日本の自然:破壊と再生の半世紀

大空に舞うガンの群れ(上)

社会

日本の各地で普通に見られたガン。明治時代の乱獲によって5000羽まで生息数が激減してしまった。シベリアからの渡り鳥であるガンの危機を救ったのは、ソ連から届いた1通の手紙だった。

私にはこんな原風景がある。第2次大戦が終わって数年後、小学校低学年だった私は、疎開先から焼け野原の東京に戻ってきた。秋のある日だった。空を見上げると幾重にも編隊を組んだ数十羽のマガンの群れが、澄み切った大空を鳴き交わしながら渡っていった。

あちこちから「雁行(がんこう)だ」「雁が音(かりがね)だ」という声が上がった。これを母親に報告したら、歌ってくれたのが子守歌「里ごころ」(北原白秋作詞、中山晋平作曲)だった。

「雁、雁、棹(さお)になれ、さきになれ…」

当時の東京でガンはけっして珍しい鳥ではなく、季節を告げる風物詩だった。あれ以来、東京の空にガンを見ることはなかった。だが、10年ほど前からだろうか、ガンの編隊飛行を目撃したという話を各地で耳にするようになった。

マガンの沼へ

10月初旬の北海道西部の石狩平野。中央を流れる石狩川近くに、3ヘクタールほどの小さな沼がある。宮島沼だ。沼を取り巻く木々が色づきはじめた。その林をかすめるようにマガンの編隊のシルエットが浮かび上がった。

数羽から数十羽が、縦一列になり、横一線になり、V字型に変わり、波が寄せるように沼を目指して押し寄せる。上空で突然に編隊は乱れて、木の葉のように水面に舞い降りてきた。ケェーッ、ケェーッとかん高い鳴き声で呼び交わす。

夕陽を浴びながら、宮島沼のねぐらに戻ってきたマガン(撮影=中村 隆)

シベリアから3000キロもの長旅を終えて、いま到着したのだ。やがて、付近の水田で餌の落ち穂をついばんでいた群れも戻ってきて、沼はガンであふれかえり鳴き声がうるさいほどだ。思わず小林一茶の句を思い出す。一茶は雁を詠み込んだ句が448もあるほど雁が好きだった(『一茶俳句集』 岩波書店)。この句は、青森・陸奥湾沿岸の外ヶ浜で詠んだものだ。

「けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ」(長い旅も終わって今日からは日本の雁になった。 安心して休むがいい)

宮島沼はラムサール条約によって、2002年に「国際的に重要な湿地」として登録された。マガン以外にも、オオハクチョウ、ダイサギ、カンムリカイツブリ、ハシビロガモなど多くの種類の水鳥が飛来する。宮島沼は最北で最大のマガンの飛来地であり、世界的に見ても有数の中継地であることが登録の理由になった。ここで栄養を補給し体力を蓄えて東北や北陸の各地、さらに一部はアジアの国々へと散っていく。

宮島沼のマガン(写真提供=宮島沼水鳥・湿地センター)

春の「北帰行」前に沼に集結するマガンの調査を行ってきた「宮島沼水鳥・湿地センター」などによると、1975年から88年までは、おおむね500羽以下にとどまり、渡りの季節にも沼は閑散としていた。それが97年以後4万羽を超えるようになり、2015年には約8万羽とこれまでの最多記録を更新した。宮島沼から、オホーツク海を越え、カムチャツカ半島を経由してシベリア各地の繁殖地へと戻っていく。

全国的に生息

古くから中国語の「雁」と表記され、ガンともカリとも読まれてきた。ガン類の総称で特定の鳥を指すものではない。世界で14種が知られ、日本にはマガン、ヒシクイ、シジュウカラガン、コクガンなど9種が記録されている。このうちの9割までがマガンだ。いずれも越冬のため9月から3月まで日本に滞在する。

マガンは全体に灰色を帯びた暗褐色。マガモとハクチョウの中間ぐらいの大きさだ。おでこが白いことから中国語では「白額雁」、英語のwhite-fronted goose も同じ意味だ。古くから親しまれ、民話、詩歌、文学、故事などに数多く登場し、屏風(びょうぶ)絵など絵画の題材にも数多く取り上げられ、家紋のモチーフとしても人気があった。

マガン。グリーンランド、カナダ、アラスカ、シベリアなどの北極圏で繁殖し、ヨーロッパ、北アメリカ、日本など温帯地方で越冬する渡り鳥。最も代表的なガン(イラスト=井塚 剛)

万葉集にはガンを詠んだ歌が80もある。ホトトギスに次いで多い。江戸幕府の公式記録『徳川実紀』に記載された将軍の狩猟の記録には、ガンの仲間467羽も登場して、ツル類をしのいでもっとも数が多い。

一方でその肉も好まれ、縄文時代の貝塚からも骨が見つかる。奈良・平安朝以来、高級食材として天皇家や貴族ら特権階級に愛されてきた。江戸幕府は一時期、野鳥の食用を禁止したこともあったが、ガンの肉はごちそうとされてきた。おでんに欠かせない「がんもどき」は精進料理で肉の代用品としてつくられた。一説にガンの肉に味を似せたとされ、それだけガンはおいしいとされていた。

八代将軍徳川吉宗は1734年に、本草学者の丹羽正伯(しょうはく)に命じて全国の動植物・鉱物を網羅的に調査させ、「享保・元文諸国産物帳」としてまとめた。原本は残されていないが、農業史家の安田健によって藩などに残された「控」から内容が復元された。これによって、当時の野生の動植物の全国的な分布を知ることができ、江戸時代がいかに豊かな野生生物に恵まれていたかが想像できる。

再現された産物帳は日本列島の約4割の地域をカバーし、藩や天領から報告された動植物が絵図とともに克明に記載されている。たとえばゴキブリは「あまめ」という名で、薩摩藩からの報告にある。オオカミが東北から九州まで各地方にいたことも分かり、絶滅したカワウソも全国に生息していた。

その中のガンの分布を追っていくと、産物帳が残っていない一部の地域を除いてほぼ全国でガンが見られた。それだけ日本全国どこでも見られる、ありふれた鳥だった。

歌川広重「東都名所 高輪之明月」(太田記念美術館蔵)

森鴎外の小説「雁」は、東京・上野の本郷界隈が舞台。東大医学生の主人公と、貧しい親を助けるために高利貸しの妾になった、美しい女性とのはかない恋の物語だ。主人公が不忍池で、たまたま投げた石が雁に当たって殺してしまう。「水の面を十羽ばかりの雁が往来している」と書かれていることから、小説が雑誌に連載された1911 ~13 年当時は、都心にガンがいたことが分かる。

受難時代

明治時代に入って、ガンの受難がはじまった。それまでは網猟やワナ猟だったのが、銃猟の解禁とともに乱獲が激しくなった。林野庁の狩猟統計をみると、1962年までは広島、高知、宮崎の3県を除く全都道府県で雁の狩猟の記録がある。

67年以降、西日本を中心に狩猟羽数が急減しはじめた。「雁を保護する会」の宮林泰彦編の「ガン類渡来地目録」よると、40年代には全国で約6万羽が飛来していた。それが70年には約5000羽まで落ち込んだ。また、150カ所あった渡来地も25カ所にまで激減した。

50年代後半から60年代にかけて、高度経済成長と歩調を合わせるように各地からガンが姿を消していった。湿地や沼地は埋め立てられて工業地帯に変わり、護岸工事、宅地やゴルフ場の造成で越冬地が失われていった。過去100年間で全国の湿地の約6割が消失したとされる。ガン類は東北地方や日本海側の水田地帯へと追いやられ、しかも狭い場所に押し込められて過密な生活を強いられることになった。

このころこんな「事件」があった。73年のことだ。山階鳥類研究所の山階芳麿所長に呼び出されて、ソ連科学アカデミーから届いた1通の手紙を見せられた。「シベリアから飛び立った渡り鳥のうち、北米や欧州や中東へ行く渡り鳥は、毎年ほとんど同じ数が戻ってくるのに、日本や日本を経由して南へ行った鳥の帰ってくる数は非常に少ないのは、どうしたわけか」という詰問状だった。

「日本列島は渡り鳥が多く、アジア、ロシア、北米、オーストラリアなどと行き来する渡り鳥が多い。渡り鳥は日本だけのものではなく、国際的な存在だということを誰も真剣に受け止めてくれない」と所長は不満気だった。

だが、その翌年4月、第72回国会の衆議院外務委員会で、山階所長の訴えを聞いた加藤シヅエ議員が、詰問状を読み上げて環境庁(現環境省)の担当者にただした。答弁に立った課長は「わが国、最近非常に大きな経済発展を遂げましたのでございますが、その過程におきまして、ややこの種の配慮に欠けたということがあったと、事実であろうかと思います」(速記録から)としどろもどろの答弁で、渡り鳥の保護を約束した。国会が真剣に渡り鳥の保護を議論した記念すべき委員会になった。

バナー画像:宮島沼の上空を飛ぶマガン(写真提供=宮島沼水鳥・湿地センター)

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