逆境をバネに——中国で頑張る日本人

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日中関係の緊張が続く中、中国に根を張って第一線で活躍を続ける日本人たちがいる。彼らがいかに逆境に耐え、困難を乗り越えていったか、北京在住ライターの小林さゆりが直撃した。

矢野 浩二 YANO Kōji

1970年東大阪市生まれ。2000年に中国のドラマに初出演。以来、歴史ドラマ『記憶的証明』(記憶の証明)、『狙撃手』(スナイパー)、『翡翠鳳凰』、スパイアクション映画『東風雨』、バラエティー番組「天天向上」など数々の作品で、強い存在感を放っている。2012年9月には、日本の内閣府国家戦略担当相から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の1人として感謝状を贈られる。2015年8月外務大臣表彰。著書に『大陸俳優 中国に愛された男』(ヨシモトブックス)。 公式ブログ: http://www.yano-koji.jp(日本語)、 http://blog.sina.com.cn/shiyehaoer(中国語)

迫 慶一郎 SAKO Keiichirō

1970年福岡県生まれ。1996年東京工業大学で修士号を取得後、山本理顕設計工場に入社。2004年に独立し、北京にSAKO建築設計工社を設立。同時期に米コロンビア大学の客員研究員を務める。北京と東京を拠点に、中国、日本、韓国、モンゴル、スペインでこれまでに80を超えるプロジェクトを手掛ける。現在、北京の日本人起業家ネットワーク「北京和僑会」会長。最新著書に『希望はつくる あきらめない、魂の仕事』(WAVE出版)など。
SAKO建築設計工社: http://www.sako.co.jp

中国人の日本人像を変えた役者 矢野 浩二

待ち合わせた北京市内のホテルに、黒い革ジャケットにハンチングというスタイルで颯爽(さっそう)と現れた矢野さん。その姿を見るなり、ホテルの若い女性従業員たちが色めき立ち、スマートフォンで写真を撮り始めた。

「こういう時期でも日本人の僕に親しみを持ってくれるのはありがたいし、励みになる」と矢野さんは大きく手を振り、笑顔で応えた。

大阪の高校を卒業後、フリーターを経て俳優を目指し上京。森田健作氏(現千葉県知事)の付き人をしながら役者としての下積みを9年続けた。2000年に単身中国へ渡り、現代中国のラブストーリーを描いたテレビドラマに日本人青年役で初出演。以来中国の映画やドラマで、シリアスな日本の軍人役からコミカルな中国人役まで幅広く演じ分ける。

中国のバラエティー番組「天天向上」にレギュラー出演した矢野浩二さん(右端)

視聴率トップクラスのバラエティー番組「天天向上」(湖南衛星テレビ)ではレギュラー司会陣の1人として出演。大阪人らしいボケを流暢な中国語で披露して笑いをとり、ファン層を拡大した。中国版ツイッター「微博」(ウェイボー)のフォロワーは120万人余りを数える(2013年3月末時点)。

日中関係の悪化で仕事が激減

日本人俳優として中国で活動して12年余り。その道のりは「山あり谷ありで、決して平坦ではなかった」と振り返るが、中でも2012年秋以来の日中関係の悪化は矢野さんにとってこれまでにない打撃となった。

「昨年秋、すでに出演契約をしていた連続ドラマから起用を見送るとの連絡が入りました。パネリストとして出席予定だった鹿児島市での日中友好都市のシンポジウムも、中国側の出席見合わせで無期限延期になりました」

仕事が激減し、先行きの見えない不安から息苦しさを覚えたり、不眠になったりしたという。出張先の日本で、極度のストレスから呼吸困難に陥り、生まれて初めて救急車で運ばれたこともあった。

「中国人ファンの声援が原動力」

そんな時に矢野さんを強く励まし、支えてくれたのが、「早くテレビで浩二が見たい」というファンや友人たちの温かい応援の言葉だった。

「今も『微博』やメールを通じて、励ましのメッセージをたくさんいただいています。政治的にこじれていても、中国のファンは日本人の僕を受け入れてくれている。中国で生かされていると実感できる。それこそが僕の原動力であり、後ろ盾なんだとありがたく思っています」

深刻な話で緊張気味だった表情に、ようやくいつもの笑みがこぼれた。

軍人役も人間らしく演じる

中国の歴史アクションドラマ「盛宴」で中国人スパイ役を演じた

今回のつらい経験は、役者として走り続けてきた矢野さんにとって、初めてふと立ち止まり、自分を見つめ直す機会にもなったようだ。

中国では、愛国教育のために毎年数百本に上る抗日戦争ドラマが制作される。近年まで日本の軍人役といえば、中国人が演じる冷酷非道なステレオタイプの悪役がほとんどだったが、矢野さんはそこに悲しみやつらさ、葛藤といった人間らしい感情を込めて演じ上げ、注目された。

「実際は、日本の軍人を演じ続けることに抵抗があった。軍人役はもう断りたいという、表現者としてのこだわりもあった。しかし、今回じっくり考える時間ができ、作品の中で人間がきちんと描かれた軍人であれば、多くの中国人が持つ“日本の軍人は悪人”というイメージを覆せるような役であれば、僕がやる意味もあるのかなと思い直しました」

 

最近はこの春にクランクインする中国の歴史ドラマに出演が決まり、ロケを前に台本を読み込む毎日だ。

「仕事が政治情勢に左右される不安もあるが、撮影現場で演じてこその役者稼業。お隣同士の日本と中国は、どんな状況であれ民間交流、文化交流を継続すべきだと信じています。まだまだ発展する可能性が大きな中国の芸能界で認められる俳優になりたい。そのために頑張ります」

プライベートでは、知人の紹介で知り合った中国人女性と2010年に結婚。2歳になった娘が「かわいくてならない」という良きパパでもある。中国人女性のように強く生きてほしいと娘に中国籍を取得させ、中国で育てることも公言している。

どんな逆風が吹こうとも、中国の大地にしっかりと根を張る覚悟が、矢野さんにはあるようだ。

中国各地のランドマークを創造する建築家 迫 慶一郎

北京市東部に広がるビジネスセンター、北京CBD(Beijing Central Business District)。その中心部に、オフィスや店舗の入ったガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ大型複合施設がある。迫慶一郎さんが事務所を構える「建外SOHO」だ。

「ここが僕と中国をつなぐキッカケとなった場所です」と語る迫さん。「日本の建築事務所に勤めていた2000年秋、『建外SOHO』の指名コンペに勝ったのが始まりでした。中国の建物によくある囲いを取り払い、開放的でありながらも安全でくつろげる場所を生み出した。それが高く評価されたようです」

迫さんが手掛けた北京ピクセル。70万平方メートルの大型住宅は六本木ヒルズと同規模。

一帯には、オランダの建築家レム・コールハース氏が設計した巨大ゲートのような中国中央テレビ(CCTV)新社屋や、高さ330メートルの超高層ビルなどが建ち並ぶ。まさに「建築の実験場」といわれる中国を象徴するエリアで、現代的な都市景観の一翼を担っているのだ。

北京五輪のメーン会場となった国家体育場(通称・鳥の巣)やCCTV新社屋のような代表的建築のデザインを外国人に任せるなど、中国にはかなりオープンなところがある、と迫さんは指摘する。

「大胆な設計に対しても肯定的に受け入れてくれるので、挑戦のしがいがある。日本のような成熟した市場では少なくなった、発展段階の勢いや柔軟さがあるんです。何倍もの労力はかかりますが、ここには僕自身を表現する仕事があります」

「決める勇気」で突き進む

迫さんは2004年に独立し、北京に「SAKO建築設計工社」を設立。これまでにキューブ型とチューブ型の2つの建物をバランスよくデザインした浙江省金華市のオフィス・レストラン「金華キューブチューブ」や、積み木がずれて重なるようなユニークな外観の複合住宅「北京バンプス」など、中国全土で70を超える大規模建築と内装を設計してきた。その斬新で個性的なデザインは「一度見たら忘れられない」と中国の人々を引きつけている。

金華キューブチューブ(左)と北京バンプス(右)

設計では、民間のディベロッパーから「地域のランドマークをつくってほしい」と依頼されることが多いという。熾烈な市場競争を勝ち抜くために、際立ったデザインを日本人建築家に求め、それを買い手への訴求力にしたいという思惑がある。

「もちろん奇抜な形なら何でもいいわけではなく、その地域や環境にふさわしい建築を目指しています。建築家として大事なのは、地域への強い責任感と(設計案を決めるときに)『よし、これで行くぞ!』と突き進む勇気ですね」と迫さんは力を込める。

日中関係「きっと今より良くなる」

反日デモが激しさを増した2012年9月、天津市内に完成した幼稚園と小学校の竣工写真を撮影する際に、地元の管理人から「日本人を敷地に入れていいのか?」という声が上がった。北京に住んで10年余り、感じたことのない反応だった。中国人が乗るエレベーターの中で、周りを気にして日本語で携帯電話を受けるのを躊躇したこともあった。

「今までにないストレスを感じました。仕事の効率が落ちたり、余計に手間がかかったりはした。でも、プロジェクト自体はそれぞれきちんと完成している。中国に進出する日本企業のうち、僕が携わるソフト産業、とくにクリエイティブ度が高い産業は、最も影響が少なかったようです」

2003年の新型肺炎SARS騒動や、2005年と2010年の反日デモを北京で間近に見てきた迫さんにとってでさえ、今回の日中関係の深刻化は「知る限り最悪のレベル」という状況だった。しかし長く中国にいるからこそのポジティブな視点もある。

「これまで同様に“揺り戻し”があって、今よりは必ず良くなるんじゃないか、という実感がある。だって人間、ずっと怒り続けるのは大変な労力だし、できないことでしょう。日本と中国は手を取り合うべき。その方法は見つけられると信じています」

現在とどう関わるか、未来に何を残すか

現在、日中両国のスタッフ約30人が働く北京の事務所で手がけるプロジェクトは、大小合わせて10件以上。企画段階のものまで含めると約20件に上るという。四川大地震の被災地に耐震性の高い幼稚園を寄贈するプロジェクトや、宮城県名取市に海抜20メートルの人工島を建設し津波に強い街をつくる「東北スカイビレッジ構想」など、復興支援のプロジェクトも着実に進めている。

「徹夜はザラだし、現地に何度も足を運び、どれだけプランを説明したかわからない(笑)。まだまだ努力は必要ですが、大震災に遭った日本と中国の現状にどう関わるかが建築家として問われている。復興のシンボルになるもの、後世に誇れるものを残したい」

そんな熱い思いが、一貫して迫さんを突き動かしているようだ。日本が、中国が、世界に誇るSAKO建築――。それは迫さんの揺るぎない信念と情熱から生み出されているのだろう。

文・撮影=小林 さゆり

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