上ったとしている。当時の長崎市の人口は約24万人だったので、実に市民の約62%の方々が死傷されたことになる。

原爆資料館の横にある平和祈念館には、毎年亡くなられた方の名簿が収められており、14年末でその数は167冊、16万5425人に上っている。名簿棚の250メートル先に原爆投下中心地がある。地上部には、被爆者が必死に求めた「水」を満々とたたえた水盤が置かれており、閲覧室には被爆者の手書き資料(3万6400人分)が保管され、同室内で閲覧できる。残念ながら、個人情報ということでインターネットなどでの公開はされていないが、手記は実に生々しい。評論家の立花隆さんが公開を強く求めてきたという。

外国人被爆者は、朝鮮人約1万2000人~1万3000人、中国人650人、その他外国人約200人が亡くなっているとしているが、正確な人数はまだ明らかにはなっていない。

ケネディ米大使も被爆体験に「心動かされた」

こうした悲惨な現実の中で、1955年に恒久平和を願うため「長崎国際文化会館」が建設された。その後、同会館は老朽化と展示機能の強化のため1996年に「長崎原爆資料館」として建て替えられ、満20年を迎えた。広さは延床面積約7950平方メートル、地上2階、地下2階の建物で、長崎市のシンボル的施設となっている。

資料館の年間来館者は、2014年度(14年4月から15年3月)で約67万1900人。うち海外からは英語圏5万9000人、韓国2万6000人、中国2万5000人などとなっている。

各国要人の長崎訪問も多く、15年4月には核不拡散条約(NPT)再検討会議議長を務めるアルジェリアのタウス・フェルキ外相顧問が訪問した。また、米国のキャロライン・ケネディ駐日大使も14年4月に長崎を初めて訪問し、長崎原爆資料館を見学した。被爆の体験談を聞いたケネディ大使は「深く心を動かされた。可能な限り、みなさんの取り組みの支援をしたい」と述べるとともに、「オバマ大統領も、核軍縮の目的のために尽力しています」と語った。

長崎市はオバマ大統領の長崎訪問を公式に要請しており、中国や韓国など近隣諸国首脳の訪問も強く望んでいる。しかし、米大統領の訪問は様々な理由からまだ実現していない。また、15年5月に国連本部で開催されたNPT再検討会議で、岸田外相が「世界の指導者に広島・長崎への訪問」を呼びかける提案を行ったが、中国などの反対で提案文言が削減されるということも起きている。日中の歴史認識をめぐる論争の余波とはいえ、被爆者には戸惑いと失望が広がった。

隠れキリシタンの聖地「浦上天主堂」を直撃 

現在の浦上天主堂。1959年に再建され、被爆した聖マリア像などが安置されている。

原爆資料館の展示で、重要なものの1つは、原爆で廃墟と化した浦上天主堂の再現模型だ。倒壊を免れた高さ11メートルの南側壁を再現している。そこには爆風で傷ついたマリア像なども置かれている。

浦上地区の隠れキリシタン(キリスト教徒)は、江戸時代の約250年間にわたるキリスト教団弾圧と迫害の歴史を乗り越え、1895年から1925年まで30年をかけて、当時東洋一と称された赤レンガ造りの大聖堂「浦上天主堂」を完成した。しかし、その20年後、爆心地から北東500メートルのところにあったため、鐘楼ドームは吹き飛ばされ完全に破壊された。

戦後、浦上天主堂を再建するかどうか、議論になった。キリスト教徒は、もともと隠れキリシタンを取り締まった庄屋の土地を信者の協力で買い取り、その地に浦上天主堂を建設したため、痕跡の保存も含めての再建を望んだ。一方で、被爆の忌まわしい記憶をできるだけ早く取り除き、新しい天主堂を建設すべきだとの意見も出された。

広島に「原爆ドーム」があって、長崎になぜないのか?

浦上天主堂は結局、1959年に鉄筋コンクリート造りの本聖堂が再建された。残骸は保存されずに資料館などに展示された。しかし、廃墟の取り壊しをめぐり、50年後の2009年に出版された一冊の本が、浦上の人々を困惑させた。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著、平凡社)だ。

結論を先に言えば、広島の原爆ドームは残されたが、浦上天主堂は日本のカトリック信者の“聖地”であるがゆえに、米国の意向などによって取り壊され新しいものになってしまったのではないかということだ。

被爆後、長崎市原爆資料保存委員会は、天主堂の廃墟を保存すべきだとの提案をしていたという。しかし、米ミネソタ州のセントポール市から姉妹都市提携を持ち掛けられた長崎市の田川務市長(当時)は、1955年に訪米し帰国すると、浦上天主堂の建て直しへと軌道修正した。これと並行して、米国内で浦上天主堂再建の支援金集め活動も展開された。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の知多館長は、「本が出版されて、戸惑いました。いろんな意見があると思いますが、真相はわかりません」ときっぱり言い切った。セントポール市と長崎市の姉妹都市提携は戦後の姉妹都市提携の第1号であり、今年はその60周年となる。平和祈念館はこれを記念して、セントポール市で8月から11月まで「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」を開催する。米国での開催は05年のシカゴ、06年のラスベガスに次ぎ3回目だ。

平和祈念・核廃絶へ遠い道のり

もし、浦上天主堂の残骸が保存されていたとすれば、「原爆ドーム」のようにいち早く世界遺産に認定されていたかもしれない。また、カトリック教の世界には、被爆の痕跡を残したまま浦上天主堂を再建することに対して、“忌避”する空気があったかもしれない。しかし、浦上のキリスト教徒は、つまらない思惑に左右されることはなかった。しかも、天主堂で被爆した聖アグネス像は、今、ニューヨークの国連本部に展示され、世界の人々に原爆の恐ろしさを訴え続けている。

それにしても、NPT再検討会議における岸田外相提案の削除問題や隣国・北朝鮮の核・ミサイル開発のエスカレートなどの現実からすれば、ヒロシマ、ナガサキが国際政治や外交の駆け引き材料に利用されることなく、平和希求と核廃絶の“遺産”となるまでにはまだ遠い道のりが必要だということだろう。実際、長崎市議会が、恒久平和を願う「長崎市民平和憲章」を決議したのは、東西冷戦の崩壊直前の1989年3月であり、被爆から実に44年後のことであった。

カバー写真=長崎「平和公園」の平和祈念像、国内外の募金で1955年に完成した

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  • [2015.07.17]

政治ジャーナリスト。1972年時事通信社入社。同社政治部記者、パリ特派員、解説委員、秘書部長、編集局次長、ジャパンエコー社代表取締役を経て、2011年から16年3月までニッポンドットコム代表理事。2006年より日本国際問題研究所評議員。2008年「イタリア連帯の星」カヴァリエーレ章受章。2009年TBS番組コメンテーター。

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