“超”老舗探訪

宇津救命丸——伝統の小児向け秘薬と多角化が支える400年の歴史

経済・ビジネス 社会

日本人なら誰でも名前を聞いたことがある子供の夜泣き疳の虫向け和漢生薬の製造元。江戸初期から続く歴史を支えたのは、家伝の秘薬を守り多角化と集中を繰り返す企業家精神だった。

栃木の田園地帯に歴史の跡

400年以上昔の戦国末期、ある旅の僧が疲れ果て、下野(現在の栃木県)の家の門前に倒れた。家の者は手厚く看護してあげたが、僧は息を引き取った。その直前、「助けてもらったお礼に」と一冊の書物を手渡した。中には、秘薬の製法が記されていた——。

そんな御伽噺のような“誕生伝説”が今に伝わるのが、子供の夜泣き、疳の虫の薬として古くから広く知られる「宇津救命丸」だ。栃木県高根沢町のJR東北本線宝積寺駅から車で田園地帯を暫く行くと、こんもりとした雑木林に囲まれた武家屋敷のような建物群が現れる。門には「宇津救命丸高根沢工場」の表札が掲げられている。この地に忽然と現れた旅の僧が、日本有数の市販小児薬メーカー「宇津救命丸」(本社・東京)の創業をもたらしたのか。

「あくまでも言い伝えで、確証はありません。ただ、元和年間の1620年の古文書が残っており、少なくともそれ以前には高根沢で製薬を始めていたことが分かっています。宇津(うつ)家初代の権右衛門は、下野の領主である宇都宮氏の御殿医を務めていました。豊臣秀吉が1590年代の天下統一後に行った朝鮮出兵に宇都宮氏が参陣しているので、その際に中国大陸の生薬や製法が下野にもたらされた可能性があると私自身は考えています」

現在の宇津善博(よしひろ)社長の長男で、「19代目」にあたる宇津善行(よしゆき)専務は、穏やかな表情で家業の発祥にまつわる持説を披露した。理由は定かではないが、宇都宮氏が1597(慶長2)年、秀吉の逆鱗に触れて改易となったため、権右衛門は現在の高根沢工場の地に帰農した。宇津家ではこの年を創業年としている。名もなき僧が教えたにせよ、朝鮮出兵の手土産だったにせよ、このころに薬の製法が確立し、以来、連綿と伝えられてきたのだ。

江戸時代に入ると、宇津家は村の取り立て役(庄屋)となり、半農半医の生活を続けた。秘薬の製法は「一子相伝」であり、長男だけが「誠意軒」と名付けられた庵に篭り、和漢の生薬を配合して小粒の丸薬に仕立てていた。

一万坪(3万3千平方㍍)に及ぶ今の工場の敷地には、木々に囲まれた落ち着いた佇まいの木造建築物「誠意軒」が残る。近くには、創業時からの膨大な量の古文書や往時の包装箱、製丸機が展示されている宇津史料館のほか、町指定文化財の宇津薬師堂も立ち、古風な存在感を醸している。

宇津救命丸高根沢工場内にある史料館。古文書や往時の機器類が並び、歴史の重みを感じさせる

江戸期に創建された宇津薬師堂。天井には56枚の薬草の絵が描かれている

静寂の中に立つ誠意軒。中は茶室風になっており、歴代当主は心身を清めて篭り、黙々と製薬に励んだ

秘薬は当初、健康増進の万能薬として、時に無料で、近郷近在の子供に限らず大人たちにも分け与えられていた。効能は徐々に評判になり、江戸時代の17世紀半ばには、五代目権右衛門により「金匱(きんき)救命丸」と命名され、江戸市中や全国の旅籠、造り酒屋に置かれて広まっていった。徳川氏の分家である一橋家への献上を始めたのもこのころだ。「金匱」には「貴重」の意味がある。滅多に手に入らない生薬が使われていることもあり、その一粒は 米一俵の価値があるとさえ言われるようになった。

寄せる荒波、数多の類似品も

明治時代になると、いよいよ本格的な販売が始まった。1906(明治39)年に日露戦争が終わったすぐ後、東京の大手薬問屋が流通を引き受けるようになったからだ。このとき、救命丸は現在のような小児専門薬になった。善行専務は「当時は、栄養状態が悪くて体の弱い子が多かったからです。新聞広告を大々的に打って、売り上げを急速に伸ばしました」と説明する。

近代化の波に乗り、金融、鉄道業への出資や肥料事業、私立の「宇津学校」の経営を含めた多角化にも乗り出した。一方で、主力製品の「救命丸」の名はますます定着。商標登録制度が未確立だった時代にあって、その人気にあやかった類似品も、全国で数多く出回るほどだった。

ところが、昭和時代の初頭に日本中を襲った昭和恐慌下、多角経営の負担増もあって資金繰りが悪化。東京の薬業会社に販売権を譲渡し、1931(昭和6)年、救命丸の生産に特化した前身の会社法人「宇津権右衛門薬房」を設立した。外国人の少女のイラストやサンタクロースを使ったモダンな広告を雑誌に載せるなどして認知度が高まり、社業が再び軌道に乗った。

戦後になると、ベビーブームの強力な追い風に乗った。売り上げは毎年2~3倍の勢いで伸びたのだが、ここで経営陣がコスト管理に失敗し、55(昭和30)年に2度目の経営危機に陥った。それでも、再び別の薬業会社から販売面での支援を受け、社名を「宇津救命丸」に変更し、本社も現在の東京都千代田区を移して再出発することができた。その後、第2次ベビーブームの1970年前後には、売り上げがピークの約20億円になった。善行専務は次のように続けた。

「近代以降の当社の決算書を見ると、約30年ごとに危機が訪れています。そのたびに救いの手が差し伸べられてきた歴史があります」

その復活力も、何百年もの間、高い需要を維持してきた主力製品「救命丸」があればこそだった。製法は今も大きくは変わらず、ジャコウジカの分泌物で、精神の安定や強心の作用があるジャコウ、牛の胆嚢の結石を乾燥させたゴオウをはじめとする動物性生薬と、消化促進作用のあるニンジンやカンゾウといった植物性生薬を配合して作る。昔と違うのは、国の認定基準に則った工場で、最新の設備を使って製造している点だ。西日本にも同様に歴史のある小児五疳薬として「樋屋奇応丸」(本社・大阪)があり、長く人気を二分してきたのだ。

善博社長も、現在もなお救命丸は大きな可能性を秘めていると強調した。

「当社で数年前、赤ちゃんを育てる母親にアンケートをとると、一番の悩みは『大泣きすること』でした。情報が溢れて、子供も大人と同様にストレスが溜まりやすい環境になっている。ストレスに起因することの多い疳の虫や夜泣きの薬には根強い支持があります」

少子化を乗り切る新商品を模索

だが、幾度となく困難を乗り越えてきた老舗も今、重大な転機を迎えている。善博社長は近年の経営環境について「厳しさは増す一方だ」と訴えた。

「深刻な少子化に加えて、小売の業態が個人店舗からチェーン展開するドラッグストアに移行するなど、流通の仕組みが激変しています。最近は、以前と比べて親も子供にあまり薬を与えたがらない。創業以来、最大の試練と言っていいくらいです」

ここ数年の売上高はピーク時の6分の1にまで減り、3億~4億円で推移している。かつて巨費を投じて盛んに流していたテレビのCMも、効果がさほど見込めなくなり、5年ほど前に止めた。

善博社長は「時代の変化に付いていかなければ社業の存続は危うい」と、既に80年代半ばに子供用の風邪薬、約20年前には大人も使えるスキンケア用のベビーローションを発売しており、今では救命丸と合わせて3本柱の商品になっている。

救命丸の社内売上げシェアは、30年前にはほぼ100%だったが、今は3割ほど。小児薬に絞った110年前とは逆に、多商品化を進めている。義博社長は「今こそ新機軸を打ち出すべきだと考えています。代々伝えられてきた『自らの利益よりも、人のために役立つ』という信条を守りつつ、経営そのものを変えなければ」と、危機感をあらわにする。

将来を担う現在37歳の善行専務も、同じ思いを共有している。これまでもそうだったように、時流に乗った商品開発や新分野の開拓によって切り抜けようとしているのだ。その一つが、2015年春に発売した熱中症(暑気あたり)の薬「五苓散」だ。

「救命丸のノウハウを生かし、生後3ヶ月の子供から大人まで服用できる漢方製剤で、発売直後から数万個があっと言う間に売れました。温暖化の影響もあって、夏の暑さは過酷になっています。来年は早めに市場に投入しようと考えています」

流通戦略についても、前年度比50%で売り上げが伸びているというネット販売の強化や、自社ホームページの活用にさらに力を入れる。コストを抑えるため、同業他社との物流の共同化も構想する。「売り上げを5年以内に10億円に戻す」ことを目標に、打つべき手を次々と打っていくという。

最新の製造機械が並ぶ現在の高根沢工場の内部(提供・宇津救命丸)

善行専務は、東日本大震災のあった2011年の夏、高根沢の地元との結びつきを強めようと、江戸時代から昭和中ごろまで工場の敷地界隈を舞台に開いていた「一万燈祭り」を約半世紀ぶりに復活させた。今では毎年、多くの子供たちが楽しみにするようになった。原点に立ち返り、自社の危機を救ってきた“秘薬”のような救命力を再び呼び起こそうとしている。

カバー写真=宇津救命丸の宇津善博社長(左)と長男の善行専務。「危機を乗り切るべく、新しい道を模索しなければ」と口をそろえる

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