特集 震災復興の現実
さらば、ふるさと—福島・長泥の失われたコミュニティ

トム・ギル【Profile】

[2015.07.08] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية |

福島県飯館村の長泥区は、最も放射線量が高い「帰還困難区域」だ。故郷への愛着断ちがたい高齢者たちの帰村の夢もついえた。住民たちへの取材を基に英国人社会人類学者が被災地の今後を考察する。

わが家に帰る夢はついえて

ついに長泥集落の未来は断たれた。そう私が実感したのは、福島県飯舘村・長泥で生まれ育った高橋正人と話していたときだ。

この春、県内でも放射線量が高い飯舘村の住民が避難している福島市・松川第2仮設住宅に正人と彼の奥さんを訪ねた。二人がこの窮屈なプレハブ住宅で暮らし始めてからすでに4年の月日が流れた。最近、正人の長男・正弘が、福島市に新居を構えるための土地の売買契約を結んだそうだ。家が建ったら一緒に住みたいかと息子に尋ねられた正人は、そうすると答えた。長男家族の迷惑にならないように自分たち夫婦専用の台所と風呂場を作るための資金を出すつもりでいる。

筆者の肩を揉んでくれている高橋正人氏(右)。筆者は震災後何度も飯館村を訪れてフィールドスタディを行っている。

これまでの4年間、正人は飯舘村の長泥地区にある自宅に絶対に戻ると決めていた。生まれ育ったその地で、生涯を終えるつもりだった。長泥には二度と戻らないと明言した多くの同郷人を尻目に、正人は週に何度か自宅に戻り、飼い猫と池の鯉に餌をやり、帰還に備えて家の掃除もしていた。また、有志と共に、長泥の除染を始めてほしいと村長に要望を出していた。それどころか、公表された放射線レベルを少しでも下げたいという強い思いに駆られ、公設の放射性物質モニタリングポストの近くにある畑に(放射能を吸収する効果があるという説がある)ひまわりの種を撒いたり、草刈りをしたりして自分なりの除染努力を続けた。

でも、それももう終わりだ。「もうわが家に帰る夢は終わったよ」。

避難期日後も踏みとどまった人たち

長泥の前区長である正人は、原発事故が起こった当時75歳だった。福島第1原発の水素爆発で放射性物質は大気中に放出され、北西の風に乗って飯舘村の上に降り注いだ。爆発後数日内に、政府は原発から半径20キロメートル圏内の住民を避難させ、20~30キロメートル圏内を屋内退避区域とした。飯舘村は半径30キロメートル区域より外側だったため、避難指示は出されなかった。しかし、村の一部地域は半径20キロ圏内の多くの場所より放射線量がはるかに高かった。被害が最も大きかったのが、村の最南部に位置する長泥行政区だった。 

立ち入り禁止のバリケード前に立つ高橋正人氏。

長泥では2011年3月17日時点で、毎時95.2マイクロシーベルトの大気中放射線量が記録された。これは政府が安全としていた年間線量限度が1ミリシーベルトに対して、年間834ミリシーベルトに相当する水準である。しかし、飯舘村の20の行政区全域が計画的避難指示区域に指定されたのは、事故から42日間後の4月22日だった。しかも、避難の実施期限はさらに40日後の5月末までとされたことから、政府は緊急を要する事態だとは考えていないという印象を与えてしまった。長泥では、政府の方針に従って5月末に避難した住民は、退去前に約50ミリシーベルトの放射線を浴びたことになる。この避難の遅れがどれほどの健康被害をもたらすのかは、もっと年月を経ないとわからない。

村民の中には政府の避難期日後も長泥に残った人たちもいた。主に牛の繁殖を生業にしている人たちで、子牛が生まれるまで待つつもりだったからだ。

一方、海産物卸業を営む志賀隆光は避難指示からまる1年、愛犬のゴールデンレトリバーのレイとともにたったひとりで長泥にとどまった。彼は放射能に関する本を読み、自宅周囲の線量は健康に深刻な被害をもたらさないと判断した。戸外で長時間作業を要する仕事ではないという認識もあった。だからこそ、乾燥海苔をカットして箱詰めにする作業を長泥で続けていた。だが、政府の避難区域見直しで2012年7月長泥は向こう5年間は居住不可能な「帰還困難区域」に指定され、バリケードで封鎖されて立ち入り禁止となった。見直しが決定的になった時点で隆光はついに諦め、仕事と住まいを福島市に移した。

打ち捨てられた長泥区の中心街。

志賀隆光氏は避難指示区域になった後も1年間長泥に踏みとどまった。

補償金で新天地に家を新築、長泥は過去の記憶

避難した人々の中には、正人のようにプレハブの仮設住宅に入った人もいれば、隆光のように自分で見つけた賃貸住宅に県から補助を受けて住む人もいる。長泥の住民は福島県全域に分散し、それまでの近所づきあいは途絶えた。

福島市・松川第1仮設住宅(左)では、飯舘村出身の夫婦がラーメン屋を営業、その隣には日用品や野菜などの直売所がある(右)。

やがて、福島第1原発を運営する東京電力から補償金が入り始めた。基本支払額は、「精神的損害」への賠償として1人当たり月額10万円だった。これは避難指示が出た全域で同額だった。しかし、長泥のような高度汚染地域の場合は、月額賠償金の5年分と6年分に相当する2回の一括賠償金が支払われた。初回は2012年、2回目は2014年である。さらに、住宅、家具、農業機械、失業に対する賠償金を含む追加賠償も行われている。5人家族であれば補償金は合計で1億円近辺という、長泥ではそれまで誰も見たことのないような金額になっている。

2011年当時、飯館村の菅野典雄村長は、2年で除染を終え、全住民の帰村を実現すると宣言していた。仮設住宅も2年のみということになっていた。しかし、それが3年に延長され、さらに4年となり、5年目に入っても見通しはつかない。一方、年月が過ぎるにつれ、避難先で仕事を見つける人も増えた。以前は補償金を使って家を買う人は数えるほどしかいなかったが、2014年には急増、今では長泥の71世帯のうち、45世帯前後が主に福島市か、近隣の伊達市に家を構えている。子どもたちは落ち着き、新しい友だちもできた。若い世代にとって、長泥での生活はぼんやりした記憶の中に埋もれてしまった。

長泥の展望広場にたたずむ長泥区長の鴫原良友(しぎはら・よしとも)氏。ここから見える山の向こう側で福島第1原子力発電所の事故が起きた。

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  • [2015.07.08]

明治学院大学国際学部教授。1960年英国生まれ。ロンドン大学(LSE)博士(社会人類学)。20年にわたり日雇い労働者、寄せ場、ホームレスを調査。主に横浜・寿町で行った調査をまとめた博士論文をMen of Uncertainty: The Social Organization of Day Laborers in Contemporary Japan (State University of New York Press, 2001)として出版。他の著作には「日本の都市路上に散った男らしさ―ホームレス男性にとっての自立の意味」(サビーネ・フリューシュトゥイック/アン・ウォルソール編『日本の男らしさ、サムライからオタクまで「男性性」の変貌を追う』、明石書店、2013年)、『毎日あほうだんす―寿町の日雇い哲学者西川紀光の世界』(キョートット出版、2013年) 等がある。

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