「いざ、日本の祭りへ」(2) 博多祇園山笠と博多ガイド

古代日本の玄関口・博多を歩く

文化 暮らし

九州最大の都市、福岡市・博多。古くから大陸との交流が盛んなこの街を、中国人翻訳者と歩いた。テーマは「博多に息づくアジア」。どんな発見・出会いがあるか、女子二人旅の始まり、始まり。

【見つけた!アジア(1)】中国大陸・朝鮮半島に、「近っ」

九州は初めてという中国語の翻訳者G。飛行機に搭乗するなり、機内誌のルートマップに見入って、「東京よりソウルの方が断然近いんだ」。確かに福岡を起点にすると、一番近い首都はソウル。東京はおよそ1000キロの同心円上に上海と共に乗っかっている。大陸からのアクセスが抜群に良い博多。飛行機も近代的な船もない時代、そのロケーションの力は絶大だったに違いない。東京から1時間45分で福岡空港へ。地下鉄で5分も揺られると、いよいよ街の中心街が目の前に現れた。

ランドマーク「福岡タワー」(234メートル)から望む博多・福岡の街と博多湾。


福岡・博多データ

博多は古代より大陸交流の要所・商人の町として発展。現在は、西隣りにあるかつての城下町・福岡と一緒になって福岡市(人口約150万人)を構成している。福岡空港と博多港からの外国人入国者数は年間70万人を超え、うち韓国からが6割、中国からが2割に上る。今回は、博多を主とした福岡市エリアを紹介。

【見つけた!アジア(2)】歓迎!外国からのご一行様 ここは古代日本の迎賓館

花鳥があしらわれた緑の物体。8~9世紀に唐で作られた陶器の枕だ。「まずは大陸交流のルーツを見てみよう」と訪れた福岡市の鴻臚館(こうろかん)跡展示館で、この出土品に出会った。現代人の目にも、十分にポップでかわいらしい。当時は高貴な人しか使えない「超」がつく貴重品だったのではないだろうか。でもなぜここに、こんなものが? 

この場所に遺構が残る鴻臚館は、古代(飛鳥~平安時代)の迎賓館。当時は、現在の京都、大阪、福岡の3カ所に置かれていた。市の担当者・吉武学さんは「鴻臚館が博多・福岡に設置された理由は、唐や新羅の外交使節や商人が日本にやってくる時、まずはこの地に上陸する決まりになっていたからです」と教えてくれた。まさに古代の “日本の玄関口”。VIPも宝物も、ここから日本に入ってきた。

遺構がそのままの状態で展示されている。

遺構を基にした想像図。海辺のリゾートのよう。

国際色豊かな出土品。イラン付近からの品はとりわけ色が鮮やか!

現在、海側は埋め立てられ、当時の海岸線はビルの下になっている。

吉武さんから勧められ訪ねてみたのが、展示館そばの福岡城むかし探訪館。入ると突然、足の置き場に困ってしまった。床面に古い地図がびっしりと描かれていたからだ。このあたりは、17世紀初め、黒田長政によって福岡城が築かれた場所。地図は江戸時代後期のもので、城がちょうど鴻臚館の上に建設されていたのがよくわかる。床の地図上、城の敷地部分だけは立体想像模型が置かれていて、江戸時代の街を実際に空から眺めているような贅沢(ぜいたく)感が味わえる。

立体想像模型の精巧さにびっくり。屈んで目を凝らすと、この通り(右)。

【見つけた!アジア(3)】中国帰りの僧が残した“最初の一歩”

中国大陸に渡航した日本人が、再び祖国の地を踏んだのもまた博多・福岡だった。彼らが持ち帰ったものの一つが仏教で、JR博多駅周辺には “日本最古”の古刹がいくつも残っている。このような寺院はその昔、広域にわたり並び建っていたとも言われている。街の喧騒から離れ、心穏やかに寺院めぐりが出来るのも博多・福岡の魅力だ。

最初に訪れたのは、東長寺。中国から真言密教を伝えた空海が806年、ここで密教東漸を祈ったとされる。空海が開いた寺としては日本最古。ここの福岡大仏は、日本一の大きさを誇る木造座像と聞き、さっそく拝見。境内に再び出たところで、そろいの衣装に身を包むお地蔵さんが目に入った。「博多祇園山笠に合わせ、毎年この時期だけこの柄を着せています。寺の仏さんも一緒に祭りに参加したらどうかと思いましてね」とご住職。

福岡大仏。

お地蔵さんのスタイリッシュな法被姿。

次に行ってみたのは、東長寺の敷地と通りを挟んで斜向かいにある聖福寺。こちらは日本最初の禅寺(創建1195年)だ。「源頼朝公から土地をもらい、栄西(ようさい)禅師が開きました。九州でも数少ない坐禅(ざぜん)の修行専門道場で、雲水(若い修行僧)さんが現在もここで学んでいます」と寺務所(じむしょ)で教わった。一般人の体験も受け付けているが、最低でも一年間通うことが条件で、現在は30~40人が参加しているとのこと。緑豊かな境内は、近くのオフィスワーカーも訪れる憩いの場になっているとか。

禅寺の七堂伽藍配置をとどめている境内は国指定の史跡。

ピカピカの床を見たG。「日本のお寺は清掃が行き届き、埃がありませんね」。

最後にお邪魔したのは、聖福寺からさらに徒歩で数分の承天寺。大陸から伝来した品々の碑があることで知られる。饂飩(うどん)、蕎麦(そば)、饅頭(まんじゅう)などだ。こんなにたくさん、博多のこのお寺に? 饂飩については各地に“伝来の地”があるが、同寺によれば、博多が他と違うのは、この寺に迎えられた聖一国師が製粉技術を大陸から持ち帰ったこと。粉が大量生産できるようになり、一般の人々にもこれらの食べものが広まったのだそうだ。

大陸から伝来した品々の碑。

「寺院のある街並みが古くから都市計画に生かされていれば、現在の京都にも勝る一大歴史エリアが残されていたのではないでしょうか」(承天寺の圓翔さん)。

【見つけた!アジア(4)】宋生まれ、博多育ちの「博多織」

大陸から日本にもたらされたもののいくつかは、現在も、伝来の地・博多で工芸品として親しまれている。「博多織」は、聖一国師と共に宋に渡った若い博多商人が、織物の技法を習得して帰国したのが始まり。徳川幕府に献上されたことから、代表的な柄は「献上柄」とも呼ばれている。

お寺が連なるエリアから徒歩で数分の、はかた伝統工芸館に博多の優れた工芸品が展示されていた。博多織ももちろん主要展示物の一つ。「博多織は締めやすい絹の質感が好まれ、帯として全国的に重宝されているんですよ」(スタッフの坂口侑里さん)。献上柄は、柄の意味も興味深い。複雑な模様部分は仏具がモチーフで、さらに太線は親、細線は子にたとえられているそうだ。「太線が外側の部分は『親が子を守る』、逆は『子が親を守る』という思いを込めて織られています」(同)。また、色も中国の陰陽五行説に倣い、紫は徳、青は仁、赤は礼、黄は信、紺は智の意味という。Gも興味津々だった。

博多織と並んで、全国的に知られる博多人形も展示されている。写真(左)は、開館時に特別に作られた大型の博多人形「福の神」。

代表的な「献上柄」。

博多鋏。

 

鋏の最初の伝来も博多

数ある展示物の中に、鋏(はさみ)を発見。一般的に使われている形の鋏も約700年前、謝国明(※1)が大陸から博多に持ち帰ったのがきっかけで日本で使われ始めたという。それまでは、指先で握って刃を合わせる糸切り鋏の形だった。博多で製造が続き、博多鋏と呼ばれるようになったこの鋏の作り手は一軒を残すのみだが、それでも人気は衰えず、予約しても1年半待ち!

博多織の機織り実演が見学できると聞いて、はかた伝統工芸館から歩いてすぐの「博多町家」ふるさと館にも行ってみた。実演場所は、明治中期に博多織の織元の住居兼工場として建てられた町家を移築復元した建物だ。この日の実演担当は、若手作家・瀧口涼子さん。サラリーマンを経て、職人の道を志した。「縦糸の本数が多いのが博多織の特徴です。横糸を打ち込んで縦糸で柄を織り出します、ほら」。鮮やかな手さばきに思わず見とれてしまった。勧められて私たちも機織りを体験。「こういう伝統工芸は、中国にもいっぱいあると思うけど、日本では大切に守っているのが素晴らしいね」とG。

間近で見る機織り機の構造美にうっとり。

実演する瀧口涼子さん。

体験にはまり、ひたすら機織り機を動かしたG。博多織は縦糸が多いため、意外と力作業だった。

撮影=草野 清一郎

(※1) ^ 日宋貿易で活躍した宋出身の商人。

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