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日本のプロレスの歴史

社会 暮らし

日本のプロレスは、一時期、大相撲やプロ野球と並び称されるほどの人気を獲得した。日本人の記憶には、力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木のようなリング上のヒーローの姿が焼き付いている。本記事では、日本のプロレスの成り立ちから現状までを振り返ってみる。

戦前、日本人レスラー米国デビュー

最初の日本人プロレスラーは元力士のソラキチ・マツダとされている。1883年にアメリカでデビュー。その他、数名の日本人、日系人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していたことが確認されている。マツダとともにレスラーとして活躍した三国山は帰国後の1887年(明治20年)に東京・銀座で「西洋大角力」を開催、これが日本初のプロレス興行とされているが、観客は集まらず失敗に終わった。

戦後、力道山の時代

日本のプロレス界は、力道山がデビューした1951年を日本における“プロレス元年”としている。プロレス興行が根付いたのは、力道山が1953年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で、多くの日本人に反米感情があり、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並んで国民的な人気を獲得した。

民間放送テレビが開局し、街頭テレビ(中央)でプロレス中継に熱中する人達。東京、1954年。(読売新聞/アフロ)

昭和後期、群雄割拠の時代

その後、国内においては力道山の率いる「日本プロレス」の独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレス・国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げし、さらに力道山死去後(1963年12月)の日本のプロレスを支えていたアントニオ猪木が新日本プロレスを、そして、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げし、両エースを失った日本プロレスは崩壊する。

1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWA(全米レスリング同盟)とのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得した。国際プロレスもヨーロッパ路線・デスマッチ路線を展開し独自のファン層を開拓した。

1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳、長州力らいわゆる“鶴藤長天”が台頭する。また、新日本では佐山聡がタイガーマスクとしてデビュー。1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイルのプロレスを確立し、後の総合格闘技の台頭への布石となった。

来日し、会見でプロレスへの転向を語る東京五輪の柔道無差別級で金メダリストのアントン・へーシング(左)。右はジャイアント馬場。(時事)

平成期、プロレス人気の低迷と団体乱立

1988年には大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収め、インディー団体というカテゴリーを確立。

1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされ、団体乱立の時代を迎えた。この頃から馬場、猪木が第一線を退き、プロレス人気に翳(かげ)りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動し、ジャンルのマニアック化が進んだ。

一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため、外国人レスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人レスラー同士の闘いに重点を置くようになった。

新日本では闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)、全日本ではプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が台頭し、業界を牽引してゆく。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭し、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。

古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが、結果を残したレスラーは少なく人気低迷に拍車をかけた。

1997年、JWP女子プロレスのプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。

現在、エンタメ志向や地域プロレス

2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変する。全日本では馬場の死後、社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団し、プロレスリング・ノアを旗揚げする。新日本でも橋本真也が団体を解雇され、新たにZERO-ONEを旗揚げし、新たな4団体時代を迎える。

一方、所属選手の殆どを失った全日本は団体存続をかけて新日本との交流に踏み切る。2002年に武藤敬司が新日本を退団し全日本に移籍、同年10月に同団体の社長に就任する。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流が盛んに行われている。

また、この頃から米WWEが日本でも人気を博し、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1、ハッスルなどエンターテインメント志向のプロレス興行が行われるようになる。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半は、いわゆる第三世代が台頭するが人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず、依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。

しかし2005年に橋本真也、2009年に三沢光晴が急逝、他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり、各団体の勢力図が変革されようとしている。2011年には東日本大震災復興支援を目的として、新日本、全日本、ノアによる合同興行ALL TOGETHERが開催され、翌2012年には新日本・全日本が旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなど団体同士の連携を強めている。

主要プロレス団体の系列

カテゴリー団体名特徴

老舗3団体

力道山の日本プロレス協会以後、ジャイアント馬場の全日本、アントニオ猪木の新日本の2団体時代が続く。2000年に全日本が分裂し、三沢光晴率いるNOAH(ノア)が誕生した。

全日本プロレス 馬場から三沢を経て、’02年に武藤敬司が社長に就任。2013年武藤離脱
新日本プロレス 現存する日本のプロレス団体でもっとも古い’72年3月に猪木が設立。闘魂三銃士の時代を経て現在は個性豊かな選手たちがプロレスらしいプロレスを実践
NOAH 理想のプロレスを求めて全日本に所属していたほとんどの選手が三沢についていく形で離脱し、プロレス界の方舟としてスタート。

レジェンド系

昭和の時代にスターとして活躍したプロレスラーが独立し、立ちあげた団体。

IGF 猪木イズムを体現する男たちのリングとして格闘技色の強いスタイルを実践。
リアルジャパン 初代タイガーマスクこと佐山サトルが主宰。レジェンド選手が参戦しタイガーと対戦するのが目玉。
ドラディション 06年設立後’08年に団体名を変更。レジェンド選手たちによる魅力的な顔合わせが中心。
天龍プロジェクト 10年に旗揚げ。痛みの伝わるプロレスを信条とする。
レジェンドプロレス 厳密には団体ではなく、レジェンド勢が参戦するプロレスイベントを指す。

デスマッチ系

純然たるデスマッチ団体は大日本のみで、FREEDOMSから数名がレギュラー参戦。

大日本プロレス 日本で唯一のデスマッチヘビー級王座を認定し蛍光灯、画鋲、ガラスなどを使用しソウルフルな闘いを実践。
FREEDOMS 09年にアパッチプロレス軍の活動休止にともない発足。各選手が枠にとらわれぬフリーダムなスタイルで魅せ、そのカオスぶりが人気に。
アパッチプロレス軍 立ち上げ後一時活動休止もFREEDOMS勢離脱後に人員を変えて活動再開。

主要新興団体

90年代は「インディー」とされてきた中で、その枠にとどまらぬ躍進を遂げ、人気を誇る団体と、スタープレーヤーが興した団体。

DDT 無名の3選手により旗揚げされながら、今では毎年夏に両国国技館(昨年は日本武道館)で開催するまでに大化け。
K-DOJO プロレス学校としてプエルトリコで設立後日本に逆輸入。千葉・Blue Fieldを拠点に多くの人材を輩出。
DRAGON GATE ウルティモ・ドラゴンがメキシコで設立した闘龍門が前身。’04年に別会社となってからも年間興行数は1、2位を争い海外にも進出。
DIAMOND RING ’07年に健介オフィスとして旗揚げ後、’12年に改称。北斗晶が代表を務め、2人の知名度は業界でも突出している。
ZERO1 2000年に設立されたZERO-ONEが前身。’04年の活動停止後’09年より現在の団体名へ。

インディー系団体

小規模ながらも独自の方向性を打ち出すことで、マニア層の支持を受ける。

IWA JAPAN オーナーの浅野起州氏は新宿2丁目の顔役。雪男、ワーム、河童となんでもあり。
666 正式な団体名は暗黒プロレス組織666(トリプルシックス)。パンクの要素が高い。
フーテンプロモーション バチバチファイトのスタイルを追求。
東京愚連隊 NOSAWA論外らによるユニットとして結成され自主興行も開催。マスカラスも招へい。

地方フランチャイズ

東京以外の都市で活動しながら、中央との交流も並行。選手たちのスキルも他団体で活躍できるほどのものを誇っている。

みちのくプロレス 地方発信団体の走りとしてザ・グレート・サスケが設立、多くの人材を輩出した。現在は東北復興の力になるべくプロレスを提供。
大阪プロレス 大阪ならではのお笑いプロレスが人気。梅田に常設会場を持つ。
スポルティーバエンターテイメント 小規模団体が多い名古屋で常設会場のスポルティーバアリーナを持ち、団体としての活動も始める。

ローカル団体

地元に根づいた活動を主とし、イベントやお祭りなどに呼ばれてはプロレスを提供することで、地域に貢献する。

北都プロレス 北海道内のみで活動。町や村、離島など小規模な興行のため選手はシングルマッチ、タッグマッチ、バトルロイヤルに出場するのが常。
レッスルゲート 元・みちのくのHANZOが地元・福山でスポーツジムを経営し、ジム生の中からプロレスラー志望者を募り指導、自主興行を定期的に開催している。
ダブプロレス 広島市在住の会社員、自営業、教師などのプロレス愛好者が’05年に旗揚げ。全日本などが県内で興行を行う際に協力し、選手も参戦する。
九州プロレス 元・K-DOJOの筑前りょう太が地元・福岡へ帰り、NPO法人として活動。興行以外にも慰問活動、講演活動、プロレス学校などを実施し、地域町まつりの活性化に尽力。
FTO フリーランス・チーム・大分の略。施設、学校、老人ホームなどへのボランティア訪問を行っている。代表者が今年2月に大分市議選で当選し話題に。

*日刊SPAの情報を基に作成 (http://nikkan-spa.jp/456607

バナー写真=相手を攻める力道山(左)(時事通信フォト)