シリーズ 日本の自然:破壊と再生の半世紀
森林保護の系譜(上)

石 弘之【Profile】

[2017.07.18] 他の言語で読む : 简体字 | Русский |

国土の3分の2以上を森林が占める日本。樹木が身近にあったため、独特の「木と森の文明」が発達した。日本人はこれまで森林とどう付き合ってきたのか。日本における森林保護の歴史を紹介する。

国有林の伐採反対

「世界でもっとも美しい森は」と問われれば、ちゅうちょなく「東北地方のブナ林」と答える。各国の代表的な森林を訪ねてきたが、ブナ林ほど美しい森はなかった。春は、新緑が太陽光を反射してキラキラ光る。雪解けとともに、山裾から山肌を緑に染め上げながら新緑が駆け上る。そして、山も谷も黄金色に包み込む秋。雪のなかにどっしりと腰を落とし、大きな枝を張った真冬の姿もいい。

ブナ林は四季折々に豊かな表情を見せてくれる(撮影:姉崎 一馬)

山形県の朝日連峰のふもとで、一面に伐られたブナ林の凄惨(せいさん)な姿を目撃したのは、1970年のことだった。この森で伝統的な狩猟をつづけるマタギからの連絡で知った。駆けつけると、山肌がバリカンで刈り込んだように皆抜され、クマタカが巣をかけたブナの大木も消えていた。

林野庁が「拡大造林」の名のもとに、「役に立たない」としてブナ林を伐ってスギやヒノキの植林地にかえようとしていた。山で生きる地元の人たちやブナ林が好きでたまらない仲間が集まって、ブナ原生林の伐採反対運動を起こし、ついに伐採中止に追い込んだ。

その10年後には、青森と秋田にまたがる白神山地のブナ林でも、伐採用林道の建設計画が持ち上がった。地元民が反対に立ち上がり、93年には白神山地を世界自然遺産に登録することに成功した。日本の森林の美しさを世界に知らせるきっかけになった。

ブナ林の保護運動は、人と森の関係を考える上で大きな転機になった。各地で森林伐採の反対運動が勢いづいた。ブナ林は大きく傷ついたが、市民運動によって辛うじて救われた。一連の反対運動のころから「緑」という言葉が日本人の心に戻ってきたような気がする。

貴重な日本の森林

日本の森林の被覆率は、先進地域のなかではフィンランド、スウェーデンについで世界3位だ。だが、これだけ人口が多い工業先進国で、国土の3分の2以上を森林が占めるのは奇跡である。

国際自然保護団体のコンサベーション・インターナショナル(CI)などの組織が、とくに生物多様性が高く、しかも破壊の危機に瀕している地域を「生物多様性ホットスポット」として指定している。指定されたのは世界で35地域。日本列島も含まれる。

ホットスポットはすべてを合わせても陸地面積の2.3%に過ぎない。この狭い地域に、地球上でもっとも絶滅が心配されている哺乳類、鳥類、両生類の75%、高等植物の50%が生息する。

狭い国土にもかかわらず日本は生物多様性が豊かだ。陸上哺乳類の130種のうちの36%が日本にしか生息しない固有種。しかも、このうちの80%は森林、あるいは林縁部を主な生息地にしている。また約7000種の野生植物の4割にあたる約2900種が日本だけに生育する。日本はガラパゴス諸島よりも固有種が多い。

日本におけるホットスポットの一つである西表島のマングローブの森(撮影:姉崎 一馬)

木と森の文明

日本には世界的にみても特異な「木と森の文明」が発達した。縄文遺跡から発掘される木製品には30種を超える樹種が使われ、住居、農機具、生活雑器、燃料、武器、丸木舟のように用途によって木の特性が使い分けられた。

日本人の木への愛着は現代にまで引き継がれている。日本には、「御神木」という言葉があるように、木は信仰心や宗教心とも結びついてきた。うっそうとした巨木に被われた木造の神社や仏閣を見たときに感じる畏敬や懐かしさは、日本人ならではの感性だろう。重要文化財に指定された建造物の9割は木造であり、このうち国宝に指定されたものはすべて木造だ。

奈良県奈良市にある東大寺の大仏殿。国宝に指定された木造建築物の代表格だ(写真:アフロ)

森林や樹木やそこにすむ動物が、これほど詩歌や文学作品に登場する国も珍しい。4500首が収められた万葉集の3分の1は、樹木や花の自然を詠(よ)んだものだ。同書が編纂(へんさん)された7世紀から8世紀にかけて、天皇から庶民までそれぞれの詠み人が自然に想いを寄せていた。

日本列島は、春から秋の植物の生育期に降水量に恵まれ、豊かな森を育む条件がそろっている。地球上で、亜寒帯から温帯、亜熱帯まで植生の変化が見られる地域は、ユーラシア大陸の東端地域しかない。しかし、中国東海岸、朝鮮半島、ロシア沿海州などの近年の大規模な森林破壊で、連続した森林地帯は唯一日本だけに残る。

水田が守った国土

水田がこの森を守ってきた。水田は多種多様な生き物に生息の場を提供して、主食であるコメの生産を支えるだけでなく、水害などの災害防止にも大きな役割を果たしてきた。とくに地形の複雑な日本では、水田の維持には膨大な水の管理と、多発する土砂災害を防ぐために森林が必要だった。水田の背後の里山からは木材や竹材をはじめ、燃料、堆肥、飼料など生活資材、さらに山菜や果実、野生動物などの食料を得てきた。

初夏の田園風景(写真:PIXTA)

江戸時代以来、幕府や藩によるきびしい森林保護制度が定められた。時代を追って、伐採の規制が強化され、植林が推進されるようになった。 1666年に幕府が発した「諸国山川掟(おきて)」 では、森林開発の抑制とともに、災害防止のために河川流域の造林を奨励している。

徳川家康が天下統一して以来、17世紀には江戸城、駿府城、名古屋城をはじめ、武家屋敷、町屋、寺社の建築ブームが起きて、大量の木材が伐り出された。その結果、平野の水田開発が進み、山林の荒廃が広がって水害や土砂流出災害の多発を招いた。そのために管理と植林が奨励されたのだ。

江戸時代の森林保護制度

島崎藤村『夜明け前』の主人公は、中仙道の木曾馬籠宿で代々つづいた庄屋の当主。明治維新に希望を抱き、規制の厳格な山林を自由に使うことを夢見てきたが、新政府によって山林は国有化されて伐採が禁止された。維新後の世相に適応できず失意のままに死んでいく。

そのなかで、江戸時代の山林保護が語られる。木曽谷では、尾張藩が森林を保護するために森林の利用区分を定めていた。村民の立ち入りが許されない「留山」、鷹狩り用のタカの生息地を守る「巣山」、自由に利用できた「明山」。罰則は「木一本、首一つ」といわれるきびしいものだった。

岡山藩に仕えた儒学者の熊沢蕃山は、1870年に「生態学」(エコロジー)を打ち立てたドイツの生物学者E・ヘッケル(1834~1919年)の約200年前に、生態学の概念に匹敵する自然の原理に迫っていた。

著書『大学或問』のなかの極めつきは、はげ山を森林に戻す秀逸な方策だ。「草木のないはげ山に林をもどす方策がある。一つの峯、一つの谷を順に木を生やすことを考えて、ヒエをまいてその上に枯れ草やカヤなどをちらして置く。鳥たちがやってきてヒエをついばむ」

「鳥のフンに混じっていた木の実はよく発芽する。上を枯れ草で覆っておくことは、鳥が見つけにくいようにして、鳥を長く引きとめておくためだ。こうすれば、30年ほどで、雑木が茂るようになる。雑木が茂れば村人は薪(まき)の心配をしなくてすむ」(現代語訳)

軍備増強と森林破壊

明治維新後、政府は1897年に「森林法」を制定して、森林の伐採を規制した。しかし、監視が緩んで各地で森林が乱伐され、ふたたび森林の荒廃の時代がはじまった。明治中期は、日本の歴史でもっとも森林が荒れていたといわれる。建築用以外にも、近代化に欠かせない電柱と枕木は膨大な木材需要を生んだ。さらに、工事の足場や杭、鉱山の坑木、造船用材、桟橋などのために木材需要が膨れ上がった。

だが、日清・日露戦争後は、木材需要の増大を背景に各地で林業生産が盛んになった。天然林の伐採とともに木材の再生産を目的とした植林が行われた。1907年には政府によって植林が奨励され、その後は民有林への植林に補助金が支出されるようになった。

30年代には軍備の増強に伴い、軍艦の造船、軍事施設、坑木などのために大量の木材が必要になり、大量伐採に拍車がかかった。そうした伐採は、保護されてきた景観保全の風致林、社寺林、防風林にまでおよんだ。

戦後の森林の荒廃と復旧

第2次世界大戦の戦中・戦後の国土の荒廃は、明治中期にも劣らぬほどに激しいものだった。空襲などによって森野面積の約2割が失われた。焦土と化した戦後日本の復興には、大量の木材が必要で天然林の乱伐がつづいた。

戦争で焼失した約223万戸(全戸数の約2割)の再建、600万人を超えた海外からの引き揚げ者らの住宅建設、さらにインフラの整備や工場建設などが重なった。当時のマスコミはこぞって「豊富な国内の木材資源を戦後復興に生かせ」と、伐採をうながす論陣を張った。政府は伐採を加速させた。

各地にはげ山が出現した。終戦直前の44年にヒットした童謡の「お山の杉の子」(作詞・吉田テフ子)には「丸々坊主のはげやまは / いつでもみんなの笑いもの」という一節がある。

森林の荒廃によって、各地で台風などによる大規模な山地災害や水害が発生した。キャサリン台風(47年)、ジェーン台風(50年)、狩野川台風(58年)、伊勢湾台風(59年)などの直撃によって多くの死傷者を出した。

1959年(昭和34年)、紀伊半島から東海地方を中心として大規模な被害をもたらした伊勢湾台風(超大型台風15号)。死者4759人、行方不明者282人に及んだ(写真:毎日新聞社/アフロ)

国土の保全や水源林の保全が緊急の課題になった。終戦の翌年には、植林や治山事業が公共事業に組み入れられた。50年には「国土緑化推進委員会」が組織されて伐採跡地への植林が進められ、全国植樹祭もはじまった。植林が一応終わるまでには約10年の年月を要した。

バナー写真=世界自然遺産に指定されている白神山地のブナ林(撮影:姉崎 一馬)

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  • [2017.07.18]

環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。

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