故郷は台湾——「湾生」・岡部茂さんを訪ねて

政治・外交 文化

戦前の日本の統治下であった台湾で生まれ育ち、戦後本土へ引き揚げた人を特に「湾生(わんせい)」という。28歳まで台湾台北で過ごした岡部茂さん(97歳)が、70周年を迎えた「台北大空襲」など第二次大戦前後の台湾とその後の人生について語った。

岡部 茂 OKABE Shigeru

1918年、日本統治下の台湾台北市大正町に生まれる。1931年、台北建成小学校卒業後、台北州立第一中学校(現在の台北市立建国高級中学)へ入学。1936年、同校卒業後、家業の印刷所に入社。1945年、台湾の地元青年たちと共に召集されるが、間もなく終戦となる。その後、全財産を中国からやってきた中華民国政府に接収され、印刷技術指導のために抑留徴用(留用)される。翌年1946年12月、留用解除。台湾基隆港より引き揚げ。年明けの1947年1月、佐世保港に上陸後、本籍地であった群馬県前橋市に落ち着く。同年、前橋市内の印刷会社へ入社。1997年3月、勤続50年を期に退社。長男が経営する印刷会社に入社、2014年退社。

忘れられていく「台北大空襲」

第二次大戦末期の1945年5月31日。日本の統治下だった台湾台北でも連合国による大空襲があった。台北大空襲である。しかし、時の流れとともに、当時の様子を知る人は台湾人でさえも少なくなってきている。群馬県前橋市に一人、その時のことを今も鮮明に記憶している古老がいる。戦前に台湾で生まれ育った引揚者、「湾生」(わんせい)、岡部茂さん(97歳)だ。

今も第一の故郷は台湾と言ってはばからない岡部茂さん。その人生は、今日の日本では到底想像できないほど波乱に富み、戦前と戦後を、日本と台湾の関係を深く考えさせるものだ。

台北大空襲と終戦から70年となる今年。岡部さんに約1世紀の話を聞いた。

第一の故郷は台湾

——当時の台北での生活の様子を教えてください。

岡部茂さん(以下 岡部) 私は、大正7年(1918年)、台北市大正町で生まれ、台北一中を卒業するまで大正町4条(現在の長安東路付近)で過ごし、卒業から引き揚げまでは御成町4丁目(現在の中山北路2段、南京西路付近)で過ごしました。

父が当初、建設関係の仕事をしていたことから、新たに区画整理された住宅地の大正町で、今でいうモデルハウスのような家に住んでいました。上下水道完備、床は基本的に畳ではなくコルク、台風などの水害に備えて少し床高に設計、水洗トイレに収納付きと、大変ぜいたくな造りでした。

その後、御成町に移りましたが、住宅兼職場の岡部印刷は、もともと台北帝大医学専門学校の学寮を利用したもので、相撲の土俵やテニスコートがありました。近所には、台拓(台湾拓殖株式会社)の社長の家や辜振甫(台湾初の貴族院勅選議員・辜顕栄の長男。対中交渉窓口機関・海峡交流基金会の初代理事長)の家、米国領事館などがありました。

当時の岡部印刷(岡部茂さん提供)

1930~1945年頃、建成小学校に通学していた生徒の住居地図(15回生 徳丸薩郎さん 作図)

台北一中への通学では、自宅と少し距離がありましたので自転車を利用しました。今では考えられないことですが、男女が同じ道を歩くことが許されませんでした。一中までの途中にあった二高女(台北州立台北第二高等女学校)前の道路は、男子は決して使うことは無く、わざわざ迂回や反対側の道路を使って往来していました。小学校でも男子用、女子用の校門があり、男女別のクラスが普通の時代でした。

昨年、嘉義農林が甲子園で準優勝したことが映画化され、台湾や日本で話題になりましたが、実は、私はその台北予選の決勝を実際に円山球場(現在の花博公園争艶館)で観戦していました。当時の台湾中の熱狂ぶりは、今でもよく覚えています。甲子園出場後も、床屋さんがラジオから流れる点数や試合結果を、わざわざスコア表にして街中に知らせていました。

台湾への印刷技術指導のため終戦後も残留

——終戦後、全財産を中華民国政府に接収された上、留用されていますが、それはどうしてですか? また、その後どのようにして日本で生活を始めたのですか?

岡部 ほとんどの日本人は、戦後ただちに引き揚げさせられたのですが、私たちは印刷技術があったので、その技術を台湾人によく伝えてから帰って欲しいとのことで、しばらく残って技術指導をしていました。接収された自分たちの会社に雇われ、給料が支払われました。

引き揚げ時、社員らと記念撮影(岡部茂さん提供)

1946年12月に、ようやく引き揚げの命令が出て、基隆港から台北丸に乗船しました。引き揚げの初期、持てる荷物は1人1つと決められていたのですが、私たちが引き揚げる頃には、1人4つまで許されるようになっていました。もともとこの船は貨物船として使用されていたので、船室なんてものは無く、皆一緒のところにいました。基隆を出港して間もなく船が大揺れして、誰も何も食べられない状況が続きました。そして3日後の翌年元日、佐世保港に到着したのです。

佐世保港から汽車に乗って東京品川を目指すのですが、家族6人で荷物が24個あり、3日くらいかけて品川に到着しました。そしてそこから、それまで戸籍簿でしか知ることのなかった前橋にやって来たのです。

前橋も市内が焼けていたのですが、1軒だけ印刷屋さんが残っていました。上毎印刷工業です。ここに、働き口と台湾から引き揚げてきたばかりで全くあてが無いことを伝えると、幸運にも、「すぐにうちに来なさい」と言っていただき、就職することができました。また、戦後の資材不足の中で、会社はわざわざ家を1軒建ててくれました。私は引揚者の中でも本当に運が良かったと思います。

前橋で唯一の印刷所となった上毎印刷工業は、周辺からの仕事がどんどん増え、入社時に20名くらいだった従業員が、退職する頃には倍以上の規模になっていました。私は、朝は始業の1時間前に出社し、最後の戸締まりをして帰ることを50年間続け、80歳まで勤めました。その間、社長も3人代わりました。引き上げ後に働かせていただいただけでなく、長く勤めさせていただきました。本当にありがたかく、感謝しています。

印刷業と共に歩んだ人生

——台北時代からの家業であった印刷技術が、戦後も、そして引き揚げ先の前橋でも活かされたのですね?

岡部 私が小学校6年生の頃に父が本格的に印刷業を営み始め、当時では珍しかったオフセット印刷をやりました。どうやらその技術が留用時も、前橋に移ってからも活かされたようです。

孫の千枝さんと

台北では挿絵の多い専門書や公学校(台湾人向けの学校)の教科書、はがきや切手、さらに戦争末期には、本土からの銀行券が届かないため現地で発行した台湾銀行券、つまりお札の印刷もやりました。戦後の留用中では、台湾人家庭内に掲げる孫文や蒋介石の肖像画をよく印刷しました。 

上毎印刷工業では、本業の印刷業務の他に、印刷技術に関する検定や講習会で、役所などから依頼され、講師もよく務めました。退職後は、たまたま息子も印刷業を営んでいたことから、その会社に再就職して印刷業を続けました。私の一生は印刷業と共にあったと思っています。

台湾人青年兵士と共に迎えた終戦 

——ご自身の戦争体験を教えてください。

岡部 私は、戦争が激化する頃にはすでに20代半ば、後半だったため、終戦間際の2月に召集されただけで、ほとんど戦地に赴くことはありませんでした。

部隊は、同じように召集された20歳前後の台湾人青年がほとんどで、日本人は私を含め数名、合わせて20名くらいの小さな部隊でした。鉄砲が2丁しか無く、集められた当初は、正直なところ何のために集められたのか理解できませんでした。そうしている間に、他の部隊と一緒に六張犁(台北の南東部)に、山の方に疎開したのです。その際、鉄砲ではなく、のこぎりやスコップなどを担いで移動したのですが、その様はいわゆる軍隊のそれとはだいぶ違うものでした。

典型的な日本軍しか見たことが無く、戦後に中国からやって来た軍隊は、鍋釜や番傘背負ってみすぼらしかったと言う方がよくいます。しかし、私たちのような終戦間際の日本軍も同じような状況でした。当時の彼らの写真を見ると、自分たちもあのような姿だったとしみじみ感じて、とても馬鹿にはできませんでした。

他に台湾人の部隊で覚えているのは高砂族(台湾原住民の旧称)の部隊です。山での生活に慣れていたからでしょうか。熱帯の南方戦線では、本当に勇敢に戦ったと言われていました。

70周年目の「台北大空襲」

——今年の5月31日は、台北大空襲の70周年にもあたりますが当時の様子を教えてください。

岡部 それまでも小規模の空襲はあったのですが、この日の空襲はまさに「大空襲」というべきものでした。

この頃、戦時統制の影響もあって、私たちを含む台北の4つの印刷会社が一つの会社に合併されました。私たちは第2工場と呼ばれていたのですが、この日は早朝から打合せがあり、9時に総督府(現在の総統府)付近の本社に集まっていました。しばらくして、空襲警報の前に鳴る警戒警報が発令されたので、ただちに解散、帰宅したのですが、その会社に大きな爆弾が落ちてしまったのです。インクなどに引火して火事が起きてしまい、その会社の方、数名が亡くなってしまいました。

爆撃機はフィリピンからやって来たと後に聞きました。大きな爆弾を積んでいたからか、飛行機の数は多かったのですが、一機あたりが投下した爆弾は数個でした。標的となったのは、総督府、軍司令部、連隊などで、一部、学校でも軍人がいるようなところは爆撃を受けました。例えば一中や二高女です。

バツ印が台北大空襲で爆撃を受けたところ(岡部茂さん提供)

当時、日本人の若い男性は召集されてほとんど市内にいなかった中、私は若い台湾人主体の消防団に入って、爆撃を受けた建物の消火活動にあたりました。家内の家族や親族は、残念なことに、その時に亡くなってしまいました。

当時の台湾を代表する建築物の一つ、台北駅前にあった台湾鉄道ホテルも跡形も無くなっていました。この時、本当に破壊力のある爆弾が落とされているのだと実感しました。また、総督府や総督府のシンボルの塔は崩れなかったのですが、火事で2日間ほど燃え続けていました。水道管が破裂し、水圧がかなり弱くなって十分な消火活動が行えなかったのです。

一方、台湾人が多く居住していた大稲埕(現在の台北市大同区南西一帯)、万華などではほとんど被害が無かったようでした。

故郷・台湾で同窓会を開催。目標は101歳で台北101ビルへ登ること

——いつから再び台湾に行かれるようになったのですか? また、今でも訪台していますか?

岡部 再び台湾を訪れたのは1978年、引き揚げから32年後のことでした。きっかけは会社の旅行です。それまでは、台湾へ行くことはなかなか大変で、行く機会や余裕も無かったのです。その後、2~3年ごとに小学校の同窓会も兼ねて訪台しています。

私たちが通った建成小学校では1クラス50人ほど、うち10%が台湾人でした。台湾人同窓生が来日し、日本人同窓生が訪台するのを互いに繰り返しています。有名な同窓生には、俳優の故岡田眞澄さんや逆さ歌の達人・中田芳子さん、台湾の政治家の彭明敏さんらがいます。

引き揚げた時期が皆ばらばらで、その後の日本人の生活環境の激変はもちろん、台湾人も日本人主体の学校に通っていたことで戦後の中華民国下で厳しい境遇に置かれ、お互い連絡手段も無ければ、この頃のことを振り返る余裕もありませんでした。しかし、それらを乗り越え、同窓会を設立し、今もこうして存続しています。訪台の度に、早朝から皆かつての自宅周辺、学校周辺を散歩しては、当時の面影を探しています。

陳水扁前総統、馬英九総統を表敬訪問(岡部茂さん提供)

岡部茂さんの3人の姉。左より光子さん(103歳)、明子さん(101歳)、照子さん(99歳)(岡部茂さん提供)

また建成小学校は、現在、当代芸術館と名前を変え、台北市の重要文化財兼現代芸術館になっており、機会があれば台北市長を表敬訪問しています。台北市長時代の陳水扁前総統や馬英九総統にもお会いしました。こうして今も大切に活用いただいて本当にうれしいです。

私が一番最近訪台したのは昨年のことで、次の訪台は98歳になる来年を予定しています。今は101歳で訪台して台北101ビルに登ることを人生の目標にしています。また、私の上に103歳を筆頭に姉が3人、皆元気にしています。私が100歳の時には、姉弟合わせて400歳。お互いまだまだ頑張りたいと思っています。

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