シリーズ よみがえる日本の環境
千羽鶴となったタンチョウ(上)

石 弘之【Profile】

[2017.03.03]

瑞鳥として親しまれているタンチョウ。かつては日本全国で見掛けることができたが、明治時代の乱獲で本州から姿を消し、絶滅が危ぶまれた。しかしタンチョウを愛する人々の保護活動によって、その生息数は33羽から1800羽へと奇跡的な回復を遂げた。

朝の饗宴

釧路市郊外の「阿寒国際ツルセンター分館」。2階の展望台に上がると、眼前には大きな雪原が開けた。ここは11月から3月にかけて餌やり場になる。目の前で50羽ほどのタンチョウが、まかれた餌を忙しげについばんでいる。

そこにオオハクチョウの一群が舞い降りた。10頭ほどのエゾシカも姿を現した。100羽を超えるマガモも群れに加わった。タンチョウの餌を狙って集まってきた。朝の饗宴(きょうえん)のはじまりだ。

タンチョウの餌場にやってきたエゾシカ

雪原の上でタンチョウが優雅に舞う。オスが「クォーッ」と鳴くと、すくにメスが「カッカ」と応える。くちばしから白い息が立ち上る。2羽が同時に雪を蹴って大きく飛び上がった。そろそろ、カップルをつくる準備だ。

雪原を蹴って飛び上がるタンチョウのカップル

1950年、この場所で地主が大きくて白い数羽の鳥がトウモロコシの茎をつついているのに気づいた。絶滅したと思われていたタンチョウだった。そこでタンチョウへの餌まきをはじめたが、すぐには餌付かなかった。52年のある吹雪の朝、タンチョウが初めてまいた餌を食べ、これをきっかけにして、この場所で本格的な給餌が行われるようになった。

その後、調査研究や教育活動のために、このセンターが建てられた。給餌場に300羽を超えるタンチョウが集まる光景は壮観だ。観光の人気スポットになり、外国人も含めて多くの観光客でにぎわう。今や「ハクチョウ」「流氷」とともに「道東三白」、つまり北海道東部の「白い観光の目玉」である。

鶴居村にある餌場には、多くの観光客がやってくる

1800羽を超えた

会館前の展望台では、数人が双眼鏡をのぞきながらカウンターを手にタンチョウを数えている。2017年の1月から2月にかけて、釧路湿原周辺では恒例の「NPO法人タンチョウ保護研究グループ」によるタンチョウの総数調査がつづけられた。今年で32回目。北海道がもっとも寒い時期で、外気温が氷点下20度を下回ることも珍しくない。この時期に調査が行われるのは、タンチョウが餌場に集まってきて数えやすいからだ。

同研究グループの理事長・百瀬邦和のもとに集まったのべ70人のボランティアが、調査にあたる。学生、社会人、獣医、研究者、動物園職員、翻訳家ら19歳から85歳までのタンチョウが好きでたまらない人たちだ。東京都や兵庫県からも参加する。第1回目から参加している人もいる。

タンチョウ総数調査のミーティング風景。中央にいるのが、NPO法人タンチョウ保護研究グループの百瀬邦和理事長。

防寒服や防寒靴で身を固め、携帯カイロをいくつも服に貼り付けて、餌場、飛行ルート、ねぐらなどに分れて待機、二重三重にチェックして数えていく。今回の調査の最終集計はまだでていないが、過去最高の1800羽前後に達する可能性が高いという。

「阿寒国際ツルセンター分館」の餌場にやって来たタンチョウの総数を調べる。

厳冬期の生息数調査の次は、4〜5月の産卵期に軽飛行機をチャーターして空から営巣場所やつがいの成否、環境の変化などをつかむ。初夏に生まれたヒナのリング(足輪)を装着するためだ。トランシーバで連絡を取り合いながら人海作戦でヒナを捕獲。血液を採取しリングをつけて放す。寒さに代わって、蚊やアブやダニとの戦いでもある。

軽飛行機に乗って、営巣場所などの調査を行う(写真提供=百瀬邦和)

リングから個体を識別して、生存率や繁殖成功率、つがいの入れ替わりなど、タンチョウの行動や生態が解き明かされつつある。血液調査で血縁関係も明らかになる。

これだけ長期にわたる野鳥の調査は世界的にも珍しく、調査にはタンチョウが生息する中国、韓国、ロシアの研究者が参加することもある。極寒の中の熱心な調査に、外国勢は「日本人はすごい」と驚きの声を上げる。タンチョウ保護研究グループは、2016年「日韓(韓日)国際環境賞」を受賞した。東アジア地域の環境保全に貢献した団体・個人に贈られる賞だ。

愛されてきたタンチョウ

優雅で気品あふれるタンチョウは、古くから日本や中国で愛されてきた。弥生時代の銅鐸(どうたく)の線画にはカメととともに描かれ、万葉集では46首の「たづ」を詠んだ歌がある。「たづ」はハクチョウなどの白い大きな水鳥の総称だが、その多くはツルとみられる。

大和絵にはタンチョウの傑作がある。仏教画、墨絵、ふすま絵、版画などでも人気のあるモチーフになった。江戸の絵師、伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)は花鳥画に好んでタンチョウを取り上げた。

「鶴ほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がない」(※1)といわれるほど身辺にあふれている。縁起のいい鳥として、のし紙や水引、紙幣、家紋、和服の柄、漆器や陶磁器や武具などさまざまな工芸品の意匠に使われてきた。

さらに民話に登場する「鶴の恩返し」は、全国各地に伝わっている。戯曲やオペラにもなった。「鶴は千年、亀は万年」といわれる長寿の代名詞でもある。千羽鶴は佐々木禎子(ささき・さだこ)さんが、原爆症で亡くなる12歳の時に回復を祈りつつ折り紙のツルを折りつづけたことから、平和のシンボルにもなった。

江戸時代は将軍の鳥だった

歌川広重「名所江戸百景 蓑輪金杉三河しま」(アフロ)

江戸末期の浮世絵師、歌川広重は「名所江戸百景」の中で江戸に飛来していたタンチョウを描いている。絵の上の方から、タンチョウの上半身が覆い被さるような構図が斬新だ。この絵が描かれたのは1856〜58年、場所は荒川南岸の湿地帯とみられる。この辺りは、将軍家の御狩場だった。

ツルの肉は、高貴なものとされ捕獲は厳重に管理されていた。鶴御成(つるおなり)は、将軍が鷹狩でツルを捕らえる特別なイベントだった。そのために、タンチョウは手厚く保護されていた。生息地の一帯は竹矢来(たけやらい)で囲まれ、管理責任者の「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」などが常駐していた。鳥を驚かさないようにタコ揚げも禁止されていた。

徳川家康はひんぱんに鷹狩りに出かけた。「生類憐れみの令」を定めて生き物の殺生を禁じた5代将軍家綱でさえ、鷹狩りをした。ツルを捕らえて肉として天皇家に献上することは徳川家のつとめだった。献上した残りは宴を開いて大名たちにふるまった。他方、大名からも将軍にツルが献上された。

ツルを捕獲した場所は、葛西、深川、千住、品川、麻布、下谷、大森、中野など、東京湾の沿岸から荒川の流域、さらに内陸の湿地帯にまで広がっている。捕獲されたツルの数は、1611年から1790年までの179年間に183羽、年平均1羽だった。

ツルの肉は薬効があるとされ、1677年、茨城県利根町(現在) で病人を救おうと村人が、1羽のツルを捕まえたことがあった。これは大事件となり、その一家は子どもまで含めて10人が死罪になった。江戸時代の記録に残る「鶴密猟事件」は8件以上あるが、すべて死刑になったわけではなく、武士の場合には閉門や謹慎などの罰に処された。

食べられたツル

ツルを食べる習慣は古くからあった。青森県、岩手県、茨城県などの各地の遺跡や貝塚からはタンチョウの骨が出土する。平安時代にも記録があり、鎌倉時代の『新古今和歌集』の選者、藤原定家の日記『明月記』(1227年)にはツルを食べたことが書かれている。

江戸時代には庶民には手の届かない存在になった。しかし、遠く離れた蝦夷地(北海道)では、さかんに捕獲され塩漬けにして他藩へ輸出していた。幕末から明治にかけて北海道を探検し、「北海道」の地名の名付け親になった松浦武四郎は、石狩川や天塩川沿いの湿地に多くのタンチョウが生息していることを記録している。

その後、明治維新をきっかけに江戸時代の禁鳥制度が廃止され、銃猟の解禁とともに乱獲された。1892年になってツル類の狩猟が禁止されたが、各地で姿を消しており、本州では大正時代には絶滅したと考えられた。

33羽から千羽鶴へ

しかし、1924年に釧路湿原で十数羽の姿が目撃された。35年に繁殖地も含めて国の天然記念物に指定されたものの、タンチョウの消息は途絶えた。「日本野鳥の会」を創設した中西悟堂が39年に北海道を訪ねたときにタンチョウを探したが、「一日探し廻(まわ)って逢(あ)えなかった」と書き記している。

52〜53年に小中学生や社会人ら1万数千人が参加して探したが、確認できたのは33羽だけだった。あわてて国は特別天然記念物に格上げした。国や自治体が保護に乗り出し、すこしずつ回復して62年に178羽、88年に424羽、2000年になって740羽に増えてやっと保護の手応えが出てきた。

自然保護団体は、生息地を買い上げる「ナショナルトラスト運動」を進めた。また、餌となるソバの畑づくりやセリの移植、ドジョウの放流などの保護対策が行われきた。1993年 「希少野生動植物種」に指定された。

2004年には待望の1000羽の大台に乗って、「千羽鶴」を達成した。そして16年には1800羽に達した。この回復にもっとも貢献したのは、冬季の餌やりだった。それまでは、冬季の食糧不足から生息数は思うように伸びなかったからだ。

鶴居村の餌場で取材する筆者

1952年にはじまった餌付けの成功で、各地に給餌場が設けられるようになった。現在では、環境省が管理する3カ所と、北海道庁が管理する中小規模の20カ所の計23カ所がある。

(文中敬称略)

撮影=ニッポンドットコム編集部

バナー写真:「阿寒国際ツルセンター分館」の餌場から飛び立つタンチョウ

(※1)^ 岡登貞治(おかのぼり・ていじ)著『文様の事典』(東京堂出版)より

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  • [2017.03.03]

環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。

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