特集 探訪 懐かしの風景
高倉健からジョニー・デップまで—看板絵師が伝えるスターの魅力
[2017.08.18] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS |

街の小さな映画館が身近な存在だった時代、手描きの映画看板は見る人をワクワクさせる日常の風景だった。映画館が次々に閉館する中で、60年にわたり銀幕のスターたちを描き続けてきた看板絵師がいる。

かつて映画が娯楽の中心だった時代、大都市はもちろん、地方の中小都市にも映画館があった。観客数がピークに達したのは1958(昭和33)年の11億2745万人、全国に7000を超える映画館があった。しかしテレビの普及により、60年代以降、観客数は減少の一途をたどる。93年には日本初のシネマ・コンプレックス(シネコン)が神奈川県海老名市にオープンし、小さな映画館の閉館に拍車がかかる。シネコンの増加によって、2016年には「スクリーン総数」は3472を数えたが、うち一般の映画館は427にすぎない。地方の街から “なじみ”の映画館が消え、同時に街の風景だった映画の手描き看板も姿を消した。

米軍三沢基地で始まった新人時代

シネコンが主流になる以前、街の映画館の多くに専属の看板絵師がいた。茨城県水戸市で広告看板業を営む大下武夫さん(75歳)もその1人だ。1942年青森県に生まれた大下さんは16歳で米軍基地のある三沢市で映画看板を描く仕事に就いた。基地内の映画館で上映される洋画の看板が多かったという。

「三沢基地の映画館では、一般公開される前の新作の洋画が上映された。兵士が家族連れで見に来る。新人の頃は、先輩たちが居酒屋に飲みに行っている間に(映画雑誌の)『スクリーン』のスターの写真を見ながら紙にデッサンを描いては、後で彼らに見せて直してもらったよ」

大下武夫さんの初期の仕事。三沢基地の映画館で上映した『アラスカ魂(North to Alaska)』の看板。日本公開は1961年(提供:大下武夫)

いかに似せて描くかが最初から大下さんのこだわりだった。もともと絵を描くことが好きで、中学1年生の時、大下さんが描いた握りこぶしの絵を見て感心した美術教師が、毎日画用紙を1枚くれて、絵の具がなくなるとすぐに補充してくれたそうだ。「暇さえあれば描いていましたね。でも、学芸会では校長先生の肖像画を水彩で描かされて(似ていなくて)恥をかいた」

中学を卒業して職人になったのは、「おやじが戦死し、家にお金もなかったから」。本当は野球選手になりたかったと言う。19歳の時、知人の紹介で「水戸東映」の専属絵師となった。「茨城県内に東映の直営館はこの1館だけ。専属絵師になれば一生飯が食えるといわれる時代だった」

夜中の2時、3時まで描く日々

東映では高倉健、鶴田浩二が出演するヤクザ映画の看板を毎日のように描いていた。「高倉健が人気の頃、立ち見を含めて650人程度しか入れない劇場に1700人も客が詰め掛けた。1回見ても帰らない人がいて、(観客同士で)えらくもめた。(自分も)高倉健が好きで、夢中で(看板を)描いたなあ。顔が特徴的でとても描きやすい。でも、あの人が醸し出す哀愁に並のスターはかなわない」

スターの顔とその雰囲気を描く腕前が抜きんでていたせいか、東映の仕事の合間に、別の劇場に頼まれてスターの顔だけ担当して描くこともあったそうだ。26歳で独立。80年代、水戸市内には映画館が11あり、大下さんはその全ての看板を手掛けたという。

『昭和残侠伝』の高倉健を描いたお気に入りの作品の前に立つ大下さん

手描きの映画看板は、基になる映画のポスターに碁盤の目のようなマス目を入れ、看板の方にも拡大したマス目を引いて、ひとマスごとに鉛筆で模写し、アクリル絵の具で色をつける。看板のサイズ(幅約2~5.4メートル程度)がまちまちなので、構図はポスター通りにはいかない。また、速乾性の絵の具なので、色をうまく重ね合わせるのは熟練の技を要する。「作品は1日半ぐらいで仕上げる。長く仕事をしていれば、(その看板に即した)構図があっという間に頭に浮かぶ」

「一番脂が乗っていた時期には、毎日のように夜中の2時、3時まで家内と仕事をしていた」と言う大下さん。30歳で結婚した後は、三つ年下の光枝さんと二人三脚で作業をしたそうだ。

「看板に下絵を描く紙を貼るのが私の仕事。赤ん坊をおぶっての作業でした」と光枝さんは振り返る。「当時、邦画は3日単位で上映作品が変わりました。ですから、(新作公開の)前日の晩に新しい看板を取り付けるんです。トラックに新作の看板を山のように積んで、夜中に私も一緒に劇場を回った。看板を描くだけではなく、取り付け、取り外しまで全部が仕事でした」

大下さんの工房にはこれまでに描いた看板の写真が飾ってある

毎日ひたすら看板を描き続けても、「自分で満足できるのは年に1,2枚しかなかった」と大下さん。「(ほとんど仕上げた看板に)自分で大きなバツ印をつけて、最初から描き直すことは日常茶飯事。それでも、締め切りに遅れたことはない」。後年、投光器(プロジェクター)を下書きに活用するようになってからは仕事が楽になったが、特大のポスターは投光機からはみ出すので使わなかったそうだ。

速乾性のアクリル絵の具で描く。顔を描くのは最初の15分が勝負だ(提供:大下武夫)

絵の具の色を素早く重ね合わせてイメージ通りの色を出せるかが腕の見せ所だった

7月に取材した際、水戸市内で大下さんの作品展が開催中だったが、工房には展示されなかったたくさんの作品が残っていた

お気に入りはオードリー・ヘップバーン

2000年代に入り、シネコンが主流になっていくと、水戸市内の既存の映画館は一つまた一つと閉館していった。06年には水戸東映、08年にミニシアターの水戸テアトル西友が閉館すると、映画看板の定期的な仕事は来なくなった。

次第にイベント関係のパネルなどが仕事の中心になったが、大下さんは20年ほど前から、時間のある時に往年のスターの肖像を描き始めた。100枚以上描きためた肖像画は、高倉健、石原裕次郎、渥美清からオードリー・ヘップバーン、アラン・ドロン、ブルース・ウイルス、ジョニー・デップまで新旧織り交ぜた華やかな顔ぶれだ。

『ローマの休日』(左)と『マイ・フェア・レディ』のオードリー・ヘップバーン

「一番力を入れたのは似せること、甘さ、柔らかい雰囲気を出すこと」。色を重ねる具合がうまくいって、イメージ通りの肌色が表現できた時が一番うれしいと言う。オードリー・ヘップバーンが好きで、ビデオを含め、『ローマの休日』を10回近く見ているそうだ。残念ながらオードリーの映画の看板は描く機会がなかったが、肖像画は何枚も描いた。米国男優のお気に入りはカーク・ダグラス。ダグラスがドク・ホリディを演じた西部劇『OK牧場の決闘』が好きで、こちらは昔、看板を描いたこともあるそうだ。

大下さんの描いたスターたちの一部は、横浜の “日本一小さな映画館”(座席数28) 「シネマノヴェチェント」の外壁を飾っている。

キャメロン・ディアス(左)とアラン・ドロン

『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニー・デップ

この記事につけられたタグ:
  • [2017.08.18]
関連記事
この特集の他の記事
  • 駄菓子は僕らを元気にしてくれた子どもの頃、放課後になると小銭を握りしめて通った駄菓子屋さん。店先にごちゃごちゃとたくさん並ぶお菓子やおもちゃに心躍らせた人も多いはず。今でも頑張る駄菓子屋さんを訪ね、郷愁とときめきを思い出す。

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告