四大天王ジャッキー・チュンが私に見せたスターの究極の気遣い

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中華圏の「歌神」が日本公演で熱唱

2018年11月7日、さいたまスーパーアリーナで、中華圏で「歌神」とよばれる香港の歌手ジャッキー・チュン(張學友)のコンサートが行われた。1985年に歌手、86年に俳優としてデビュー、90年を過ぎた頃から他の3人の香港のスーパースターとともに「四大天王」と呼ばれ、中華圏エンターテインメント界に君臨した。中でもジャッキーは、圧倒的な歌唱力を持ち、今現在も最も敬愛されているシンガーである。

ジャッキーは、これまでずっと2、3年に一度、大規模なコンサートツアーを行ってきた。今回のツアータイトルは「A CLASSIC TOUR」。2016年10月に始まり今も続いており、19年1月29日に香港でこのコンサートツアーは約230回目の千秋楽を迎える予定。そのうちの204回目がさいたまスーパーアリーナで行われたコンサートだった。

アリーナ中央には、大きな何もない円形のステージ。ライブが始まると、そのステージの一部が上下し、おしゃれな街灯やソファが置かれてダンサーが踊ったり、ステージ床に映像が映し出されたりと、さまざまなセットをほぼ1曲ごとに変えて展開される。ジャッキーは衣装を何度も替え30人のダンサーと踊り、四方にいる観客に全てのトークを暗記した日本語で語り掛け、3時間歌い続けた。

こんなことをジャッキーは、この日まで203回続けてきた訳だ。

午前3時からでもインタビューに応じるサービス精神

ジャッキーという歌手を私がよく知るようになったのは、1990年代になってからで、90年代初め日本のレコード会社ポリドール(現在のユニバーサルミュージック)が当時、中華圏で最も力のあった香港ポップスのCDをリリースすることになり、代表してインタビューをするために台湾に渡った。94年、ジャッキーが台湾で初めてコンサートを行ったからだ。その時のことは今でも鮮明に思い出す。

台湾はまさにスーパースター来台で大騒ぎだった。ライブ当日昼間に雨が降り、リハーサルが遅れている。その頃はインドアの台北アリーナはなく、会場は屋外だ。私のインタビュー時間も流動的になった。ホテルのボールルームはリハ待ちの人でごった返している。私たちもすることなく所在なげに立っていた。ジャッキーは私たちに気付くと近づいて来た。「日本の方だよね。インタビューをすることは聞いている。必ずどこかで時間を取るので待っていて」。人気シンガーがこの気遣い。感動した。

コンサートが終わり、打ち上げ会場。すでに夜中の12時になっている。ジャッキーはコンサートに関わったスタッフが食事をしているテーブル一つ一つを回って、感謝を伝えている。メディアの囲み取材も受けている。そしてその合間を縫って私たちのテーブルに来て「今10分くらいできる。少しでも質問して」と言ってくれた。打ち上げが終わり、ホテルで続きをしようということになった。何とインタビューは午前3時から。

「疲れていませんか?」と聞くと「大丈夫、ライブの後はいつもちょっと興奮状態だからちょうど良かった」という返事。すでにライブが終わって4時間がたっていたのに。

同じホテルに滞在していた私はインタビュー終了後、部屋に戻り爆睡した。午前6時、部屋の電話が鳴る。スタッフの声だ。「ジャッキーが今から出発するから見送りませんか?」。急いで最上階の部屋の前に行くと、明るい笑顔で出てきた。そしてロビーに降りると、ファンと話したりサインをしたり、握手をしている。「これから中国に行って仕事だ」とスタッフが言った。

すごいと思った。頭が下がった。彼はこういうことを毎日のようにしているんだ……。

ジャッキー・チュン(ユニバーサルミュージック提供)
ジャッキー・チュン(ユニバーサルミュージック提供)

スーパースターとはファンのために生きる存在

この頃の台湾は戒厳令が解除され、表現の自由が認められ、自らのアイデンティティーを表現するアーティストがどんどん出て来た。台湾ポップスにハマっていた私はそういう音楽に強く引かれていた。つまり、台湾から見た香港はスターが多くてキラキラと輝いていていたが、社会性がないなどと思っていた。

つまり、私は何も分かっていなかったのだ。

その後、ジャッキーとは縁があって友人付き合いが始まり、彼の思いを聞く機会ができた。中華圏で最高とされる歌手の苦悩、それを克服するためのたゆまぬ努力を聞いた。素の彼は愛すべきおっちょこちょいの部分もあったが、表現者のジャッキーは完璧主義者だ。今回のコンサートはまさに「プロ中のプロの仕事」だ。

香港でトップを走っているスターたちは徹底的にスターであり、自らを捨てても、観てくれる人聴いてくれる人たちを、楽しませるため癒すため元気づけるために存在しているのだった。そういう在り方だってすごくカッコいい。

周囲を魅了したレスリー・チャンのカリスマ性

1990年代初頭は、日本でも香港スターの人気は高かった。それは何より、香港映画が面白かったからだ。ウォン・カーワイ(王家衛)監督の一連の作品、中でも「恋する惑星」(94年)からはフェイ・ウォン(王菲)が、今日も俳優として活躍する金城武とともにブレイクし、プレイステーション用ゲームソフト「ファイナルファンタジーVIII」の主題歌「Eyes On Me」は日本で50万枚を売った。日本武道館でライブをし、日本のドラマにも主演した。

カンヌ映画祭でグランプリを取った映画「さらばわが愛、覇王別姫」に主演したレスリー・チャン(張國榮)は、日本で最もファンが多かった香港のスターといえる。2014年に亡くなったが、過去に5回、大きなホールでコンサートをしている。

レスリーとの思い出も忘れられない。おそらく日本のメディアとしては最後にインタビューしたのが私ではないかと思う。

そのインタビューは香港で私が泊まっている尖沙咀のホリデイ・インで行われた。ホテルのスタッフには事前に言った。「レスリーのインタビューをします」と。いらしたことのある方はお分かりになるだろう。ホリデイ・インの車寄せはいつも車がぎっしり停まっている。が、インタビュー当日は車がない。レスリーの黒い車が静かにそこに入ってきた。いつもは人でごった返してしているロビーも心なしか人が少ない。よく見ると、セキュリティが立ってくれている。そして、レスリーは、車を降りて、私の所までまっすぐに歩いて、握手の手を差し出した。呼んでくれてありがとう。満面の笑顔、そして一緒に歩きだしたレスリーは、凜(りん)としていて、美しく光輝いていた。映画を見ているようだった。スターとはそういうものなのだと感じた。

インタビューでは、とても気分がいいから一緒に食事をしよう、とレスリーから言われた。ホテルのプレジデンシャルスイートルームで中華料理をオーダーした。大きな丸いテーブルを囲むわれわれ。レスリーは一人一人に気を配る。冗談を言って常に和ませる。最後に彼は「そろそろ出る。最後にたばこを1本吸う。吸う人は一緒に吸おう」と話した。たばこを吸いながら笑顔で皆を見回すレスリーの顔はやっぱりスターで、私たちは忘れられない時間をもらった。

ファンと自然体で触れ合うアンディ・ラウ

もう一つ書こう。アンディ・ラウ(劉徳華)という、ジャッキーが歌ならアンディは俳優として頂点を極めている四大天王の一人だ。彼へのインタビューのため、ミュージック・ビデオの撮影をしているスタジオに行くことになり、香港の山奥のような所に向かった。その夜はちょっと冷えていた。半分シャッターを閉めた倉庫のようなスタジオの外に2人の女性ファンが寒そうに立っている。アンディが近づき、自然な形でファンと話し始めた。そして、ファンが恐る恐る差し出した温かい飲み物が入っているポットを受け取ったアンディは、飲み始めたのだ。

香港スターというのはファンのために生きるということを知った。

四大天王の代表曲には必ず日本のカバー曲あり

レスリーもフェイ・ウォンもアンディも、そしてジャッキーも、彼らの代表曲には日本のカバーがある。1980~90年代初期は、日本の文化が香港で最も愛されていた時だ。レスリーは山口百恵の「さよならの向う側」、吉川晃司の「Monica」、フェイ・ウォンは中島みゆきの「ルージュ」、アンディはチューリップの「青春の影」。そしてジャッキーは玉置浩二の「行かないで」など数多くあるが、何といってもサザン・オールスターズの「真夏の果実」だ。この曲は香港で半年にわたってチャートインし、ホテルのラウンジでもよくピアノで弾かれていたため、私が「これ日本の曲よ」と言うと、ホテルのスタッフに「いや、香港の曲です」と言われ苦笑したこともあった。

先日の日本で行われたジャッキーの、これぞ香港エンターテインメントというショーを見ると、やはりそれは香港人にしかできないものではないかと思う。そして、こういったショーは、香港スターたちの生きざまに裏打ちされたものであり、完璧に作られるショーは、言葉を超え、海を越え、必ず、多くの人に愛されるものなのだ。

日本でのライブが終わった後、多くの人が言っていた。圧倒された、と。

ジャッキー・チュン(ユニバーサルミュージック提供)
ジャッキー・チュン(ユニバーサルミュージック提供)

バナー写真=ジャッキー・チュン(ユニバーサルミュージック提供)

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