沖縄を考える

徹底討論(Part 1)・「沖縄問題」の本質とは何か—「沖縄問題」としての基地問題の来歴と現状

政治・外交

米軍基地の約74パーセントが沖縄に集中する中で、普天間基地の辺野古移設をめぐり沖縄と本土の対立が深まっている。沖縄をめぐる問題を3人の国際政治学者が様々な角度から浮き彫りにし、状況打破の糸口を探る。

宮城 大蔵(司会) MIYAGI Taizō

上智大学総合グローバル学部教授。1968年東京生まれ。立教大学法学部卒業後、NHKで記者を勤めたのち、一橋大学大学院に入学。政策研究大学院大学助教授などを経て、現職。著書に『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書、2008年)、『戦後アジア秩序の模索と日本―「海のアジア」の戦後史 1957-1966』(創文社、2004年)など。

遠藤 誠治 ENDŌ Seiji

成蹊大学法学部教授。1962年滋賀県生まれ。1988年東京大学大学院法学政治学研究科政治学専攻修士課程修了(法学修士)。1993年成蹊大学助教授を経て2001年より現職。1995年、2010年オックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジ客員研究員、1996年ウェルスリー大学客員研究員。編著書に『グローバリゼーションとは何か』(かわさき市民アカデミー出版部、2003年)、『普天間基地問題から何が見えてきたか』(共編/岩波書店、2010年)、『シリーズ日本の安全保障』(共編/岩波書店、2014年)等。

平良 好利 TAIRA Yoshitoshi

獨協大学地域総合研究所・特任助手。法政大学兼任講師。1972年沖縄県生まれ。1995年沖縄国際大学法学部卒業。2001年東京国際大学大学院国際関係学研究科修士課程修了。2008年法政大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了。博士(政治学)。主な著書は『戦後沖縄と米軍基地―「受容」と「拒絶」のはざまで 1945‐1972年』(法政大学出版局、2012年)。

本土と沖縄、かみ合わない議論

宮城 今回はまず沖縄をめぐる現状をどう見ているのかについて、お聞きしたい。

遠藤 沖縄の基地問題は、本土では沖縄の問題と受け止められているのに対して、沖縄では、基地問題は日本全体の問題として受け止めている。その負担もまた日本全体で公正に分かち合うべきだという主張の上に、普天間飛行場の返還、辺野古での「新基地建設」反対が論じられている。沖縄の基地問題について、本土の人々および政府と、沖縄県および沖縄の人々の間で必ずしもかみ合った議論が行われていない。

安倍政権は辺野古の「新基地建設」については既に地元の了解を得ているとして、2014年11月の沖縄県知事選挙、12月の衆議院議員選挙など多様な機会を捉えて沖縄県民が示してきた民意を一切考慮しない姿勢をとっている。現在のところは、沖縄対本土という対立の構図があまりにも明確で、建設的な解決の方向も見えていない。

日本を取り巻く国際環境や安全保障状況が改善されれば、沖縄の基地の必要性について冷静な議論が可能になるので、基地問題の行方について多様な可能性を探究する余地が生まれてくる。しかし、尖閣問題についてはここしばらくの間は、日中間で落ち着きが得られているものの、南沙諸島の問題が緊迫感を増すと、米軍内でも日本本土から見ても、沖縄の基地の必要性が改めて強調され、米国の対東アジア関与を希薄化するような議論への共感が得にくくなる。

特に本土では、安全保障上の関心が最重要事項となり、そのためには沖縄の米軍基地が必要だという論理や思い込みが強くなっている。純粋に軍事的な観点から見て、中国を抑止するために沖縄の基地が不可欠なのかという点について検討がなされるべきであるにもかかわらず、日本政府や本土の国民は、「中国を抑止する必要があり、抑止するためには基地が必要で、基地は沖縄になければならない」という考え方以外の方法に耳を傾ける余裕を失っている。

沖縄の人たちは、日本全体の安全保障、沖縄県住民の安全な生活環境、基地撤去から得られる経済的利益、埋め立てで基地を作ることにともなう生態系の破壊の危険性など、いろいろな理由があって、それらについてかなり熟慮した上で新基地建設に反対を表明している。しかし本土ではそうした深みや広がりのある議論を理解しようとする姿勢そのものが欠けている。

このように、沖縄県民および沖縄県庁と政府の対話が行える環境としては、良くない方向に向かっており、本土と沖縄が対立しているという構図ばかりが強調されてしまっているというのが私の認識だ。

沖縄に残る「敗戦国日本」の姿

平良 少し別の観点から言うと、私はいまの「沖縄の姿」そのものが戦後日本のありかたを凝縮的に象徴していると思っている。これは沖縄の問題ではなく、しかも沖縄対日本という枠組みでもなく、戦後日本の問題として議論を組み立てていく必要があると考えている。

いまの「沖縄の姿」が問いかけているものは2つあって、1つは主権国家としての日本の在り方。もう1つは民主主義国家としての日本の在り方だ。

現在沖縄では、名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院議員選挙のすべてにおいて辺野古移設反対を主張する候補者が当選したにもかかわらず、政府はその民意を無視しているというかたちで、民主主義の問題を提起している。けれども私は、そのレベルでの民主主義の問題ももちろん重要だが、もっと根本的に、民主主義国家を成り立たせている前提のレベルから議論する必要があると考える。すなわち、防衛負担の平等にかかわる問題だ。こうした2つの観点から問題を捉え直さなければ、なかなか展望は開けないのでは思う。

宮城 もう少し具体的に言うとどういうことか。

平良 日本は1952年のサンフランシスコ講和条約の発効により、6年8カ月続いた占領を終わらせ、主権を回復した。その後、50年代には、本土に駐留する米軍の撤退と基地の縮小に取り組んでいる。これは60年代も続き、70年代には、あの関東計画に象徴されるように、首都圏からも多くの基地がなくなっていった。52年の段階で米軍基地(専用施設)は13万5200haもあったが、60年には3万3500ha、72年には1万9700ha、そして80年には8500haにまで削減されている(現在は8000ha)。

このように米軍撤退、基地縮小に日本の政治家たちをして動かしたのは何だったのか。安保改定を成し遂げた岸信介元首相の言葉を借りて言えば、占領の「残滓」の払拭。つまり、主権国家として「日米を対等の地位に置く」といったものが、強弱の違いはあれ、日本の政治指導者たちを突き動かす原動力になったと思う。60年の日米安保条約改定にしても、また72年の沖縄返還の実現にしても、根本的にはそうしたものを駆動力にして推し進められたと思う。これらの実現によって、日本は占領の「残滓」の払拭、「日米対等」の実現というものに、ひとまず “ケリ” をつけた格好にした。

しかし本当に “ケリ” をつけることができたのか。沖縄をみると、2万2700haという広大な米軍基地が戦後70年を経ったいまも残っている。沖縄戦から米軍占領期につくられた基地が、しかも戦勝国の力によってつくられた基地が残っている。この「沖縄の姿」をみると、果たして本当に日本は占領の「残滓」を払拭できたのか。あるいは敗戦国から脱することができたのか、と思う。主権国家の在り方が問われているとは、こういうことだ。

基地問題にはもともと保守も革新もなかった

宮城 ここに来て「オール沖縄」という形で「現行案」に対する反発が高まっている。これはどういうふうに理解すればいいのか。

平良 沖縄内部の政治構造の変化を見る必要がある。沖縄では1960年あたりから本土から保革対立の枠組みが入ってくるが、この保革対立の政治構造をより仔細にみると、地域レベルの問題では保革が連携できる基盤のようなものがもともとあったことが分かる。

国家レベルの問題では、日米安保条約、米軍基地、自衛隊の存在をめぐって保革が対立するが、しかし地域レベルの問題では、基地の整理縮小と経済振興をめざすという意味では、両者の間に大きな違いはない。この点の理解が重要で、保守は「経済」、革新は「基地」や「平和」といった単純な分け方をすると、沖縄政治を捉え損なってしまう。

ただ、そうはいっても、保守は「経済」をより重視し、革新が「基地」や「平和」の問題をより重視したことは間違いない。だから、沖縄を取り巻く「現実」そのものが変わっていけば、つまり「基地もなく、豊かな沖縄県」という「理想」に近づいていけばいくほど、両者の距離が接近してくるのは、ある意味で自然なことだ。

米ソ冷戦の終結後、基地返還の可能性も見えはじめ、しかも経済振興によって基地への依存度も徐々に減っていったことから、保革がともに基地経済からの脱却と基地の整理縮小を現実の課題として射程内に入れ始め、両者の距離は事実上接近してくることになる。そうした沖縄内部の変化をまずはおさえる必要がある。

経済と基地の交換に固執する本土政府

遠藤 日本政府は、ずっと保守政権が続いてきた。沖縄復帰に向けてエネルギーを注いだ保守政権は、沖縄復帰後、基地問題そのものを解決するよりも、基地を引き続き沖縄に引き受けてもらう代わりに経済振興に取り組むという方法を採用してきた。基地固定化の代わりに行う経済振興の受け皿としての沖縄の保守勢力に肩入れしてきた。戦後日本を牽引してきた開発主義を沖縄に関しても集中的に展開する時に、沖縄にも保守勢力が必要だったということだ。

現状を見るならば、翁長雄志(おなが・たけし)新知事は保守で、翁長支持者も本来的には保守勢力という点に注目する必要がある。そして、沖縄の中の保守勢力が新基地反対を主張している現状は、「経済振興策を展開するから基地の問題では辛抱してね」という方法論が行き詰まっていることを示している。

経済面で見ると、例えば、沖縄を観光地として売り出し、リゾート開発などを行ってきたわけだが、一方で、基地を辛抱してもらう代わりに注ぎ込んだ資金でできた公民館のような箱物は、一時的に建設業界を潤すかもしれないが、結局のところ維持費がかさんで自治体財政を圧迫するし、経済的に見て持続的な開発にはつながらないことが明らかになった。そして、リゾートとしての沖縄が価値を高めていくと、基地の存在そのものはむしろ沖縄の経済的発展や自立にとって障害となるという理解が広がっている。

実際、基地跡地が返還されたところでは、新たな商業機会が生まれ、雇用が生まれるなど、プラスの経済的波及効果が大きいことが統計的にも実証されてきた。基地から得られる地代所得は波及効果が小さいのに対して、跡地を有効に活用すればその数倍の利益を生み出すことができる。つまり、基地に依存して何とかやっていくのではなくて、基地がなくとも繁栄できる、あるいは基地をなくした方がより大きな利益が得られることが示されてきたわけだ。こうした実例を基礎にして考えていけば、基地受け入れと開発の交換ではなく、基地返還と開発の両立でより大きな利益が得られるという点で、沖縄の人たちがまとまってきた。つまり、保守と革新の間には以前ほど強い対立がないということになっている。それが今の沖縄の姿ではないのか。

つまり、沖縄では、復帰以降の開発主義体制を脱した新しい方法の模索を、実績に基づいた形で展開しようとしてきた。そうした潮流が翁長知事の下で顕在化してきた。したがって、現在の沖縄が、純粋に基地問題として、海兵隊基地の撤去を求めているのみならず、経済的な利益の観点からも基地を障害と捉え、経済と平和という両方の観点から基地なしでやっていきたいと言っているのは、それなりに強固な基盤がある。

それにもかかわらず、本土の側は依然として、基地受け入れと開発の交換という古いやり方でいけば沖縄は黙らせることができるという姿勢でいる。そして、沖縄に定着してきた新しい潮流には耳を貸さないという姿勢を取っている。

つまり、沖縄の中で保守と革新が一体化していくプロセスが進行しているのに、本土の政府のやり方は全く変わらない。本土の旧来の論理は、もはや説得力を失っているということに気づきもしない。あるいは気づいていても、気づかないふりをして力で突破しようとしている。こうした形で本土と沖縄との関係が行き詰まってきたのだと考える。

ターニングポイントとなった少女暴行事件

宮城 おっしゃるように、構造的に行き詰まっていたものがあると思う。結果としてその「瓶の蓋」を抜いたのが、少女暴行事件であり、その後の普天間飛行場返還であった。普天間についていえば、もちろん返還はされたほうがいいのだが、一番の難題であるはずの「代替施設」について詰めないまま劇的なトップダウンで決定という「演出」が採られた。これは決定した橋本龍太郎首相自身、非常によく分かったうえでの一種の賭けだった。

沖縄県内での移設は本当に難しい。那覇軍港(那覇港湾施設)のように、何十年たってもそのままというのはごろごろしているわけで、橋本氏ほどの政策通の人ならそのことを熟知していただろう。しかし当時は大田昌秀知事の土地収用契約延長の代理署名拒否があったので、あのままいくと翌年には嘉手納をはじめ不法占拠状態が発生するという中で、沖縄の空気を変えるような劇的な手段が必要だと考えた上での決断であったといえよう。

一方で、橋本首相・モンデール駐日米大使による96年4月の普天間返還発表時には、「代替施設」については、沖縄の既存の基地内へのヘリパッド建設と部隊の本土などへの移設分散という話だった。それがどのような力学によるものか、瞬く間に長大な滑走路という話に拡大し、それをどこに持って行くかで橋本首相は悩んだ末に、海上浮体構造物という案に乗ったりした。

従来の日本政府の「沖縄政策」が潜在的に行き詰まりつつあったわけだが、それが普天間移設という非常に個別具体的な問題によって、一挙に全面化してしまった。

鳩山発言「最低でも県外」の衝撃度

遠藤 大きな問題にしてしまったのは、民主党政権の鳩山由紀夫首相だと思っている。それまでは、沖縄内部に、基地移設も期限をつけるなどいろいろな留保をした上ではあるが、最終的には受け入れようという勢力があったが、鳩山発言が触媒になって、もう県外でやっていけると本土だって言っているじゃないか、それならそうしてもらうべきだということになった。

宮城 今の話だと、鳩山首相については否定的な評価か。

遠藤 ポジティブ、ネガティブという言い方で評価するのはなかなか難しいが、鳩山首相の「最低でも県外」という発言が、沖縄の中にあったいろいろ異なる方向性を、1つの方向に束ねる役割を果たしたのだと思う。

私自身は、海兵隊の普天間基地は返還されるべきで、しかも県内移設なしでやっていく方法を模索したほうがいいと思っている。それは、既に述べたように、この点で沖縄の人たちの声が1つになっており、それに揺らぎがなさそうだと考えるからだが、そうした揺らぎのない声は、意図的だったかどうかは別にして、鳩山首相の発言を触媒として成立したと思う。

宮城 沖縄からすると、鳩山発言に対し、本土がこぞって「うちも嫌だ」「うちも嫌だ」「なぜ沖縄じゃ駄目なんだ」と思っていることが明らかになってしまったという、もう1つの意味がある。

遠藤 確かに、本土ではだんまりを決め込んで、結局、移設先はどこにも見つからなかった。それで、本土と沖縄の対立がはっきりしてしまったというか、差別の仕組みが見えるようになってしまったということか?

宮城 差別と言うかどうかは別として、「今まで沖縄にあって慣れているのだし、これまで同様、沖縄で引き受けてくれればいいじゃないか」という本音のところが可視化されてしまったというのはある。

行き詰った沖縄保守

平良 私も鳩山政権の影響は大きかったと思う。98年に大田知事が最終的に辺野古移設に反対し、その後、政府との関係が一気に悪化した。新しく知事になった稲嶺恵一氏は、やはり政府との関係をしっかりしないと経済振興もうまく進まないということで、15年の軍民共用案を条件にして辺野古移設を容認した。

「条件付き」というのが重要で、移設反対の県民世論が高い中、稲嶺県政としてもあまりに政府に迎合しすぎることもできない。かといって、県民世論に従い移設反対の立場に立てば、政府との関係がうまくいかなくなる。そうしたジレンマの中、何とかバランスを取りながらやったのが、稲嶺県政だったと思う。だから、保守の側も嫌々ながら辺野古移設を容認してきたわけだ。

それが、仲井真(弘多【ひろかず】)県政あたりから綻(ほころ)びが出て、鳩山首相が「最低でも県外」と言ったときに、ぎりぎりのバランスで成り立っていた沖縄保守の政治の在り方が、全部吹っ飛んでしまう。稲嶺元知事が「これで苦渋の選択をしなくてもよくなった」という趣旨の発言をしているが、これは稲嶺氏だけでなく、多くの保守の人たちの心情だったと思う。その結果、すでに実態としては政策距離が縮まっていた保守と革新が、手を結ぶことになる。その橋渡し役を保守の側で演じたのが、現知事の翁長氏だった。

宮城 別の言い方をすると、大田知事は悩んだ末に最終的に辺野古移設の拒否を表明し、その大田知事を選挙で下して出てきた稲嶺知事は、「軍民共用で15年の期限付き」と、決して無条件で受け入れたわけではない。ところがこの「期限付き」は、2006年に米軍再編に関わる閣議決定がなされた際に、稲嶺県政からみれば事実上、一方的に破棄された。

稲嶺知事の後継者として出馬した仲井真氏は、「反対」を正面に掲げた対抗馬に対して、その時点での「現行案」には賛成できないというだけで、もっぱら経済問題に力点をおいた。

このように保守系の知事であっても、無条件に「受け入れ賛成」を掲げてきたわけでは決してない。仲井真県政時代に、市長と地元・辺野古と県知事が「受け入れ」でそろった瞬間があったといわれるが、逆に言うと、その前後を見ても、その「瞬間」しかそろったことがない。

平良 鳩山首相の「最低でも県外」というのが大きかったが、もう1つ影響が大きかったのは、鳩山首相が辞めた後に、海兵隊の抑止力は「方便」であったと発言したことだ。さらに、2012年12月に森本敏防衛大臣が、「(普天間基地の代替施設は)軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると、沖縄がつまり最適の地域である」と明言したことは、決定的だった。

以前から沖縄のメディアには、海兵隊の駐留は必ずしも沖縄でなくとも可能だという日米の専門家や元政府関係者の意見が出ていたが、元総理大臣や現職の防衛大臣がそういうことを言ったもんだから、海兵隊の「抑止力」とは一体何だったのか、なぜ本土でも代替施設の建設が可能なのに我々がその負担を引き受けなければならないのか、といった疑問と不信が沖縄で急速に高まった。

なぜ沖縄でなければならないのか

遠藤 現在、日本政府が語っていたり、日本国民が感じていたりする抑止力は、多分非常にアバウトなもので、米軍がいてくれる安心感みたいなものにすぎない。米軍がどこかに居てくれれば中国が台頭してきても守ってもらえるんじゃないかという感覚で、ちょっと言葉は良くないかもしれないが、多くの本土民にとってはお守りみたいなものだ。

ところが、沖縄で基地問題に直面している人たちから見ると、海兵隊がどこかへ出撃するのだとしたら、佐世保からわざわざ船を運んできて、沖縄で人を乗せてから出かけるのだから、効率性の観点から見ても、普天間ないし辺野古にないといけない理由は見当たらない。また、アフガニスタンへの駐留やイラク戦争、そしてイラク占領統治中は、在沖縄海兵隊の兵力は相当小さくなった。それにもかかわらず、特に大きな軍事紛争が起こったわけではない。

また、軍事的な観点で論理的に詰めて考えていってみると、海兵隊という軍隊のあり方からみて、抑止力として期待できるわけではない。つまり、沖縄の人たちにしてみれば、海兵隊が抑止力として沖縄に基地をもっていなければならないという論理的で説得力のある説明を聞いたことがない。

生活上の危険とか、騒音とか、海兵隊員の犯罪とか、さまざまな現実的な負担と、差し引き計算をしても、海兵隊の抑止力などという曖昧な主張を根拠にして自分たちが辛抱しなければいけない理由はない。ましてや元防衛大臣ですら沖縄でなくても本土の西部であれば、海兵隊の軍事的機能は維持可能だと言っているのだから、沖縄以外のところに海兵隊基地をもっていっても軍事的な安全保障は維持可能だ。それなら、日本全体の安全保障を、日本全体で負担を分かち合うことで、解決ができるはずだ。そうすれば、沖縄の負担は確実に軽減できると沖縄の人たちが考えたとしても、全く不思議ではない。

ちなみに、私自身は、中国の台頭と米国の相対的退潮という大きなトレンドがある中で、米軍が東アジアから撤退していくのは、確かに不安定要因だと思う。しかし、米軍自身が進めてきた「米軍再編」のプロセスの中で、グアム、ハワイなどに海兵隊を分散配置することが明らかになってきたし、実際に、オーストラリアのダーウィンにも配備されるようになった。こうした兵力の再配置を進めていく中で、沖縄本島に海兵隊の基地を常時設置しておかなくても、東アジア地域における抑止力を維持できるようなシナリオはつくれるのではないかと思っている。

嘉手納基地の維持こそ大きな価値

遠藤 この点から見て、沖縄の人たちが、嘉手納の空軍基地については、まだ縮小、撤去とは言っていない、ということを見逃すべきではない。米軍にとっては、世界全体での戦略的な配置を考慮するとき、嘉手納基地を維持することの価値はきわめて大きい。アメリカの日本および沖縄への確実なコミットメントを確保し、中国などにアメリカが東アジアにおける現状維持に関心を失ったという誤ったメッセージとなって伝わらないような、兵力の再配置計画は可能なはずだ、本来ならば、そういう提案を日本側からしても構わないはずだと思っているが、出て来ない。

宮城 この話は、「沖縄対本土」になってしまうことが問題点だ。中央政界では、これだけ政党の数がありながら、この問題については社民・共産を除けば多様性が全く出てこない。このまま「現行案」で押し切ったとしても、沖縄の反発は強まるばかりだろう。そのことが結局は、沖縄の基地に多くを依存する日米安保体制を不安定化させる要素となるのではないか。「辺野古」の話をそこまで深刻な問題にまで拡大させてしまって本当にいいのか。

遠藤 アメリカの中でも地元に受け入れられていない基地への不安感が大きくなっている。特に、現役の軍人ではなくて、リチャード・アーミテージや、ジョゼフ・ナイといった政治的な判断をする人たちは、沖縄に代替基地をつくったとしても、安定運用できない。もう諦めたほうがいいと言っていたのに、結局、仲井真氏が最後に受け入れてしまったことで、アメリカの方が「なんだ、地元が受け入れて良いと言っているんだったら、自分たちが代替案を一生懸命考えたりしなくてもいいんだ」となってしまった。その意味では、仲井真氏の責任は非常に重いと思う。

宮城 日本政府のほうは、過去に説明してきたこととの整合性に縛られて、ダイナミックな政策変更ができない傾向がある。戦後外交を見ても、結局、大きな政策変更の多くは、アメリカのイニシアチブから来ているようなところがなきにしもあらずだ。

「国外」を言い出せなかったことにすべてが凝縮

平良 やはり95年にあの少女暴行事件が起こったとき、国外移転、つまり日本から海兵隊を撤退させることを日本側が提起できなかった理由を考える必要がある。ここに問題が凝縮的に詰まっている。

1つの背景には、冷戦時代にできた固定観念を拭い去ることができなかったのではないか、ということがある。日本は少なくとも70年代前半までは、「対等性」と「安全確保」のはざまでジレンマにあった。つまり、在日米軍の撤退等によって占領の「残滓」を払拭し、日米を対等の関係にしていきたいという思いがある一方で、あまりに米軍が日本からいなくなってしまうと、今度は自国の安全確保に不安がでてしまうというジレンマがあった。

しかし、70年代前半までにかなりの米軍を撤退させ、しかも首都圏の米軍基地の返還も実現することになる。また60年には安保改定、72年には沖縄返還も実現する。先ほども言ったように、これで日米の「対等性」の問題にひとまず “ケリ” をつけた恰好となった。一方、70年初頭に米側が在日米軍の大幅撤退案を示した時、防衛庁・自衛隊の中では、日本防衛のための米軍兵力は「既に限界を割っている」、あるいは「今回の提案が最低限」といった意見が出され、米軍のさらなる撤退に懸念を示している。これは最近の研究で明らかにされたことだ。

つまり、政治のレベルで考えると米軍は撤退してもらいたいが、安全保障のレベルからみれば、これ以上の撤退は困るということになる。ここで日米の「対等性」の問題と日本の「安全確保」の問題がある種の均衡点に達したのではないか。

また、米軍の地上戦闘部隊は50年代末までに日本本土からいなくなり、唯一残っていたのが沖縄の海兵隊だったが、その海兵隊の本国撤退ないし韓国移転構想が、70年代初頭に米側から浮上してきた。これも最近の研究で明らかになったことだが、当時の防衛庁は、「極東のどの地域にでもいったん事あれば派遣できるという抑止力の役目を果たしている」といった考えで、海兵隊の沖縄残留を求めている。

こうした70年初頭に構築された海兵隊を含む在日米軍への評価が、冷戦終結後も、そのまま歴史の慣性として続いたのではないか。95~96年に国外移転を日本側が提起できなかった背景の1つには、こうしたものがあったのではないか。

宮城 95年の事件のようなことはないことをもちろん強く願うが、確率的に未来永劫ゼロとは言い切れない。今の状況が続く中で何かしらの事件、事故が起きてしまったときに、本当にどうなってしまうのだろうかと考えると、非常に恐ろしい。

遠藤 その感覚は、日本政府よりも米軍側に強いのではないか。日本政府は、基地を受け入れてもらう際の政治的な感覚が驚くほど鈍感だ。米軍のほうが、基地維持についてよりリアリスティックに考えている。

宮城 あの暴行事件のときもそうだったように見える。当時の河野洋平外務大臣は当初、軽率な動きをすると日米安全保障が揺らぐというような姿勢だった。リベラルな部類の河野氏ですらだ。それに大田知事が強く反発して、代理署名拒否につながっていった。感度の違いとしか言いようがない。むしろアメリカのほうが実際に沖縄で基地を運営している分、感度がいいというところはある。

平良 沖縄と本土との感覚の違いで言うと、本土では70年代までに米軍基地が大部分なくなっていく。それにあわせて事件事故も少なくなっていく。つまり、米軍や米軍基地という負の側面がなくなっていって、日米関係を正のイメージで捉える傾向が強くなり、しかも「日米同盟」という呼び名も広く認知され、その日米同盟を深化・発展させる方向で進んでいった。その流れが冷戦終結を経て今日に至るまで、基本的には続いていると思う。

一方、沖縄を見ると、広大な米軍基地がずっと存続しているわけだから、やはり負のイメージが強い。ここに本土と沖縄の現実の違い、また認識のギャップをみることができるのではないか。

遠藤 72年の沖縄返還から40年以上経つことを考えると、あらためて本土と沖縄の感覚のずれが大きいことを実感する。

(2015年6月19日の鼎談に基づき、編集部が構成)
タイトル写真=宜野湾市の市街地とその後方に隣接する米軍普天間飛行場/ 時事

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