地方分権改革20年:今後の課題

2000年代の地方分権―移り変わった改革の中身と担い手

政治・外交

地方分権改革の中身や方向性は、時々の政権の安定度が大きく影響する。2000年以降の改革の流れを北村亘・大阪大学大学院准教授が解説。

2000年代前半――地方への権限移譲

2000年4月の小渕恵三内閣末期から2006年9月の小泉純一郎内閣の退陣まで、機関委任事務制度の廃止や国庫補助負担金や税源移譲などの地方税財政改革が進んだ。

国の事務を地方自治体の首長に実施させる機関委任事務制度は、首長の裁量や地方議会の関与も認めないばかりか、地方自治体に事務を負担させるという点で地方自治体や研究者から批判されてきた。この制度を廃止した上で、国と地方が協働して実施する事務には対等性を法的に保証する仕組みが新たに整備され、地方自治体の事務返上も可能となった。

また、中央政府が使途を限定し地方自治体に供与する国庫補助負担金の削減と引き換えに、相当部分を中央政府から地方自治体に税源を移譲し、地方自治体の課税自主権を強化した。

こうして2000年代前半の改革は、国の事務や財源を地方自治体に移しただけでなく、地方自治体がイニシアチブを発揮できる余地を拡大したという意味で分権・分離志向の改革だった。

2000年代後半――権限を県単位で統合する動き

他方、2006年9月の第1次安倍晋三内閣の発足から、2012年12月の野田佳彦内閣の退陣までは、国の出先機関の抜本改革、国と地方が利害の対立を調整する「国と地方の協議の場」の法制化、国庫補助負担金の使途制約を緩和し一括交付金とする――などの改革が模索された。

特に重視されたのは、国の出先機関を廃止あるいは地方へと移管する改革である。この改革では、事務の実施単位を広域ブロックから府県にし、さらに実施主体を中央省庁の系列に沿った専門機関から多くの専門部局を統合する府県に移すという点で、国の事務を県府に分散・統合させようとする改革であった。関西広域連合への移管も、構成単位である7府県を重視し、同様の志向を見せている。

だが国の出先機関の廃止あるいは地方への権限移管はなかなか進まない。改革に向けた立法手続きは、野田内閣による法案の閣議決定後、漂流したままである。

また、2010年には大阪都構想の発表を契機として地方統治機構の改革要求が急速に盛り上がった。2012年には大都市地域特別区設置法が成立し、一定条件を満たした都市部は、東京都23区のような公選区長と公選区議会から成る特別区の設置が可能となった。

2000年代の地方分権改革を大きくまとめると、前半の分権・分離志向から後半の分散・統合志向へと分権改革の方向性が変化している。この流れは、国や地方の置かれた政治的状況を考慮すると一貫した説明が可能となる。

機関委任事務廃止を求めた90年代の地方

1990年代より需要サイドの地方に目を向けると、まずは機関委任事務制度の廃止が地方六団体(※1)の「総意」だった(首長たちは財政自主権の拡充には消極的な姿勢を見せていた)。国境を超えて企業が移動する時代に、首長たちは迅速に企業を誘致するためのイニシアチブを中央省庁から地方自治体に移すことを一致して求めた。

1995年当時、北陸地方のある町が農地転用の許可を得るために、県、農政局、農林水産本省と回らざるを得ず、1年以上かかったという。中央省庁が持つ決定権の地方政府への移譲は、物流拠点を求めて都市部以外に進出していた企業や、迅速な決定でビジネスチャンスを求める経済界にとっても死活的に重要だった。

経済界からの追い風を得て、地方は総意として機関委任事務制度の廃止を内容とした分権・分離志向の改革を求めていた。他方、地方分権の供給サイドである中央政府に目を転じると、1998年7月に自民党は参議院で過半数を失い、経済不況や金融危機に苦しんでいた。政府与党首脳部の頭には政権交代の悪夢がよぎった。

自民党を政治的に支える地方と経済界が機関委任事務制度の廃止で一致した以上、改革を実施する以外の選択肢はなかった。最終的に小渕内閣は、中央省庁の反対する公共事業や国庫補助負担金の改革にはほとんど触れないことで中央省庁の反発を最小限に抑えながらも、地方分権改革を実施した。

小渕内閣は、その後間もなく公明党などと連立内閣を発足させた。以後、若干の変動があったものの衆議院で過半数の議席を有していた自民党は、公明党との連立により2007年7月まで参議院での過半数の確保にも成功する。

政府からの自立求めた知事たち――「三位一体」改革

比較的安定した政治的環境の下で、2001年4月に財政再建を掲げた小泉純一郎内閣が発足する。小泉首相は同年5月の所信表明演説で財政健全化を明確に打ち出し、高い支持率と安定した政治的環境の下で、地方財政を改革の聖域とせず予算を抑制する方針を示す。

小泉内閣の下では「三位一体の改革」と呼ばれ、国から地方への補助金と地方交付税を削減し、国の税源の一部を地方に移譲した一連の地方税財政改革が始まる。小規模な自治体への交付税額を割り増す「段階補正」や事業費補正を見直し、算定方法を簡素化した結果、小規模な基礎自治体への財政措置は抑えられ、地方への交付税総額は縮減した。

「三位一体の改革」は中央政府に対する地方の自律性の強化を目指す改革でもあり、需要サイドの担い手は中央省庁と直接対峙(たいじ)する47知事だった。

知事たちは、使途の比較的自由な地方交付税が減ったことから、国が使途を決め事業費用を一部負担する国庫補助負担金の改革では廃止・削減と共に、地方の裁量拡大を求めた。特に、全国知事会は1990年代から会長公選や多数決制などの組織改革により、「知事たちのサロン」から「戦う知事会」に脱皮していた。

供給サイドである小泉首相たちも財政再建を図りながら地方の反発を最小化するには地方の自律性の強化が必要と認識していた。一方、省庁からは「手塩にかけて育てた娘」とでもいうべき国庫補助負担金の廃止・削減に対して様々な理由を挙げた抵抗が予想された。

そこで小泉首相らは、本来は受益者であるはずの地方六団体の代表に国庫補助負担金の廃止削減案の作成を求めただけでなく、中央政府の政策決定過程に地方の代表を正式に関与させることにした。こうして法的な根拠なしに設置された「国と地方の協議の場」で、省庁と地方六団体の代表が激しく対立した。

小泉首相たちは、両者の対立を眺めながら、地方への財源を大幅に削減する一方で、国税の基幹税目の税源移譲を決定し、地方の裁量を拡充した。その結果、中心的役割を果たした知事たちは「不満は残るが」改革の帰結を受け容れただけでなく、それなりに高い評価を与えた。三位一体改革は、需要サイドと供給サイドの思惑が一致した分権・分離志向の改革のピークであった。

地域格差拡大で顕在化した自治体間対立

2000年4月の地方分権一括法の施行から2006年9月までの分権・分離志向の改革の結果、それまで重視されていた地域間の公平性への配慮は大きく低下した。一連の改革により地域間格差は拡大したのである。

これに最も敏感に反応したのは基礎自治体の首長だった。2001年8月の調査によると、都道府県の知事は、機関委任事務制度の廃止により行政運営がやりやすくなったと回答し、市長たちは財政面や事務量で負担が増加したと回答している。

三位一体の改革以前にも都道府県と市町村との温度差はあったが(※2))、改革よって中央政府の財源保障機能が弱まった結果、地方政府間の水平的な関係は悪化した。2007年実施の全国市町村長への調査を分析すると、79.4パーセントの市町村長が分権・分離志向の改革に消極的あるいは否定的評価を下している(有効回答数806)。

逆に分権・分離志向の改革による裁量の増加を積極的に評価したのは、財政的に恵まれた市町村長だった。またリーダーシップを強調する首長であればあるほど、分権・分離型の改革を支持し、護送船団方式で地方政府を一括りに捉えることに反発している(※3))。

需要サイドの多数派は財政的に恵まれない市町村長であり、彼らの分権・分離志向の地方分権改革に対する消極的姿勢は政治的に大きな意味があった。地方政府間の対立により、需要サイドでの動きの担い手が、知事から市町村長たちへと徐々に代わっていく契機となったのだ。

政権交代で加熱した“地域主権”論議

改革の供給サイドである政府与党首脳部は、頻繁にやってくる国政選挙を考えると、市町村長の疲労感と消極的姿勢を無視できない。

国会の会期内で法案の採決時期を決める国会の委員長ポストを握っておかなければ、政府与党は立法過程をコントロールできない。ポスト獲得、つまりは法案の迅速かつ安定的な成立に衆議院、参議院選挙での単純過半数は十分でなく、選挙での「大勝」が必要となる。

2006年9月に発足した第1次安倍内閣は、翌年の参議院選挙を控え、改革の姿勢を見せながらも市町村を刺激しない地方分権改革を模索する。国土交通省の各地方の整備局や農林水産省の各地方の農政局といった国の出先機関の廃止は、改革姿勢を有権者にアピールできるだけでなく、裁量の拡大を目指す都道府県の歓心も買える。

その一方、地方交付税や国庫補助負担金の改革とは異なり、市町村に財政負担を押しつける改革ではない。この点で供給サイド(中央政府)にとって魅力的である。国の出先機関の抜本改革は、政府与党首脳部が直面する政治的な不安定性が高まればそれだけ声高に叫ばれるようになる。

2007年7月の参議院選挙で自民党と公明党の連立内閣は参議院での過半数を失い、供給サイドの政治的環境はますます不安定化する。衆議院では参議院の議決を覆せる3分の2以上の議席を確保していたので、彼らが直面したのは「弱いねじれ」の状態といえた。このような政治的不安定性の中で、政府与党首脳部は国の出先機関の抜本改革を一層声高に叫ぶ一方で、地方への移転財源を増加させた。

2009年9月に発足した民主党中心の連立内閣は、当初は参議院の過半数議席はもちろん衆議院においても連立与党で3分の2超の議席を確保し、鳩山由紀夫首相が掲げる「地域主権」改革は大きな期待を集めた。

鳩山首相は同年10月の所信表明演説で12905字中657字(5.1パーセント)も地域主権改革に費やしている。12月に発足させた地域主権戦略会議では、三位一体の改革以降忘れられていた「地域の自律性強化」を前面に押し出す改革がうたい上げられた。が、迫りくる参議院選挙を前に皮肉にも――地方を刺激しないため徐々にではあるが――国の出先機関改革に再び舵を切っていく。

要求を強める大都市

菅直人内閣の発足直後、連立与党は2010年7月の参議院選挙で過半数議席を失うだけでなく、衆議院でも3分の2以上の議席数を有しない「強いねじれ」の状態に陥ってしまう。

不安定な政治的状況で供給サイドから大胆な地方分権改革を仕掛けるのは難しい。2011年9月に発足した野田佳彦内閣は、9月の所信表明演説で9580字中わずか20字(0.2パーセント)しか地域主権改革に触れていない。もはや民主党政権の「1丁目1番地」と言われた政策は消えてしまった。

改革の需要サイドに目を転じると、大都市圏とそれ以外の地域との亀裂が拡大していた。大阪市などの大都市では、周辺地域から昼間だけ都市部に移動する人口の行政サービスの受益と負担の乖離(かいり)の問題などが、かねてより存在していた。

さらに、小選挙区制度の導入は都市部の政治的代表性を高め、大都市による自らの利益追求を可能にする政治的構造が生み出した。大都市は、自らの繁栄のために大都市圏の統治機構の改革を追求し、国政上の与野党にその実現を要求するようになる。

2011年11月の大阪市長、大阪府知事のダブル選挙で大勝利を収めた橋下徹市長、松井一郎府知事が掲げる大阪都構想の動きに脅威を感じた国政政党は両首長の求めに応え、超党派で2012年8月に大都市地域特別区設置法を成立。人口200万以上の政令指定都市で東京都と同様に、公選区長と公選区議会をもつ特別区の設置が認められた(同年9月施行)。

政令指定都市を分割し中核市並みの特別区を設置するという都構想も、基本的には分散・統合志向の改革の流れの一部である。

2000年以降の地方分権改革の流れでは、知事たちの要求を考慮した中央の政策決定者による改革が、さらに市町村長たちを刺激して次の改革を引き起こした。つまり、地方分権改革の供給サイドである中央の政策決定者が、需要サイドである地方自治体の首長の動向を考慮して改革の方向性と内容を決定し、需要サイドの要求に沿って供給サイドが決めた改革が別の需要を刺激して次の改革へとつながった。

国政選挙に左右される改革の行方

2000年代の傾向からも分かるように、地方分権改革の方向性は供給サイドの政府与党首脳部の党派性よりも、彼らの直面する政治的安定性で変わる。

2012年12月に自民党と公明党は衆議院で325議席を獲得し、過半数を有していない参議院の議決を覆すことが可能となった。しかし、国会同意人事などで二院は完全対等であることを考えると、衆議院における再議決の連発は困難である。

新たに発足した第2次安倍内閣は、2013年7月の参議院選挙における過半数の議席獲得により、はじめて立法過程と国政選挙の圧力から解放され、地方に負担を強いるような改革も推進できる。

参議院で過半数を獲得できれば、安倍内閣は2年近くにわたり全国的な利益の観点から改革を追求できよう。ただ、スムーズな改革の遂行には7月までに改革の明確な青写真を準備できるかがカギとなる。

また、需要サイドでも、自律性を追求した知事たちに代わって大都市の市長たちが新たな担い手として登場してきた。彼らが供給サイドの中央を動かせるか否かは、彼らが中央の政策決定者にとってどこまで政治的脅威になれるのかに左右される。地域政党を結成し地方選挙で圧倒的な強さを見せつければ全国政党にとって大きな脅威となるだろう。

(※1) ^ 全国知事会、全国市長会、全国町村会、全国都道府県議会議長会、全国市議会議長会、全国町村議会議長会

(※2) ^ 大森彌「第1次分権改革の効果」/『レヴァイアサン』第33号(2003年

(※3) ^ 北村亘「地方分権改革と基礎自治体の財政認識」/『阪大法学』第60巻第3号(2010年

国会 民主党 自由民主党 安倍晋三 小泉純一郎 地方分権