ハンセン病の差別撤廃を求めて

終わらないハンセン病元患者・家族の名誉回復

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ハンセン病の患者を強制隔離してきた「らい予防法」が廃止されて20年が経過した。国は隔離政策の誤りを認め、名誉回復に向けた取り組みを続けているが、元患者・家族の多くは今も差別や偏見があると感じている。

絶たれた家族との絆

「生きることは闘い。子どものころは泣き虫だった私も一つ一つの悩み、苦しみを克服して、こんなに強くなった」「人間に生まれたことを誇りに思って、これまでの人生を生きてきた。ハンセン病の患者・元患者は、毎日人一倍努力しているのです」

東京都東村山市の国立ハンセン病資料館。隣接する多磨全生園に14歳で入所し、今も療養所で暮らす平沢保治さん(89)は資料館の語り部として、団体で見学に来た小中学生を相手に年100回以上も講演する。隔離政策に翻弄(ほんろう)された自分の人生、療養所での過酷な生活を紹介すると同時に、「夢と希望を持ちなさい」「絶対に命を粗末にしないで」と語りかける。

小学生に講演する平沢保治さん

病気による言われなき差別・偏見を受け続けてきた立場でありながら、「人間の尊厳」「生きる喜び」について懸命に説く平沢さんに、子どもたちは次第に引き込まれる。

「世界の障がい者との交流で、今では22カ国に友達がいる。これまで11カ国を訪問し、日本国内もほとんどの場所に行きました」。ここで“おや、ちょっと自慢話になってきたかな”と思った大人は、すぐに自らの不明を恥じることになる。「それなのに、私の両親の家にはいまだに行くことができない。親の墓参りさえ『昼間にはするな』と言われ続けている」と平沢さんは続けた。

社会との関わりだけでなく、家族との絆まで絶たれた理不尽さが胸を突く。「ハンセン病という病気は治っても、社会の中ではまだ治っていない。それが現実です。人間には差別の悪魔が住んでいる。それを若い皆さんが、一つでもなくすようにしてほしい」

根強い社会の偏見、一部に変化も

画期的な治療薬「プロミン」が1940年代に開発され、治る病気となってからも、日本政府はハンセン病患者の強制隔離政策を長く維持。このため、1996年の「らい予防法」廃止から20年たっても病気に対する社会の理解が進んだとは言い難い。

一方、少しずつだが前進もある。平沢さんは「私の語りを聞いてくれた小学生が成長し、おじいちゃん、おばあちゃんと話をして偏見を正してくれているケースもたくさんある」という。多磨全生園では、園内の桜並木が花見の名所となり、今では周辺地域から多くの人がやってくる。

多磨全生園の入居者地区。

入居者地区には、長屋形式の住宅が並ぶ

2015年には一軒の小さなどらやき屋を舞台に、ハンセン病元患者である老女の社会復帰の願いと、それをめぐる地域社会の摩擦を描いた小説『あん』が、国際的な映画祭で数々の受賞歴を持つ河瀬直美氏の脚本・監督で映画化。多磨全生園と地元・東村山市がロケ地となり、撮影は地元市民らの協力を得て進められた。

国立ハンセン病資料館の館長代理を務める黒尾和久学芸部長は、多磨全生園に対する周辺地域の理解は「長い時間をかけて、少しずつ前進してきた」と語る。「らい予防法」廃止を契機に、国の補償と謝罪・名誉回復を求める元患者らの意識は「大きく変わった」とも言う。かつての療養所入所者の闘いは待遇改善が中心で、多くは療養所の中で完結していた。だが、法廃止後は入所者らが市民運動とつながりを持ち、その主張がより広く社会に届くようになった。

高齢化する入所者:「忘れてほしくない」

全国に14ある国立、私立のハンセン病療養所で暮らす元患者は2016年5月1日現在、1584人。平均年齢が83歳を超え、介護が必要な人が増えている。全国ハンセン病療養所入所者協議会の15年の調査では、「認知症」が26.4%、「寝たきり」が8.7%、「食事の介助が必要」は26.9%(複数回答)に上った。

元患者は後遺症で目が不自由だったり、知覚まひを抱えていたりするケースもある。家族から縁を切られたり、社会の偏見・差別を恐れたりして療養所を「終の棲家(ついのすみか)」として暮らしている人が多く、穏やかな生活を守るためにも国による介護サービスの充実が求められている。

かつては全国で1万床前後あった国立療養所は、規模を大幅に縮小。中長期的な課題として、跡地利用の在り方をめぐる議論も出始めている。入所者からは「国の誤った強制隔離政策があったことを記憶にとどめ、人権について考える場所としてほしい」「自分たちが生き抜いた地を忘れてほしくない」などとして、全園の永久保存を求める声が上がっている。

多磨全生園で戦前の1928年から77年まで使われた、軽症独身男子が寝起きした「山吹舎」。2003年に修復保存された。

昭和初期(1920年代)の山吹舎の模様を再現した、国立ハンセン病資料館展示室のジオラマ。

1920年ごろの全生病院(多摩全生園の前身)の縮尺模型。患者地区と職員地区がはっきり分けられている=国立ハンセン病資料館

療養所で通貨の代わりに使われた「園内通用券」。患者の入所時、一般の通貨は強制的にこの特殊通貨に換えさせられた。(1953年に全ての療養所で廃止)=国立ハンセン病資料館

残された問題:家族の苦悩

20年たって、新たに表に出てきた問題もある。国の隔離政策でハンセン病に対する差別、偏見が助長され、家族の離散や苦しい生活を強いられたとして、今年2月から3月にかけ、元患者の家族568人が国に損害賠償と謝罪を求めて熊本地裁に提訴した。家族の被害をめぐる集団訴訟は初めて。民法が規定する損害賠償請求権が消滅する直前でのアクションだった。

原告らはハンセン病の診断を受けた親が療養所に収容されたことでいわれなき差別にさらされ、学校や就職、結婚など、人生のあらゆる場面で苦しみを受けたと訴えている。根深い差別と偏見を恐れ、原告の多くは実名を公表できないでいるという。

元患者本人に対しては、国の強制隔離政策は憲法違反だったとして国に賠償責任を認める判決が2001年に確定し、補償金が支払われている。しかし、家族は救済の対象になっていない。

ハンセン病に対する差別が残した禍根はいまだ消えていない。

ハンセン病と隔離政策

らい菌によって神経が侵されるハンセン病は、顔や手足が変形する後遺症が出ることから偏見・差別の対象になった。日本では1907年に国が患者の隔離を開始。特効薬が開発され、世界の潮流が外来医療推進に方針転換した後も、「らい予防法」廃止の96年まで隔離政策が続いた。都道府県が主体となり、官民一体で患者を探し出し、療養所に強制収容する「無らい県運動」もあった。療養所での入所者は園名(偽名・仮名)の使用や断種、堕胎の手術を強いられたり、家族とのつながりが絶たれたりした。患者だけでなく、その家族・親族も地域社会から差別を受けた。

文と写真=石井 雅仁(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真=人権学習で国立療養所・多磨全生園の納骨堂を訪れる小学生。開園以来4000人以上の入所者が亡くなったが、多くは家族の墓に入れないままここに眠っている

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