2回のお代替わりを見つめて

シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(5)天皇誕生日:最後の記者会見での陛下と昭和天皇の涙

社会

天皇陛下は、85歳の誕生日を前にした在位中最後となる記者会見で、戦争と戦後の日本の歩みを振り返りながら、「(象徴としての)私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と話された。何度も声を震わせ、涙声になった。昭和天皇も最後の誕生日会見で涙を流された。お二人がそろって国民に言い残されたのは、「平和の尊さ」であり、「平和を守ってきた国民への感謝」だった。

何度も感極まり、お声を震わせて

陛下は2018年12月23日の誕生日に先立ち、記者会見に臨まれた。お誕生日会見は毎年、記者が天皇に直接、お考えを尋ねる貴重な機会になっており、戦後の昭和天皇の時から続いている。陛下は16分間、ご自分の人生を振り返るように語り続けた。感極まり、言葉を詰まらせながら述べられたところをたどっていくと、陛下が時間をかけてご自分で練り上げた文案に特別の思いを込めた点が浮かび上がってくる。

「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」。皇太子時代を含め11回訪問された沖縄に、力強いメッセージを送られた。そして、平成の時代について、「我が国の戦後の平和と繁栄が、(先の大戦での)多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたことを忘れず、戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切」「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と話された。平和を守り通すことを大切にしてきたお気持ちが伝わってくる。

在位中に多かった自然災害の被災者に心を寄せながら、「人々の間にボランティア活動をはじめ様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます」と語られた。被災地へのお見舞い訪問を重ねてきた陛下は、同じく被災者のために立ち上がったボランティアを“同志”のように思われたのかもしれない。

国民への感謝と、皇后さまへのねぎらい

そして、「天皇としての旅を終えようとしている今、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と話された。続けて、間もなく結婚60年を迎える皇后さまに、「私の人生の旅に加わり、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心からねぎらいたく思います」と述べられた。陛下は国民と、常に二人三脚だった皇后さまへのお礼を忘れなかった。

皇居・宮殿の庭を散策される両陛下(宮内庁ホームページから)http://www.kunaicho.go.jp/activity/gokinkyo/01/h30-1020-ph.html
皇居・宮殿の庭を散策される両陛下(宮内庁ホームページから)

最後に譲位後の新時代について、「天皇となる皇太子と、それを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」と話された。全幅の信頼を置くお子さまたちに、これからの皇室を任せることを明言されたのだ。秋篠宮さまの大嘗祭(だいじょうさい)への国費支出に疑問を投げる発言が波紋を呼んでいる中で、陛下はお立場上、このことに関する直截な言葉を避けながら、「皇室も時代の変化に応じていく」という考えを示されたのではないか。

天皇誕生日の一般参賀には、全国から陛下の退位を惜しむ8万2000人余が詰めかけた。小雨にもかかわらず、この50年間で最多の人出を記録した。この中に、秋篠宮家の長男、悠仁さまもいたという。12歳の若き親王の目に、長い列が焼き付いたに違いない。いつの日か、その意味を理解され、国民に愛された祖父を思うことだろう。

天皇誕生日の一般参賀で訪れた人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま=2018年12月23日、皇居(時事)
天皇誕生日の一般参賀で訪れた人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま=2018年12月23日、皇居(時事)

「大戦が一番いやな思い出」と語る昭和天皇の頬に涙

昭和最後となった天皇誕生日会見は、30年前の1988年4月に行われた。87歳になる昭和天皇は、前年秋に開腹手術を受けてから初めての記者会見に臨まれた。質問事項は事前に知らせてあるので、例年、回答のメモを用意して読み上げるが、この時は何も見ずに記者側の質問に答えられたことに、出席していた筆者は驚かされた。天皇は一つ一つ言葉を選びながら、大きな声で話された。

最初に健康について、「体調はよく回復したし、疲れもない。(手術が決定した時は)医者を信用しました」と淡々と答えられた。50年以上仕え、この会見の直前に退任した徳川義寛侍従長については、「特に終戦の時に(玉音放送の)玉音盤を(皇居に乱入してきた反乱兵に殴られながらも)よく守ってくれた」ことなどを挙げ、「裏方の勤務に精励してくれたことに感謝しています」と話された。昭和天皇はあの8月15日のことを鮮明に覚えられていた。

この会見での核心でもある「第2次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせください」との質問に入ると、昭和天皇は座り直された。最後になるかもしれない会見に、記者会としてぜひともお尋ねすべき質問だった。両目をつぶった天皇は、「何と言っても、大戦のことが一番いやな思い出であります」と語り出された。その時、筆者は天皇の左頬に一筋の光るものが落ちていくのに気が付いた。涙だった。

87歳の誕生日を迎えられ、参賀の人たちに手を振って応えられる昭和天皇=1988年4月29日、皇居・長和殿(時事)
87歳の誕生日を迎えられ、参賀の人たちに手を振って応えられる昭和天皇=1988年4月29日、皇居・長和殿(時事)

「戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたことを、うれしく思っています。どうか今後とも、そのことを忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」。口調に乱れはなかったが、涙が静かに頬を伝わった。昭和天皇が終戦を最終決定した昭和20年(1945年)8月14日の御前会議で、閣僚らを前に涙されたことは知られている。それから43年後に天皇の涙を拝見し、まだ30歳代半ばだった筆者の心音が高鳴った。そして、昭和天皇は今、国民への遺言を語られているのだと感じた。

会見はこの後、前年秋に手術のため中止と沖縄訪問について、「健康が回復したら、なるべく早い時に訪問したい気持ちは何も変わっていません」と意欲を見せられ、終わった。20分弱ではあったが、充実した会見だった。

「平和」を言い残された両天皇

昭和天皇の涙の意味について侍従を取材したら、「お上(おかみ=天皇の敬称)は涙について何もおっしゃらないが、実は前にも涙されたことがあった」と教えてくれた。このことは後年、作家の阿川弘之がエッセイで書いている(随筆集「天皇さんの涙」文芸春秋社刊に収録)。あの記者会見の2年前の1986年4月、東京・両国国技館で行われた御在位60年記念式典でのことだった。

その時の写真を23年後に見た阿川はハッと驚き、「裕仁天皇の左頬に涙が一と筋流れてゐるのがはつきり分る。何をお考へになつての涙かは知る由も無いけれど、――」と書いた。阿川は、即位から終戦の聖断までの20年や、占領下のマッカーサー連合国軍最高司令官訪問や全国巡幸など、昭和天皇の辛かった日々のことを思い、「私の眼からも涙があふれて来た」と続ける。そして、1936年の陸軍青年将校らによる軍事クーデター未遂事件の「2・26事件」などをたどりながら、昭和天皇が在位60年で流した涙の意味を推し量っていく作品にしている。

昭和天皇は最後の記者会見から9か月後に亡くなられた。今回、平成の最後の天皇記者会見で現陛下の涙声を聞いて、両天皇は国民に「戦争は絶対にしてはならない。平和を守っていこう」、そして平和の尊さを、戦争を知らない人々に伝えていこう、と言い残されたのだと思った。

(2018年12月26日 記)

バナー写真:85歳の誕生日を迎え記者会見に臨まれる天皇陛下=2018年12月20日、皇居・宮殿「石橋の間」(時事)

皇室 天皇 昭和天皇