シリーズ 日本の自然:破壊と再生の半世紀
虐殺から生き残ったアホウドリ(下)

石 弘之【Profile】

[2017.02.15] 他の言語で読む : ENGLISH | ESPAÑOL | Русский |

一時は絶滅宣言まで出されたアホウドリ。鳥島気象観測所の所員によってその生存が確認されたのを機に調査や保護活動がスタート。その復活に人生をかけた一人の青年によってさまざまな救出作戦が展開されることになった。

羽毛のブーム

かつては贅沢(ぜいたく)品だった羽毛(ダウン)の布団が欧米で広まってきたのは、18世紀末の産業革命によって大量生産ができるようになってからだ。羽毛は水鳥の胸のあたりから採る。吸湿性や保温性に優れていて軽いので人気が高い。とくにアホウドリの羽毛は高値で取引された。

布団なら1枚で1.1~1.3キロ以上が使われる。羽毛は1羽から10~20グラムのわずかな量しか採取できないから、1枚の布団をつくるのに約100羽の鳥を殺す必要がある。現在ではほとんどが、化学繊維かガチョウかアヒルのものだ。

乱獲と急減

明治の実業家玉置半右衛門(たまおき・はんえもん、1839~1911年)は1885年ごろから欧米へ羽毛の輸出をはじめ、莫大な利益を上げた。この成功は新聞や雑誌にも大きく取り上げられ、南洋開拓ブームの火付け役になった。一獲千金を夢見た人々がぞくぞくと乗り込んできた。膨大な数のホウドリが殺され、小笠原諸島では北部の聟島(むこじま)列島に生息するだけになった。

80年代の終わりには、羽毛採取業者は新たな生息地を求めて尖閣諸島に進出。日清戦争を経て95年に台湾が日本の領土となると、その北部の無人島群、さらにミクロネシアのアンガウル島、カロリン諸島へと押し寄せた。鳥島のアホウドリを獲り尽くした玉置も、1900年に南大東島へと向かった。

米国の管理下にあったミッドウェー諸島、北西ハワイ諸島などにも羽毛業者が押し寄せた。それらの島では羽毛をむしり取られた大量のアホウドリの死体が、海岸に積み上がっていた。いずれも密猟されたものだった。

それを発見した米国海軍調査船の報告から、日本人は残酷だという非難が米国内で巻き起こった。当時米国内で高まっていた日本人排斥運動にもつながった。ハワイの米国海軍軍務局は03年に、在ハワイ日本総領事にハワイ周辺海域での鳥類捕獲を中止するよう要求した。それでも密猟は止まらなかった。

この報告を受けたT・ローズベルト大統領は、北西ハワイ一帯を「パパハナウモクアケア海洋国立遺産」に指定した。ここは現在では世界最大級のアホウドリ類の生息地であり、世界遺産にも登録された。

ついに絶滅宣言

1930年に鳥島を訪れた山階所長は、アホウドリは2000羽ほどしか生き残っていないと報告している。3年後に所長に派遣された山田信夫の調査では、わずか数十羽に激減していた。山階所長らの働きかけで33年に鳥島は禁猟区になった。

第二次大戦前後のアホウドリの様子はよくわかっていない。戦後いち早くアホウドリの調査に来島したのは、米国の天然資源局の鳥類学者オリバー・オースチン博士だった。

46年から49年まで占領下の日本で勤務し、狩猟法の改革や野生動物の保護に尽力した。数多くの動物標本を採集するとともに、戦後間もない東京をカメラにおさめた。その写真はインターネットで見ることができる。

オースチンは 49年の3月から4月にかけて、伊豆諸島南部から小笠原諸島北部を船で調査した。海が荒れて鳥島には上陸できなかったものの、海上から繰り返し観察した結果、アホウドリは絶滅してしまった可能性が高いと発表した。これが「絶滅宣言」になった。

生き残り再発見

第二次戦争後、鳥島は台風観測の基地として重要になり、気象庁は1947年に鳥島気象観測所を開設した。65年に火山性地震で閉鎖されるまで、18年間職員が常駐していた。アホウドリを再発見した功労者は観測所の所員だった。51年1月、島内の巡視をしていた山本正司が、島の東南端の断崖に囲まれた急斜面に10羽ほどが生き残って繁殖しているのを見つけた。

再発見後、鳥島観測所の職員が保護活動にかかわり、所員の交替や物資搬入のため運航されているわずかな便船を利用して、研究者による調査も開始された。この当時確認されたのは最大で42羽だった。58年には天然記念物、62年には特別天然記念物に昇格した。

観測所の閉鎖後は島への船の便はなくなり、アホウドリの状況は分からなくなった。73年4月、英国の鳥類研究者ランス・ティッケル博士と山階鳥研の吉井正が英国の軍艦で鳥島を訪れた。このときは、成鳥が25羽、ヒナが24羽確認されただけだった。

このティッケル博士のセミナーに出席した京都大学院生だった長谷川博(現、東邦大学名誉教授)は、博士の話に感銘を受けてアホウドリの保護、研究にのめり込むようになった。もっとも驚いたのは、孤島の鳥の調査を英国海軍が支援したことだったという。今日のアホウドリの復活には、この鳥に人生をかけた長谷川の情熱が推進力になった。鳥島での生活は通算2473日におよぶほど島に通いつめることになった。

アホウドリの復活に人生をかけた長谷川博

順調な回復

長谷川が頭を悩ますことがあった。卵が生まれても繁殖の成功率が半数にもおよばない。繁殖地の傾斜が急で植生が貧弱なうえ、火山性の表土が崩れやすい。このために土砂で卵やヒナが生き埋めになるためと考えた。

環境庁(当時)と東京都は、この指摘に基づいて、1981年から繁殖地にハチジョウススキを移植し防砂工事を行った。もうひとつの心配は、アホウドリの大部分が繁殖している鳥島で、いつ火山が噴火してもおかしくないことだ。

環境庁(当時)によって行われたアホウドリの繁殖地の整備事業

繁殖地は島の南東側の斜面に集中していたことから、島の反対側の西側斜面にもう1カ所新たに繁殖地をつくる作戦が91年に開始された。この場所は草が生えた緩斜面で環境条件がよいため、繁殖の失敗が少ないことが期待できた。

その年の春、日本のバードカービング(鳥の木彫り)の第一人者内山春雄が、アホウドリの危機的な状態を知って、保護に使えないかと本物そっくりのデコイ(おとりの模型)をつくって山階鳥研に持ち込んだ。

バードガービングの第一人者である内山晴雄によって作られたアホウドリのデコイ

デコイを使ってアホウドリを安全な場所に誘導して、新たな繁殖地をつくれるはずだ。佐藤らは資金集めに奔走して、97体のデコイを作った。デコイを並べて鳴き声を流し、集団繁殖地があるように見せかけて呼び寄せる。この計画が進められていった。

92年にはアホウドリは「国内希少野生動植物種」に指定され、環境省も本格的に保護に乗り出した。アホウドリは太平洋北部に渡っていくため、米国でも絶滅危惧種に指定された。その保護のために米国政府は山階鳥研に資金を援助し研究者も送り込んだ。

デコイ作戦は大成功だった。95年秋に新繁殖地ではじめて産卵が確認され、2005年6月までに11羽のヒナが巣立った。最新の調査では、繁殖したつがいは274組に達し鳥島全体の3分の1を占めるまでに成長を遂げた。

アホウドリの親鳥とひな

鳥島の第2の繁殖場所の成功を受けて、06年には繁殖地を別の島に分散させる計画がスタートした。ヒナを聟島まで運び、そこで人工飼育して自然に返した。真っ先に島に戻ってきたのがイチローだった。

劇的なアホウドリ復活は、世界から注目を集めた。それまでアホウドリのような大型鳥では、ほとんど前例がなかったからだ。ニュージーランドには14種ものアホウドリの仲間がすむが、そのうちの数種は絶滅の危機にある。日本の成功をお手本にして2種のアホウドリの増殖計画に乗り出した。

5000羽が目標

鳥島全域で年々巣立ち数が増えている。推定生息数は1980年約250羽ほどだったのが、93年約600羽、99年にはついに待望の1000羽を超えた。2009年には2570羽、16年3月の調査では、総個体数は約4220羽に達した。

国際自然保護連合(IUCN)は、危機的状況にある野生生物のリストをつくり、その危険度を7段階に分けて発表している。アホウドリは4番目の「絶滅危惧種」だったのが、ひとつ下がって「危急種」になった。絶滅の危機が遠のいた。

アホウドリのコロニー

長谷川はかねがね、5000羽まで回復させることを目標にしてきた。現在の増加速度からみて、2019年にはこの目標が達成される見込みだ。「アホウドリ移住プロジェクト」がそのカギを握っている。もうひとつの目標は、「アホウドリ」という屈辱的な名前を「オキノダユウ(沖の太夫)」へ改称することだ。山口県長門地方で親しまれた古名である。確かにこの優美な和名こそがふわしい。

文中敬称略

写真提供=長谷川 博
バナー写真:鳥島に設置された多数のデコイ(撮影=長谷川 博)

この記事につけられたタグ:
  • [2017.02.15]

環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。

関連記事
このシリーズの他の記事

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告