日産自動車・志賀 俊之 最高執行責任者(COO) 「日本を支える自動車産業を守る危機管理とは」
大胆な成長戦略には細心のリスクマネージメントが必要
[2011.12.15] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية |

東日本大震災で多くの日本企業が大きな打撃を受けた。日産自動車株式会社は迅速な復旧で海外でも高く評価された。志賀俊之COOに、企業の生命線であるリスク管理のあり方と苦境を乗り切る成長戦略について聞いた。

志賀 俊之

志賀 俊之SHIGA Toshiyuki日産自動車株式会社代表取締役、最高執行責任者(COO)。1953年、和歌山県生まれ。76年、大阪府立大学経済学部卒業後、日産自動車に入社。アジア大洋州事業本部ジャカルタ事務所長、企画室長兼アライアンス推進室長等を経て、2000年、常務執行役員。05年より現職。10年から日本自動車工業会会長を兼任。

東日本大震災への初動対応を世界が絶賛

——東日本大震災では、自動車業界だけでなく、日本の産業界全体が大きな被害を受けました。その中で、日産自動車の震災対応の早さは、海外の新聞でも大きく取り上げられました。1000年に一度といわれる大災害の中で、リーダーとして何を最優先に行動されたのですか。

「震災発生までにさまざまな経験をしたことによって、ノウハウが蓄積されていた点が大きいと思います。COOに就任して3年目の2007年に中越沖地震が発生して、新潟県柏崎市のサプライヤーが大きなダメージを受け、当社の車両生産が止まるという事態になりました。それ以前から建物の強化など地震対策について、やるべきことはやってきたと考えていましたが、サプライヤーからの部品供給が止まったときの備えは十分ではありませんでした。災害が発生した際に、サプライヤーを支援し、そして自社の現場がしっかりと動けるようにするには、本部が的確な指示を出すことが大前提だということが分かり、2007年10月に災害対策本部のシミュレーション訓練をスタートさせたのです。

その後も私自身が災害対策本部長として、毎回、課題を少しずつ変えながら、シミュレーション訓練を行ってきました。実は、当社が横浜に本社を移転して初となるシミュレーション訓練は今年の2月21日。3月11日の約3週間前にやっていました。

この訓練では、本社ビルの8階にシミュレーション用の災害対策本部を設置して机や電話機を並べ、初動の段階として従業員の安否確認、自社工場、関係会社、サプライヤーの被災状況の確認を行いました。さらに、被害状況が分かってきたところで、生産再開の時期や、生産再開に向けてのサプライヤーや物流対応をどうするか、などについて検討しました。訓練の際は、これらを2時間程度に凝縮して行いました。

3月11日、午後2時46分に震災が発生した際、私は本社ビル21階におりました。すぐに災害対策本部の設置を指示して、約30分後に8階まで階段で下りたのですが、既に3週間前の訓練通りに机や電話機が並べられ、緊急用の機材等の準備が完了していました。その状況を見て、災害に備える、ということの重要性を実感したのを今でも鮮明に記憶しています。

また、2月のシミュレーション訓練では、一般の帰宅困難者の受け入れもテーマとして想定されていたのですが、これも役立ちました。地震発生当日には、従業員だけでなく帰宅困難者の方の分も食料が必要になるだろうと考え、社内にあるコメを全部炊いて、おにぎりを1800個作りました。さらに、毛布も2000枚以上ありましたので、多くの方に使ってもらいました」

——準備があるからこそ、的確な判断が下せたということですか。

「はい。災害に対してしっかりと備えをすること、訓練を行うこと、そして災害がいざ起こったら初動を出来るだけ早く起こすことが非常に重要だと感じています。本社ビルだけでなく、被災した栃木、いわきの両工場でも日頃の訓練の成果があらわれました。被災地の事業所は、天井からラインのコンベアなどが落下、鋳造工場のキューポラが倒れた所もありました。それでも1人のけが人も出なかったのは、まさに日頃の訓練のたまものと言えるでしょう。

後日関係者から話を聞いてみると、避難訓練を繰り返してきたから体で覚えていた、ということに尽きるようです。例えばドロドロに溶けたアルミの鋳物が流れ出そうになっていた鋳造の現場で、そのまま自分が避難すれば、溶けたアルミが地面に落ちて火事になるかもしれない。そこで従業員はフタをしてこぼれ出ないようにしてから逃げたそうです。あれだけ揺れている最中にそこまで気が付いて行動できたということに、私は感動を覚えました。」

危機で力を発揮した「日産再生」の経験

――2011年7月にムーディーズの格付けが上がったのも、こうしたリスク管理が評価されてのことだと聞いています。日産の災害に対する対応力が非常に高い理由について、あらためて聞かせてください。

「初動の対応は、今申し上げた通り、継続的な訓練によるものが大きかったと考えます。その後の復旧に向けての過程では、1999年にカルロス・ゴーンがCOO(当時)に就任して始めた『日産リバイバルプラン』から取り入れた経営手法による効果が大きかったと思います。

一般的には、工場が被災すれば生産部門が対応、サプライヤーが被災したなら購買部門と、縦割りで対応に当たることが往々にしてありますが、日産自動車では『クロスファンクショナルチーム』という、さまざまな部門から横断的に人を集めて仕事を進めるという取り組みがあります。それぞれの部門には、それぞれ伝統的な考え方があり、それが縦割りの弊害につながることもあるのですが、各部門がクロスファンクショナルに活動することによって、新しい発想が生まれてきます。

日産では従業員一人ひとりの行動指針として『日産ウェイ』を定めていますが、第一に取り上げているのが、このクロスファンクショナル、異なった意見、考えを受け入れる多様性です。

例えば、震災の後、サプライヤーが被災して設備が倒壊、部品が作れなくなったという連絡が入ったときのことです。購買部門だけでなく、生産部門、保全部門の人たちが連携し、すぐに復旧支援に駆け付けました。別の会社から代替部品を調達することになれば、すぐに開発部門が実験に取り掛かる。IC関連の部品に遅れが出てナビゲーションシステムが付かない場合は、営業部門が速やかにお客様への説明を始める。『部品がない』『ならば購買が買って来い』というのではなくて、みんなが力を合わせる環境ができていたということです。

特に、通常は夜勤業務のない開発部門が、昼夜交代制で新しい代替部品の品質確認の実験をやってくれたことはうれしい驚きでした。われわれの経験から見ても、開発の夜勤は初めてだったのではないでしょうか。彼らの努力で、代替部品がすぐに使えることが分かり、最短で量産体制に入ることができました。

1999年以降、日産が再生していく過程で、クロスファンクショナルという文化を育ててきたことが、非常時に活きたということです。

もう一つ『クロスリージョナル』の効果も挙げておきたいと思います。震災で、日本の部品生産が遅れ、海外の工場での生産が滞るという事態が発生しました。しかし、私どもの場合、海外での減産の影響は本当に少なくて済みました。震災後すぐに、当社の物流拠点である神奈川県の本牧専用埠頭にアメリカ、ヨーロッパ、中国、タイ、インドネシアなど、世界中の工場から担当者が集まってきました。その人数は最大で100人にのぼります。さまざまな国籍の人が、自国の生産状況と日本での部品生産の復旧状況を見ながら、どうすれば一番効果的に部品を分配できるのかと調整しました。少ない部品を取り合うのではなく、地域を超えたチームワークで、世界的な視野で生産量を落とさない工夫をしてくれたのです。ダイバーシティ(多様性)も『日産ウェイ』の柱ですが、これも自然にできていたことに心打たれました」

  • [2011.12.15]
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