特集 漂流する日本の教育
高等教育の“日本病”
グローバル化競争に乗り遅れた日本の大学

苅谷 剛彦【Profile】

[2012.02.29] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

人材のグローバル化の必要がいわれる一方、その教育機関たる日本の大学の地盤沈下が危惧されている。問題はどこにあるのか。日・英の大学で教鞭を取り、教育問題を社会学の視点から論じる苅谷剛彦教授が分析する。

「グローバル化」という言葉は、しばしば意味のあいまいな流行語として使われる。しかし、1990年代以後生じている高等教育のグローバル化という現象には、この言葉を使うそれなりの理由が与えられている。実際に人(学生と教員)、資本(教育や研究に関わるお金)、そして教育機関といった面で、国境を越えた移動が大きくかつ激しくなっているからである。しかも高等教育のグローバル化は、国境を越えて高等教育を受け学位を取得した人々が、高度な質を持った人材として自国を離れて労働市場に入るという、人材のグローバル化と関連しつつ進行している。国を超えた大学のランキングが作られ、その結果に関心を持つ大学がさまざまな国で増えているのも、こうしたグローバル化という現象の反映といえる。まさに、国境を越えた大学間のグローバル競争が生じているのである。

もうひとつ、90年代以後先進国の高等教育において生じている重要な変化がある。教育機会の拡大である。比較的大学進学率の低かった欧州の国々においても、大学進学率が急速に上昇している。しかも、学士レベルにとどまらず、専門的な職業教育を含む修士課程や博士課程といった大学院レベルの教育の拡張も見られる。高等教育機会のさらなる拡大が、前述のグローバルな人材育成競争に対応して生じているのである。

本稿は、こうした高等教育のグローバル化という文脈に、日本の高等教育を位置づけたときに見えてくる問題点を明らかにすることを第1の目的とする。そこで明らかになるのは、グローバルな競争から大きく立ち遅れた日本の大学の脆弱さである。いかなる問題を日本の大学群が抱え、なぜそれを解決できずにいるのか。これらの問いに答えることで、第2に、1990年以後、大学のみならず日本の社会が抱えている問題について考察を加えたい。浮かび上がってくるのは、1980年代までの「成功経験」から抜けきれない「日本病」ともいえる姿である。そして、それが日本だけに限定されない、先進国に共通する課題を突きつけていることを最後に論じる。

高等教育をめぐるトリレンマ

日本の高等教育が抱える問題点をより大きな文脈の下で明らかにするために、最初に先進国が共通して直面している問題点を確認する。それは、高等教育システムと国家との関係において生じる「トリレンマ」である。トリレンマとは、3つの要素のうちいずれか2つは並び立つものの、残りの1つの要素を並び立たせることが困難になる状態を指す。高等教育と国家との関係においては、教育の質の維持、教育機会の平等(量的拡大)、高等教育の国家による持続可能な財政負担という3つの要素が、トリレンマの状態にある。例えば、教育機会の平等を図るために高等教育の量的拡大に取り組み、同時に高い教育の質を維持しようとすれば、高等教育への公的な投資(=国による財政負担)を重くしなければならない。しかし、財政不足になれば質の維持は難しくなり、あるいは質を維持すれば、高等教育の機会を拡大することは困難になる。教育の量的拡大を限られた財政負担によって実現しようとすれば、教育の質を高く維持することは難しい。このように、3つの要素のうち2つを実現させようとするとき、残りの1つの実現が困難になる状態、すなわち「高等教育のトリレンマ」が生じるのである。

先進国の間でこのようなトリレンマが深刻になってきたのには理由がある。冒頭に述べた、グローバルな人材育成競争の下で、質の高い高等教育を拡大する必要性が強まったためである。それに伴って高等教育の費用負担も大きくなるが、多くの先進国は深刻な財政問題を抱えている。このような状況の下で、いかに「高等教育のトリレンマ」を解決するかに、各国は直面している。

このトリレンマの解決策を探る過程で、長年高等教育の無償制を採り、ほとんどの大学が国立の機関である欧州では、拡大する高等教育(とりわけ大学教育)の費用を誰が負担するか、という問題が表面化している。英国は近年、授業料の導入とその値上げによってこの問題を解決しようとした。州政府の財政事情が厳しくなった米国でも、教育機会の拡大に寄与してきた州立大学で、授業料の値上げによるトリレンマの解決が図られている。欧州には、依然として大学無償制を堅持する国があるが、そこでも拡大する高等教育の費用を誰が担うべきかという議論が巻き起こっている(例えばドイツのように、授業料を導入する制度が一度は取り入れられたが、その後その授業料を廃止する動きが生じている国もある)。

このような文脈に日本の高等教育を位置づけてみると、トリレンマに対する日本的な解決方法の特徴と、それが引き起こす問題点が浮かび上がる。日本の高等教育システムは、高等教育のトリレンマを、国家による公的投資を最小限にする方法で解決してきた。日本の大学生のおよそ80%は私立大学に在籍している。しかも、ほとんどの私立大学が収入源として大きく依存している授業料は、多くの場合、国が支える奨学金によるのではなくそれぞれの家計が支出している。つまり、高等教育の量的拡大を私立大学の拡大に依存して達成し、しかもその費用の大半は家計に頼ってきたのである。

欧州諸国に比べれば、日本は早い時期に高等教育機会の拡大を達成した。最近の統計によれば、同世代のうち4年制大学に進学する者の割合は50%を超え、さらに、2年制の高等教育機関(短期大学と専門学校、および高等専門学校)に進学する者の比率もおよそ25%に達する。つまり同世代の75%が高等教育にアクセスしているのだ。2年制の機関もほとんどが私立であるから、大学を含む日本の高等教育の「マス化」は、政府支出を最小限にして「小さな政府」を維持しながら達成されたと見ることができる。

このような日本的解決の特徴は、「小さな政府」の下における、高等教育の「私事化」と「市場化」という概念によってとらえ直すことができる。とりわけ90年代以後進展した高等教育の拡大は、政府による大学設置基準の緩和と連動して進んだものであり、私立の大学が市場で学生の獲得競争に乗り出す形で行われた。しかも、費用負担は家計に大きく依存していた。別の見方をすれば、高等教育を受けることは個人の利益と見なされ、それゆえその費用は公的に負担するよりも私的に負担する方式が選ばれた。要するに、高等教育を公共財ではなく私的な利益を提供するものと見る考え方に立って、機会の拡大が行われたのである。

しかし、私事化と市場化という概念で特徴づけられる日本的な解決策は、教育機会の平等という点でも教育の質の維持という点でも、大きな問題を生み出す。

日本の高等教育の問題点

確かに、日本の高等教育は急速な拡大を遂げ、量的に見ればたくさんの機会を多くの若者たちに提供することができた。しかし、その拡大が私立大学の拡張を通じて達成されたため、家計の所得水準によって進学機会は経済的な制約を受け続けた。授業料が上昇を続けたこと、政府の奨学金政策が不十分であったことで、経済的な制約を取り除くことに失敗したのである。その結果、量的な拡大にもかかわらず、経済的に豊かな家庭に生まれたか否かで高等教育を受ける機会の差が残り続けた。

もう1つの深刻な問題は、高等教育の拡大が教育の質の低下を伴って進んだことにある。ここにも私立の教育機関を中心に高等教育が拡大したこと、そして高等教育を個人の受益と見なす私事化の原則に従って教育が拡大したことが、問題をさらに悪化させている。第1に、財政基盤の弱い私立大学は授業料収入への依存度が高いため、教育の質を一定水準以上に保とうとしても、成績によって学生を退学させることが難しい。また、人件費を抑えるために大人数での講義形式の授業が多くなる。受講生が多ければ、きめ細かな学生への指導もフィードバックも難しい。しかも、ほとんどの授業は学生にリーディングアサインメント(授業前の参考文献の読み込み)を課さない。民間教育機関ベネッセの研究所が行った調査によれば、1週間で予習や課題に費やす時間が3時間未満の学生は73%(0時間が20%)、1週間で大学の授業以外の自主的な学習をする時間が3時間未満の学生は81%(0時間が32%)におよぶ。つまり、日本の大学とは授業中でしか学ばない所なのである。

さらに悪いことには、本来4年間の教育を提供するはずの大学は、実際には3年間の教育で多くの学生を卒業させている。3年生の後半から、学生の多くは就職活動で忙しくなり、大学の授業に出られないからである。しかも私立大学の多くは、学生たちのそのような学習態度を許さざるを得ない。大学の評判が、卒業生の就職実績によって左右されるからである。一定数の入学者数を確保するためにも、学生たちの就職活動を奨励こそすれ、それを妨げることはできない。厳しい成績評価をして、退学者を出すことも難しい。それもこれも、私立大学の多くが、学生の授業料収入に財政的に依存しているからである。

大学での教育期間を犠牲にしてまで、なぜ採用活動が早期化するのか。それを理解するためには、日本社会が大学教育をどのように見なしてきたのかに目を向ける必要がある。そして、その背景を検討することで、「日本病」の病理についても理解を深めることができる。

人材形成における日本病の病理

自然資源の少ない日本において1990年代初頭までの「成功」を支えたのは、優れた人材とそれを生かす企業経営にあったといわれる。民間企業においては、長期間の安定した雇用を保障し、時間をかけたオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)を通じて職業能力を高める仕組みが有効に働いてきた。それは、個々の雇用者の能力の高さが生産性を高めるよりも、チームワークを通じた協同によって高い生産性を達成する仕組みであった。つまり、欧米の職場のように、それぞれのジョブの内容やそれを達成するのに必要な能力が明確に定義づけられる仕組みではなく、ジョブの境界についてもそれに必要な能力についても、特定化をあまりしないで、協同して効率性の高い仕事をする仕組みを作り上げたのである。この前提においては、企業に入るまでに特定の職業的な能力や知識を身につけていなくてもよいとされた。そうした職業的なスキルは、就職後の長期間におよぶOJTを通じて形成すればよかったからである。

このような仕組みの下では、大学で何を学んだか、どのような専門的なスキルを身につけたかに社会は関心を持たなかった。代わりに問われたのは、OJTを通じて効率的に学習できるトレーナビリティ(訓練能力)である。それは、どのような大学に入学できたかという能力によって代替的に示された。勤勉さや要領の良さ、理解の早さといった資質は、大学受験においてテストされる能力であり、その高さがトレーナビリティのシグナルと見なされた。だからより高い受験学力が要求される、より威信の高い大学に入学できた学生たちが、より高いトレーナビリティの持ち主として企業から歓迎されたのである。

このような人材育成と選抜の仕組みは、次の3つの特徴を持っていた。第1に、こうした仕組みは、大企業と男性を中心に、安定した雇用機会を持続的に提供できる限りで有効に働くものだった。正社員としての雇用口が狭まり、さらに長期間の安定雇用が脅かされれば、OJTを柱とした人材形成の仕組みの有効性は低下する。また、女性や転職者のようにキャリアの中断がある場合にもうまく機能しない。

企業の採用活動の早期化により、学生は授業をおいて一斉に就職活動に走る

第2に、この仕組みは国内の雇用市場を前提にしていた。国内市場で競われていたのは、絶対的な能力の高さではなく、相対的なトレーナビリティの高さであった。相対的な順位を争う競争だったから、企業側も優秀な人材を確保するために我先にと採用活動の時期を早めた。学生の側も、雇用市場での相対的な有利さの順位を上げるために、企業の採用活動の早期化に応じて就職活動を行わざるを得ない。その結果、大学の教育期間を中断し切り詰めてまで、3年生の後半には就職・採用活動が始まるようになった。教育期間の短期化が、絶対的な基準に照らして人的資本形成の劣化につながっているとしても、国内だけに限られたコップの中の競争においては、問題ないと見なされ続けた。社会全体として見ればマイナス面が多いことが分かっていながら、個々の企業や個々の学生にとっては、就職・採用活動を早めに行うことがプラスになる。その結果、経済学で指摘される「合成の誤謬」が、繰り返し生み出されてきたのである。

第3に、この仕組みは、少しでも良い大学に入学しようとする競争が学生たちに学習のインセンティブを与えることを前提に成立していた。トレーナビリティに磨きをかける仕組みが、大学受験競争によって提供されてきたのである。ところが、18歳人口の減少と私立大学の量的拡大によって、少数の大学を除けば、今や大学への進学競争は機能せず、学習へのインセンティブが失われるようになった。財政基盤の弱い私立大学は、授業料の払える学生であれば、学力レベルによらずに入学を許可する。一定数の学生を集めなければ財政的に立ちゆかなくなるからである。

これら3つの特徴を持つ人材形成の仕組みは、グローバル化の進展や人口動態の変化によって大きく蝕まれてきた。人件費を削減しつつすでに雇われている中高年の雇用を守るため、企業の多くは新入社員の採用を減らした。また、正社員から非正規雇用(アルバイト、パート、派遣労働)への切り替えも行われた。これらは、政府による雇用制度の規制緩和と相まって、グローバル化した経済競争において労働コストの面で競争力を高めるために起きた変化である。その結果皮肉にも、就職後の人材を質の面で保証する仕組みは崩れていった。しかも経済のグローバル化は、人材の育成と選抜においても、閉じたコップの中で相対的な地位争いをしてきた仕組みを揺るがしつつある。すでに述べたように、他の先進国では大学教育での人材育成の場が大学院レベルにシフトしている。教育期間を延ばし教育の内容もより高度にするグローバルな競争が始まっているのに、日本の大学と企業は4年間の教育さえ十分確保できない。能力やスキルの絶対的な高さが求められる時代に、その面で明らかに劣化が起きている。しかもそれを分かっていてもこれまでの仕組みを変えることができない。

ここに日本病の本質が表れている。グローバル化の変化に対応できず、日本社会という閉じたコップの中で、それ以前に通用していた仕組みにしがみつき、その仕組みの下でいまだに誰が相対的に有利になるかを競い合う構造が存続する。その結果が、コップの外から見れば大きな負の結果をもたらしていることが分かっても、やめることも変えることもできない。公的な財政事情が悪化することと相まって、打つ手がない状態が続くのである。

このような日本病は、しかしながら日本だけのものではない。特に教育の領域においては、より「小さな政府」を目指す動きは、教育の私事化や市場化をもたらす。ところが、個々人の合理的な判断や行動が、全体の質の向上や平等の達成をもたらす保証がないことは、日本の事例から明らかである。むしろ、近視眼的に有利さを競い合う競争に陥ることで、教育の質が低下し、平等な機会が失われる可能性がある。人材育成における「合成の誤謬」の悪循環に陥らないためにはどうすればいいのか。日本の事例から学ぶべき点は多い。

参考文献

Kariya Takehiko, “Credential inflation and employment in ‘universal’
higher education: enrolment, expansion and (in)equity via privatisation in
Japan,” Journal of Education and Work, Vol. 24, Nos. 1-2, 2011, pp. 69-94.

矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』日本図書センター、2011年

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  • [2012.02.29]

オックスフォード大学社会学科教授・同大学ニッサン現代日本研究所教授。ノースウェスタン大学大学院博士課程修了。Ph.D(社会学)。放送教育開発センター助教授、東京大学大学院教育学研究科助教授、同大学院教授を経て2008年から現職。著書に『階層化日本と教育危機』(有信堂/2001年/第1回大仏次郎論壇賞奨励賞受賞)、『教育の世紀:学び、教える思想』(弘文堂/2005年/サントリー学芸賞受賞)、『教育と平等』(中公新書/2009年)など。

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