長岡と米ホノルル:“因縁”の両都市が戦後70年で追悼・交流事業(下)
山本五十六と真珠湾攻撃、長岡空襲
[2015.04.27] 他の言語で読む : ENGLISH |

山本五十六の故郷・長岡

新潟県長岡市と米ホノルル市は戦後70年という節目の今年、姉妹都市として草の根レベルでの日米友好を促進し、平和の大切さを発信するため、終戦記念日の8月15日に真珠湾で戦没者を慰霊する長岡花火打ち上げを計画している。2つの都市を歴史的につなぐのは、長岡出身で真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官(1884〜1943)の存在だ。山本は当時、日米開戦へ向けどのような思いを抱いていたのか。そして長岡大空襲は真珠湾攻撃に対する「報復」であったのか。

戦艦オクラホマ犠牲者の遺体掘り起こしへ―米国防総省

米国では真珠湾攻撃の傷跡は癒えていない。日本軍の魚雷攻撃で転覆・沈没した戦艦オクラホマでは乗組員429人が犠牲となったが、そのうち388人は身元が判明していない。米国防総省は最近、国立太平洋記念墓地に埋葬されている身元不明者の遺体を掘り起こして、国防総省の研究所でDNA鑑定にかけるとの方針を明らかにした。鑑定技術の進歩で、身元不明者の約60%が特定される見込み。特定された場合は軍人としての完全な栄誉が与えられた後、再び埋葬されるという。 

「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」というスローガンは真珠湾攻撃の直後、日本を敵視し、米国民の戦意を高揚させるために使われたが、戦後70年が経過した今でも完全に死語になったわけではない。対日不信を表明するために一部の米国人が使いかねない言い回しだ。

ハーバード留学の知米派

連合艦隊司令長官時代の山本五十六(長岡市の山本五十六記念館所蔵)

真珠湾攻撃は米国民に計り知れぬ衝撃を与え、米政府はそれまでためらっていた欧州参戦を直ちに決めるとともに、日本に宣戦布告した。真珠湾攻撃について、当時のルーズベルト政権は日本の暗号電報を解読し、その計画を事前に察知していたが、米国の欧州大戦への参戦に世論を誘導するためにあえて日本軍に攻撃させたとの陰謀説も絶えない。

山本五十六は1884年、旧長岡藩士・高野定吉の六男として誕生。1916年、戊辰戦争で断絶した山本家の養子となった。山本には米ハーバード大学への留学(1919〜1921)と在米日本大使館付武官(1925〜27)の経験があり、日米の国力の差を十分認識していたと考えられる。

しかし、山本は1920年代からお互いに「仮想敵国」視していた日米両国が戦争に向かう大きな「歴史の歯車」に突き動かされていった。日独伊三国同盟に「全く狂気の沙汰」として反対したが、三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐とそれに対する米国の対日石油禁輸などにより、日本と米英両国との関係は急速に悪化した。

真珠湾攻撃を立案, 指揮

山本は1941年秋、首相の近衛文麿に日米戦争となった場合の見通しについて聞かれ,「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分、暴れてごらんに入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約ができたのは仕方がないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、極力ご努力願ひたい」(『近衛日記』)と述べていた。

1941年10月、東条英機が首相に就任、日本海軍による真珠湾攻撃、陸軍による英国領マレー半島上陸を決意、太平洋戦争への道を突き進むことになった。この真珠湾攻撃を立案, 指揮したのが山本だった。その後、山本はミッドウエー海戦での大敗やガダルカナル島での激戦などを経て、1943年4月18日、パプアニューギニアのブーゲンビル島上空で米陸軍航空隊16機に襲撃・撃墜され、戦死した。 

山本の命日には毎年、生家跡の山本記念公園で法要が営まれる。戦後70年の今年は孫の山本源太郎さん(53)や市民ら約100人が参列。故人をしのび焼香し、平和への祈りを捧げた。源太郎さんは「祖父が生きていたころと状況は違うが、世界情勢はきな臭くなっている。何年たっても平和であることを望む気持ちは変わらない」と話した。

長岡大空襲は真珠湾攻撃への報復か

1945年8月1日午後10時30分、B29爆撃機が焼夷弾爆撃を開始。長岡は瞬く間に炎に包まれた。2時間近くも続いた空襲は市街地の8割を焼野原にし、1400人以上の命を奪った。長岡は新潟県内唯一の大規模戦災都市となった。

地元の画家、那須髙明氏が描いた長岡空襲の様子(長岡戦災資料館提供)

長岡空襲は真珠湾攻撃に対する報復だったのだろうか。長岡が山本の故郷だから日本国民の戦意喪失のために爆撃を行ったと語った米軍関係者も当時いたという。米軍は山本の軍事的才能を高く評価していたようだ。太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンは「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督よりも頭一つ抜き出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」(『日本軍航空機総覧』新人物往来社、p.197)との見解を表明していた。

ただ、当時の長岡市には理化学研究所の研究施設があり、この施設攻撃が目的だったとも言われている。

山下清の願い

戦後70年という節目の年に、真珠湾で長岡花火が初めて打ち上げられる。8月15日午後3時(ホノルル時間14日午後8時)から、両国の戦没者の慰霊と世界平和への願いを込めて、白一色の花火「白菊」が3発打ち上げられる。翌日には、「未来志向」の花火打ち上げが予定されている。白菊3発の後、次世代を担う子どもたちの成長を願い、シンガー平原綾香さんが歌う曲「Jupiter」をバックに、色とりどりの2000発が夜空を彩るという。

“裸の大将”と呼ばれた放浪の画家、山下清は1949年に長岡花火を見た後、「長岡の花火」という大作を残した。彼は作品だけでなく、「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」という言葉も残している。真珠湾での長岡花火の打ち上げには様々な思いが込められる。

文・村上 直久(編集部)

バナー写真:空襲で焼け野原となった長岡市中心部。建物は当時の市役所(長岡戦災資料館提供)

  • [2015.04.27]
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