特集 変動期に入った朝鮮半島情勢
金正恩新体制、権力闘争に垣間見る試練の予兆

李 英和【Profile】

[2012.09.11] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 |

最近の李英鎬(リ・ヨンホ)軍総参謀長の電撃解任は何を意味するのか。北朝鮮の内情に詳しい関西大学の李英和教授が金正恩体制の抱える火種を検証する。

北朝鮮は2012年4月から権力の本格的な再編期に入った。その象徴が北朝鮮人民軍の大立て者、李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長の電撃解任劇である(7月16日)。表向きの解任理由は「病気」だが、実際には政治的理由による粛清だった。

李英鎬の粛清を主導したのは、労働党の実力者、張成沢(チャン・ソンテク、金正恩の叔父)だ。直接的な引き金は「経済改革」(6.28方針)をめぐる両実力者の対立だった。

その経緯については後述するが、問題は両者の権力闘争が金正恩の政権基盤に与える影響力にある。結論へ先回りすれば、李英鎬粛清劇は金正恩体制を揺るがす台風の目となるだろう。李英鎬解任は権力闘争の序幕にすぎない。今後の展開次第では、権力中枢全体を巻き込む「大乱」の芽ともなり得る。

粛清劇が物語る指導力の欠如

一般的に、李英鎬の電撃解任劇は「金正恩の指導力拡大」の文脈で語られることが多い。「人民軍に対する労働党の統制力強化」「内外政策に対する張成沢の影響力がさらに拡大」「張成沢が軍の実権を完全に掌握」という具合だ。しかし、率直に言って、これらの解釈や分析は間違っているか、さもなければ極めて不十分である。問題は次の三点に集約できる。

はたして金正恩の指導力は「拡大した」と言えるのか。答えは「否」だ。むしろ「縮小したと」見るべきだろう。そもそも李英鎬は金正恩の最側近だった。理由はどうであれ、金正恩は自身の右腕を切り落とした格好だ。人民軍は金正恩体制を支える主柱である。今回、その軍部の結束力を著しく弱める事態を招いた。このこと自体が指導力の欠如を示している。

それでは、今回の粛清劇を機に、労働党が人民軍を統制することができたのか。言い換えれば「先軍(後党)政治」から「先党(後軍)政治」への転換が果たされたのか。これも答えは「否」だ。確かに、新軍部を代表する大実力者の李英鎬は今のところ表舞台から姿を消した。だが、李英鎬の後に続くと思われた新軍部の粛清はまだ起きていない。新軍部と対立関係にある旧軍部が勢力を盛り返した兆候も見えない。人民軍は総じて不気味な平穏を保つ。新軍部と旧軍部の両方が、経済改革の動きを注視しながら、張成沢と労働党の出方をうかがう様子である。

最後に、張成沢問題だ。軍の実権を奪うかのような勢いで、影響力を拡大しているのか。どうやら答えは「否」である。確かに、張成沢は今回、権力闘争で最強の競争相手を蹴落とした。しかし好機は危機でもある。李英鎬解任に成功した今、張成沢は得意の絶頂にある。だが、それは失意のどん底と紙一重でもある。粛清の発火点は経済改革だ。もしも張成沢が改革に失敗すれば、再起不能の失脚を免れない。そして張成沢が主導する「6.28方針」は失敗の公算が極めて高い。

後見制統治の終えんと権力再編

そこで以下では、李英鎬粛清を糸口にして、金正恩体制で起きている権力闘争の現状と展望を分析する。

権力闘争の観点から見ると、李英鎬の解任劇は「金正恩後見制統治」の終わりを告げる画期的な出来事だ。

後見制統治は金正日が生前(2009年初頭)に整えたものだ。金正日の家族に加え、党と軍の有力派閥の実力者をそろえた集団指導体制である。勢力の均衡を保つことで、派閥抗争の勃発を防ぐ意図があった。

金正日の急死で、派閥均衡型の後見制統治は「遺訓」となった。本来なら「遺訓統治」の下、すくなくとも金正日の一周忌(2012年12月)までは、権力機構の露骨な再編は封印されるべきところだ。だが、早くも2012年4月には「遺訓統治」の賞味期限が切れる。

4月の労働党代表者会議で、「金正日の遺訓」(後見制統治)を打破しようとする動きが表面化する。権力再編の象徴が崔竜海(チェ・リョンヘ)の大抜てきだ。崔竜海は、居並ぶ実力者をごぼう抜きして、序列21位から一挙に序列3位へと躍進した。

これで北朝鮮の権力構図が一変する。形ばかりの最高指導者・金正恩を除けば、権力の源泉を起点に、次のような距離感で再編された。

「金敬姫(キム・ギョンヒ、金正恩の叔母)→崔竜海→張成沢(金敬姫の夫)→新軍部三銃士=李英鎬・金英徹(キム・ヨンチョル)・金正角(キム・ジョンガク)→旧軍部元老の2派=呉克烈(オ・グクリョル)・金永春(キム・ヨンチュン)/玄哲海(ヒョン・チョルヘ)・李明秀(リ・ミョンス)」

粛清・再編劇の舞台裏

この再編劇には検討課題が3点ある。ひとつは「金敬姫―張成沢」夫妻の間に、崔竜海が唐突に割り込んできたことの意味。もうひとつは「金正日の遺訓」を破り捨ててまで再編劇を敢行した演出者の登場。そして最後に、新たな権力構図の末端部分で起きた李英鎬粛清劇の内幕だ。以下、順番に見ていこう。

まずは崔竜海の台頭から。崔竜海は新世代に属する北朝鮮版太子党だ。父親は金日成の抗日遊撃隊時代からの戦友で、元人民武力部長(国防大臣)の崔玄(チェ・ヒョン)だ。従って崔竜海は「革命血統」に属する。とはいえ、労働党書記の崔竜海はこれまで目立った業績がない。それでも今回、崔竜海は労働党・人民軍・政府(三権)全ての中核的な要職を占めた。

この人事の核心的な意味は「革命血統」の神格化にある。北朝鮮流に言えば「白頭の血脈」だ。つまりは、金日成の率いた抗日遊撃隊を絶対的な基準にして、その同志の血脈を「広義の家族」と見なす政治的な動きだ。同時に、金敬姫は「世襲前衛集団」を作って労働党の核心部署(組織指導部と宣伝煽動部)に続々と送り込む。ここでも中心は「広義の家族子弟」(北朝鮮版太子党)だ。

そうすることで、金正恩の背後にいながら、金敬姫が事実上の「絶対権力者」として振る舞える。他方、張成沢は金正日の義弟でしかない。血脈の観点から処遇し直せば、張成沢は権力構図で後景に一歩退くことになる。

金正日時代には、張成沢は実質権力序列で第2位の地位を不動のものにした。その辣腕(らつわん)ぶりは「権力闘争の化身」の異名をとるほどだ。当時、崔竜海は張成沢の右腕として忠実に仕えた。

ところが、この権力構図に異変が起きる。崔竜海人事のアナウンス効果は絶大だった。実際、これ以降、張成沢の影響力は大きく低下している。党と軍の幹部は、張成沢の顔色ではなく、金敬姫の顔色を一斉にうかがうようになった。崔竜海の大抜てきは、金敬姫が自分自身に権力を集中させる巧妙な仕掛けだった。

金正日死後に顕在化した新・旧軍部対立

こうして金敬姫は金正日の遺訓を破ることもできる「絶対権力者」にのし上がった。金敬姫は、金正恩の口を借りて人事を動かし、崔竜海の手を動かして政策を差配している。

実質的な権力序列の変動は、唐突で急激であればあるほど、深刻な葛藤と対立を生む。その噴出が李英鎬の電撃解任劇だ。

党人の張成沢と軍人の李英鎬。両雄の対立は遺訓統治(後見制統治)発足の直後から伏線があった。当初、金正恩の世襲後継を積極的に推し進める一点で、両者は同盟関係を結んだ。張成沢に対抗する党内の守旧派と軍内の保守派をけん制するのが目的だった。

金正恩は2010年9月の党代表者会で初めて公式登場した。そこで党中央軍事委員会の副委員長にいきなり就任した。これとの抱き合わせで、張成沢は李英鎬を同じ副委員長に押し上げた。人民軍の位階秩序を無視した強引な人事だった。こうして李英鎬率いる「新軍部」の台頭が始まる。

これに対して、旧軍部は大きく2派に分かれる。ひとつは工作畑出身の元老、呉克烈(国防委員会副委員長)率いる正統派。もうひとつは、かつて金正日の次男(金正哲)を担いだ玄哲海(人民武力部第1副部長=国防副大臣)と李明秀(人民保安部長=警察長官)が率いる実力派だ。

新軍部が旧軍部から経済利権を次々と奪い取り、旧軍部を締め上げて追い詰めた。ここまでは計算通りだった。だが、張成沢と李英鎬はすぐに誤算に気付く羽目になる。旧軍部は「金正日の遺訓」を盾に強く反発し、新軍部を「返り討ち」にしようとする不穏な空気が高まった。

対立の副産物が延坪島砲撃事件

この対立が生んだ副産物こそ、2010年11月の韓国・延坪島砲撃事件だ。戦争寸前の緊張状態を作り出し、新旧軍部が互いに抜いた刀を元の鞘に収める。これが李英鎬の狙いであり、張成沢の了解を得た上での無差別砲撃だった。だが、新旧軍部の「一時休戦」は長続きしない。同時に、前代未聞の暴挙で、李英鎬と張成沢の威信は大きく低下した。

そして、これを契機に、張成沢と李英鎬の盟友関係に深刻な亀裂が走り始めた。筆者の得た北朝鮮高位幹部の内部情報では、新軍部の実力者が2011年2月に張成沢の側近を呼び出して強く警告した。「金正恩の前途に邪魔になるなら、誰だろうと容赦しない」と。張成沢は当時、盟友の挑発的言動にも何とか自制心を保った。しかし、それが度を超せば、話は違ってくる。両雄の反目と対立が権力闘争の発火点となり得る。きな臭い気配は一年以上も前からすでに漂っていた。

張成沢にとっては「飼い犬」の李英鎬に手をかまれた格好だ。ところが、続けざまに不運が張成沢を見舞う。崔竜海人事がそれだ。かつての部下に実質権力序列で第2位の座を奪われ、張成沢の権勢が著しく傷ついた。李英鎬の場合は、張成沢の調教不足による自業自得だ。崔竜海の場合は「飼い主」が妻の金敬姫に代わってしまった。

「経済改革」が電撃解任の引き金に

焦燥感に駆られた張成沢は、李英鎬との全面対決の道を選んだ。上述したように、直接的な引き金は「経済改革」だ。張成沢が失地回復をもくろみ、金正恩をたきつけて今年6月に「6.28方針」を打ち出した。「我われ式の新しい経済管理体系を確立することについて」と題する非公開の内部方針がそれだ。同方針は今年10月1日より施行予定とされるが、具体的な施策は不明のままだ。しかし、どのような内容であれ、新経済政策の成否は、軍部が握る莫大な経済利権の行方にかかる。

張成沢が軍利権に手を付けるつもりなら、新政策の難航は必至だ。新軍部であれ旧軍部であれ、軍部が猛烈に反発する。実際、筆者が北朝鮮高位幹部から得た情報では、李英鎬はこれに「露骨な敵対感」を示した。軍部の経済利権を弱める意図が透けて見えるからだ。李英鎬は「張成沢が金正恩の背後で経済発展の必要性をたきつけている」と即座に看破した。これで張成沢と李英鎬の対立は沸点に達する。

「6.28方針」は玉虫色だ。筆者が入手した内部情報によれば、金正恩は新方針の策定に際して次のように述べた。「世界で最も良い手本とされる外国の実例を参考にして、我われ固有の経済管理方法を改善していく」と。しかし、金正恩は「先軍政治の固守」「国防力の強化」「主体思想の具現」という注文を付けた。新政策は出だしから「改革」と「先軍」の相いれない2本の旗を同時に掲げる。アクセルとブレーキを同時に踏む迷走状態だ。

それだけに、力点の置き方次第で、張成沢と李英鎬は自分に都合の良い「錦の御旗」を立てることができる。だが、金正恩政権への北朝鮮国民の期待と海外の視線を考えれば、現在のところ「改革」の旗を押し立てる張成沢に時の利がある。

新軍部、当面は静観の構え

張成沢は時の利を読んだ上で攻勢に打って出た。金敬姫と崔竜海も同じ観点から張成沢に同調した。他方、李英鎬は、軍利権の縮小が主題であるかぎり、改革に反対を唱えるしかない。包囲網がすっかり整った中で、李英鎬の電撃解任が断行された。

これに対して、李英鎬をはじめ新軍部が激しく抵抗する動きはない。同時に、李英鎬の電撃解任を奇貨として、旧軍部が張成沢に加勢して新軍部の追い落としを図る気配も見えない。軍部は当面、経済改革の総論には静観で応じるしかない。だが、各論に入れば「遺訓の先軍政治」を錦の御旗に掲げて、新旧軍部が共に激しく抵抗する構えだ。

電撃解任から一ヶ月以上が過ぎた今も、北朝鮮当局は国民向けに「李英鎬=悪玉」説を流布する気配がない。貨幣改革(デノミ)失敗で粛清された朴南基(パク・ナムギ)党書記の場合には、荒唐無稽な「地主の息子」宣伝が大々的に繰り広げられた。両者の扱いの違いは上述した軍部の不気味な動静を意識したものと見られる。

改革開放政策への多大な期待があだに?

軍部の各論反対を別にしても、新経済政策の行方は前途多難だ。労働党の内部にも依然として守旧派が陣取る。他方、政策を管理・監督する立場にある政府(内閣)の実務官僚は、過去2度の政策失敗(2002年「7.2経済管理改善措置」と2010年「貨幣改革」)ですっかり懲りた。筆者が入手した内部証言では、保身主義が官僚集団の間にまん延する。「政策を誤れば、実務陣だけが責任を負わされる」(北朝鮮の在外勤務者)という理由からだ。

何よりも、国民の期待値の大きさが最大の政治的な変数だ。若い新指導者の登場で、国民は本格的な改革開放政策を期待している。「新時代の指導者」のイメージ戦略が改革の期待値を上げている。ここまでは世襲前衛集団(宣伝扇動部)の作戦が功を奏している。だが、問題はその先にある。

張成沢が主導する経済改革は「市場促進政策」ではありえない。むしろ、私設市場への国家統制色を強める「市場抑制政策」にとどまりそうだ。端的に言えば、改革度は10年前の「7.2経済措置」(賃金・物価の全面改訂)水準にも及ばない。

国民の期待が大きければ、そのぶん失望も大きい。金正恩式「経済改革」が失敗すれば、民心の離反は決定的となる。国民の不満が体制維持の危険水位を超えかねない。

そうなれば、2年前に新軍部が張成沢に向かって吐いた脅迫的言辞が現実味を帯びてくる。

もう一人の絶対権力者・金敬姫の存在

「邪魔になるなら、誰だろうと容赦しない」—この張成沢への警告が、今度は新軍部からだけではなく、金敬姫の口からも発せられる可能性がある。その場合には、崔竜海はもちろん、金正恩までもが唱和することになる。権力闘争の危機に直面するのは、新軍部ではなく、むしろ張成沢のほうだと言える。

金正恩の前途を遮る波乱要因は他の所にもある。現在の北朝鮮で、絶対権力者は金敬姫だ。ところが、この金敬姫が大きな健康不安を抱える。過度の飲酒による持病の悪化で、最近は体重が38キログラムまで激減した。ひそかに中国で治療を受けたものの、飲酒癖がいっこうに直らず、体調回復の兆しは見られないとされる。

「来年になれば、金敬姫が居るかどうかわからない」—金敬姫に近い人物はこう評するほどだ。最近、北朝鮮の国営通信が興味深い写真を公表した。金敬姫が金正恩と一緒に新設遊園地の「絶叫マシン」に搭乗する写真がそれだ。これを見て「年寄りの冷や水」と酷評する向きもある。だが、私見では、懸命の政治的演技だ。金敬姫の健康不安説を打ち消すことが狙いである。

もしも金敬姫が執務不能に陥れば、北朝鮮は間違いなく大乱を招く。金正日を失った今、金敬姫に代わる絶対権力者は見当たらない。文民出身の絶対権力者は、先軍政治で肥大した軍部の台頭を抑える瓶のふただ。それがなくなれば「先軍政治」から「専軍政治」へと急旋回する危険性が高まる。

一方で、経済改革をめぐって権力闘争が本格化する兆候。他方で、絶対権力の金敬姫が病に倒れる予兆。早くも金正恩体制は大きな試練の挟み撃ちに遭っている。

タイトル背景写真=2012年4月、故金日成主席の生誕100周年を祝う金正恩(右)と軍幹部。EPA=時事

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  • [2012.09.11]

関西大学経済学部教授(北朝鮮社会経済論専攻)。1954年大阪府生まれ、在日朝鮮人三世。関西大学大学院博士課程修了(経済学専攻)。関西大学経済学部助教授を経て現職。1991年4月~12月、北朝鮮の朝鮮社会科学院に留学。93年にNGO「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)を結成、現在、同代表を務める。著書に『暴走国家・北朝鮮の狙い』(PHP研究所、2009年)など多数。

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