村上春樹をめぐる世界の旅

村上春樹作品のドイツ語訳に関する一考察

文化

村上春樹を世界的な作家にしたのは翻訳家の貢献が大きい。ドイツでは村上作品の英語版からの重訳に疑問の声も上がっている。ドイツにおける村上作品の翻訳事情に迫る。

14年1月にドイツで刊行された村上春樹氏の最新作。

日本を代表する“グローバル作家”と評されている村上春樹氏が65歳の誕生日を迎える2日前の2014年1月10日、最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のドイツ語版(Die Pilgerjahre des farblosen Herrn Tazaki)が発売された。13年10月に発売日が公表されて以来、ファンもマスコミもこの日を待ちわびていた。そして当日、全ては予想通りに進行していった。多くの書店では最も目立つ入り口付近に新刊が平積みにされ、電子書籍版も同日に発売。新聞の書評やラジオでの報道なども、318ページに及ぶ村上作品をむさぼり読もうとする読者の興奮をあおり、大きな盛り上がりを見せた。

英語版に先駆けてドイツ語版が出版

村上氏の新刊の発売は、今や一大イベントになりつつある。もちろん、書店前に長蛇の列ができるJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズなどに比べると騒ぎは控えめだ。それでも、最近は発売に合わせて手の込んだプロモーションが行われており、村上作品の人気ぶりがうかがえる。あるいは逆に捉えるべきなのかもしれない。3部作『1Q84』の時は、第1部・2部の刊行に先駆けて、ドイツの読者のために特設サイトが設けられたのだが、そんな頭の良い販売戦略が、特に若い読者たちの村上熱を強力に押し上げたのだ、と。

注目すべきは、『1Q84』と『色彩を持たない~』のドイツ語版が、英語版に先駆けて出版されたことである。『色彩を持たない~』の英語版(Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage)の発売予定は14年の8月だが、多くの言語がこれに先行している。韓国語版は13年夏に、スペイン語版、ルーマニア語版、ハンガリー語版、ポーランド語版、セルビア語版、中国語版は13年秋に刊行済みだし、オランダ語版は14年1月に発売。日本語版の刊行から翻訳版の発売までのタイムラグは一作ごとに縮まってきており、これも村上氏が高い市場価値を持つ世界的に著名な作家である証左といえる。

翻訳家が村上春樹を発掘

ベルリンにある書店Dussmannでは、村上氏のコーナーが設けられている。(写真提供=Hijiya Shūji)

驚異的な出版ペースや発売地域の広がり、また今後も多くの作品の刊行が見込まれていることなどを考え合わせると、販売する側のマーケティングの巧みさには驚かされるばかりだが、村上文学の普及においてとりわけ重要な役割を果たしているのが翻訳家である。様々な言語で膨大な数のファンサイトが立ち上げられ、出版社が巧妙なプロモーション戦略を展開し(ポーランドでは鉄道駅に『色彩を持たない~』の自動販売機が設置されたという)、批評家たちが有力メディアで作品を絶賛あるいは酷評できるのも、翻訳版があればこそ。もちろん、日本的な味わいとグローバルなアピールを兼ね備えた村上文学が存在することが前提ではあるのだが、翻訳家がいなければ、彼は一介の日本人作家に留まっていたはずだ。その事実を、村上氏はこれまでいくつかの段階を経て学んできたと思う。

1980年代、海外ではまだほとんど知られていなかった村上氏を見出し、翻訳を試みたのは、各国の好奇心旺盛な翻訳家たちだった。ドイツでは、優れた翻訳家として知られていたユルゲン・シュタルフ氏が、「パン屋再襲撃」(85年)、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」(86年)などの短編を翻訳し、87年から88年にかけて文芸誌に発表した。同じ短編を集めた英語版が出版される5年も前のことである。さらに91年、彼は若手翻訳者との共訳で、村上氏の初の長編小説『羊をめぐる冒険』を老舗出版社インゼルから刊行した。それらの作品はドイツの批評家の間で“驚くほどアメリカの香りがする”日本からの新鮮な声として好評を博し、さらに多くの村上作品を受け入れる素地を作った。

村上氏を紹介するドイツの新聞。

ところが、ドイツで初期の成功を収め、英語など各国語への翻訳が進むにつれて、村上氏はアメリカのエージェントを介してより厳格な手続きを求めるようになる。90年代前半のことだ。ちょうどその頃、ドイツではシュタルフ氏が短編集を企画していたが、英語版の版権が交渉中であることと、収録作品は自分で選びたいという村上氏の意向があったことから、ドイツ語への翻訳が認められず、企画は断念された。ドイツ人の好みに合わせて選ばれたその短編集が実現していれば、ドイツ語圏におけるその後の村上文学の受け入れられ方は違っていたかもしれないが、それは想像の域を出ない。なぜなら、『羊をめぐる冒険』の次にドイツで出版されたのは短編集ではなく、長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)だったからだ。しかも『世界の終わり~』は、すでに89年から90年にかけて、数回にわたって文芸雑誌に抄訳が掲載されていたにもかかわらず、ドイツ語の完訳版が刊行されたのは91年の英語版発売の後だった。

成功のカギを握る英語版

こうしたことを受けて、日本文学の関係者や出版関係者、そして読者の間には、「日本の作品が海外で成功するためには英語版が欠かせない」という奇妙な認識が広がっていった。エージェントでさえ、日本文学の翻訳版はほとんどが英語版を下敷きにしていると思い込んだほどだ。英語版を優先させるという村上氏の方策の影響は、本人の作品のみならず、日本文学全体にまで及んでしまったのだ。90年代、ドイツ語圏では日本文学ブームが起こっていたが、英語圏の出版社が興味を示さない作品については、版権交渉すらしたがらない日本のエージェントもあった。1990年から2000年にかけて日本の古典や近・現代作品32冊を出版した、ドイツの有名なシリーズ「日本文庫」でも実際に起こったことである。

村上氏が英語版を重視するのは、ある意味では当然かもしれない。彼自身、アメリカ文学の翻訳を手掛けているし、自分の作品中にアメリカ的要素を多く取り入れているからだ。しかしその後、なぜ『国境の南、太陽の西』(92年)と『ねじまき鳥クロニクル』(94年~95年)が英語版からドイツ語に翻訳されるようになったかの理由は明らかではない。『国境の南~』は、ドイツでは2000年に『危険な恋人(Gefährliche Geliebte)』のタイトルで刊行されたが、この作品はやがて文学界に大論争を巻き起こし、文学とメディアの関係を変えたとさえいわれることになる。

論争となった英語版至上主義

村上氏はその頃すでに、ドイツの人気テレビ番組「文学四重奏団(Literarisches Quartett)」に作品が取り上げられるほど著名な作家になっていた。「文学四重奏団」は、有名な文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキーと3人の批評家が、新しく刊行された文学作品について討論する番組で、ドイツだけでなくオーストリアとスイスでも生放送されていた。作品の質にまで及ぶ激しい意見の衝突が人気で、文学好きな視聴者に作品の読み方などを示してくれる番組としても定評があった。そんな番組に『国境の南~』は、非ヨーロッパ言語の文学としては初めて取り上げられることになった。なぜ“初めて”だったのかというと、出演者の中に原語を理解できる人がいない作品を取り上げることを“第1バイオリン役”のライヒ=ラニツキーが嫌がっていたからだ。

番組の中で、村上作品に対する見解は分かれ、議論は白熱した。やがて意見の対立を招いたエロティックな描写に話が及ぶと、出演者の一人から「英語版を底本として翻訳されている限り、原著のニュアンスを正確に汲み取るのは難しい」との意見が出される。議論はここでひとまず終了するのだが、後には重大な“置き土産”が残された。

この番組で取り上げられた作品は評価の良し悪しにかかわらず放送終了後に作品の売り上げ部数が増すのが常だったが、『国境の南~』も例外ではなかった。しかし同時に、作品が日本語でなく英語から翻訳されたことについて、出版社に激しい批判が寄せられ、その後大論争に発展したのである。「文学作品を原語以外から翻訳するのはプロの仕事とは言い難く、真摯な文学創造に対する侮辱だ」という意見には、誰もがうなずいた。

英語版を各国語版の底本にした村上春樹

しかし、現在も村上作品を刊行している一流の出版社が、なぜ英語版からの重訳などという方法を選んだのだろうか?その時に発表された出版社の公式ステートメントやインタビュー、背景情報などを総合すると、著者の村上氏がそれを望んだということになる。それどころか村上氏には、より早くドイツの読者に作品を届けるためとの理由から、重訳を自ら推奨している節さえあった。幸い、村上氏のこの自己矛盾的姿勢がさらなる論争を引き起こすことはなかった。むしろより問題なのは、英語版の『国境の南~』と『ねじまき鳥クロニクル』には、村上氏の承諾を得た上で、アメリカの読者のために大幅な編集が加えられていたという事実である。

優れた翻訳作品においては、各言語の文化的なバックグラウンドに応じて編集が加えられることは珍しくない。もちろん、著者と出版社の承諾は不可欠だし、翻訳家には作品の内容や翻訳する言語の文化、読者の期待などに対する深い理解、そして十分な翻訳経験が求められる。ひるがえって村上氏の場合、アメリカ向けに編集された英語版を各国語版の底本とすることを、他ならぬ著者自身が望んだことになる。少なくともドイツではそう受け止められた。

日本語からの新訳版が登場

そのエピソードから10年以上が過ぎた。2000年の「文学四重奏団」での村上論争が残した最大の“置き土産”は、村上作品を最も激しく批判した番組開始以来のレギュラー評論家が番組を去ったこと、そして1988年以来続いていた人気番組が、論争の翌年の2001年に幕を閉じたことだ。番組の終了は村上論争が原因だったというのが、もっぱらの見方である。

作品が多くの言語で読まれ、読者が世界中に広がっている今、村上文学の翻訳は新しい段階に入りつつあるようだ。そもそも「海外の読者にいち早く作品を届けるためには英語版からの重訳が効率的だ」という考え自体ナンセンスだった。最近の他言語での出版状況を見ればそれは一目瞭然であり、英語版重視の傾向は明らかに弱まってきている。

2000年に英語版からドイツ語に翻訳された『国境の南、太陽の西』(左)と13年に日本語版から直接翻訳された同作品(右)。

『国境の南~』は、ハードカバーやペーパーバックなど様々な形態で出版された後、13年になって初めて日本語からの翻訳版が新しいタイトル(Südlich der Grenze,westlich der Sonne)で刊行された。新訳版の登場に、読者はかつての論争を思い出し、再読した批評家たちは当時問題となった部分について「新訳によって著者の意図がより明確になり、性描写も実はそれほど過激ではなかった」と述べている。結局、たとえ読者からどんな反応があろうと、作品によりふさわしい形で出版し直すことの意義を出版社は認めたことになる。ドイツの読者たちも、再度買って読み直すほどの関心を持っているようだ。村上春樹は今や一つの“ブランド”である。読者は彼の作品の前を素通りすることなどできないのだ。

ドイツでは原語からの翻訳が主流

カット・メンシックのイラストで構成された『ふしぎな図書館』。

初期作品の新訳に加えて、最近注目を集めているのはイラスト入りの短編である。12年、「パン屋襲撃」「パン屋再襲撃」の2篇をドイツ人画家カット・メンシックのイラストで構成した書籍がドイツで発売されたが、これは日本でも刊行された。13年には同じメンシックの挿画で『ふしぎな図書館(Die unheimliche Bibliothek)』の新版も出版されている。こうしたビジュアル・ブックの登場で、村上文学は故郷日本への逆輸入も含めた、グローバルな規模での新たなチャンネルを獲得したことになる。

ここで気になるのが、先に触れたテキスト改編の問題だ。英語版が底本として使われなくなったとしたら、各国語版のための編集はこれからどのように行われていくのだろう。それとも、最近の村上作品は海外市場を念頭に置いて執筆されているため、編集など必要ないものに仕上がっているのだろうか。日本文学や翻訳を研究する者にとっては非常に興味深いテーマである。

ちなみにドイツの翻訳出版物では、原語から直接ドイツ語に翻訳される作品が88%を占め、英語など他言語から重訳される作品は12%にすぎない。この割合は1868年から現在までほぼ一定しており、後者のパターンが用いられるのは、主にマンガ、犯罪小説、ミステリーなど大衆向けの出版物である。この数字をどう捉えるべきか、ドイツ語以外の言語の状況はどうなのかなど、十分に考察する必要があるだろう。

(2014年1月4日、原文英語掲載
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