特集 世界のゴジラを生んだ日本の特撮
「元祖」ゴジラ・スーツアクター中島春雄
[2014.07.23] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

初代ゴジラのスーツアクター・中島春雄さんは、100キロのスーツの中での「演技」に苦戦した。「特撮の神様」円谷英二監督の指導やゴジラを初めて目にした子供たちの驚きなど、当時のエピソードを語る。

リスペクトされるゴジラ・スーツアクター

ゴジラ映画のコアなファンは、「ゴジラの中身」、つまりゴジラのスーツ(着ぐるみ)の中に入っている俳優に大きなリスペクトを寄せている。円谷英二特技監督(1901-70年)が60年前に生み出した怪獣・ゴジラは、初代スーツアクターに抜てきされた中島春雄さんの名演があったからこそ、リアリティーを持ったキャラクターとして世界中に熱狂的なファンを得たといえる。

海外の特撮映画ファンのイベントに招かれることも多く、米国へは10回以上訪れている。上は2014年6月フロリダのイベントで、第1作の『ゴジラ』に主演した宝田明さん、アメリカ人ファンと一緒に撮った1枚 (中島春雄さん提供)

1929年生まれの中島さんは、東宝専属俳優として『太平洋の鷲』(1953年)でデビュー。航空兵役で、火だるまになるスタントを演じた。その中島さんに、ある日「G作品」の台本が渡された。だが、台本をくれた演技部の課長に聞いても、監督に決まっていた本多猪四郎監督に聞いても、詳細がわからない。本多監督からは「円谷さんのところに行ってくれ」と言われたそうだ。

円谷特技監督「お前がスーツに入って動いてから作戦を練る」

当時、『ゴジラ』は「G作品」という仮タイトルで、極秘企画として進められていた。その特技(特殊技術=現在は「特殊撮影=特撮」と呼ぶのが一般的)を担当することになっていたのが、後日「特撮の神様」の異名をとった円谷英二だ。

「円谷さんのところに行ったら、絵コンテだけが10数枚あった。2、3枚広げて、こんな感じだと見せてくれた。『どうなるか俺もわからない、キャラクターができて、お前が入って動いて初めてわかる。それから作戦を練る』。そう言われたよ」

中島春雄さんがデビューした『太平洋の鷲』は、本多監督、GHQの公職追放から復帰して間もない円谷英二が特撮を手がけた「ゴジラ・コンビ」の作品だった

円谷監督は、参考にしてほしいと『キングコング』の映画のプリントを中島さんに見せた。ちなみに、キングコングは体長約10メートル、初代ゴジラは50メートルの設定だった。

「『おまえはアクターとして、アクターなりの“演技”(立ち回り)のことだけ考えてくれ。俺が監督として演技指導は全部やる。指令を出すから覚悟してやってくれ。(スーツは)重いけど大丈夫か?』と念を押されたよ。断るということは俳優を辞めるということだから、『やります』と言うと“オヤジさん”は喜んで、『どんなときにも弱音をはくな』と言われたよ。『大丈夫です!』と答えた」

100キロのゴム製スーツ、下駄ばきで必死に動く

1933年の米国映画『キングコング』はストップモーション・アニメーションの技法を使っていた。しかし、企画から公開まで半年余りしかない時間的制約の中では、『ゴジラ』にコマ撮り手法を使う選択肢はなかった。円谷監督が採ったのが、スーツアクターがミニチュアセットの中で演じる手法だった。

1954年3月に「第五福竜丸」がビキニ水爆実験で被災。第1作『ゴジラ』はその「核の恐怖」を背負っている。だか、「オヤジさんとは政治的な話は一切しなかった」と中島さん

しかし初代ゴジラのスーツの中で演じるのは、想像以上に過酷だったそうだ。車のタイヤのように重くて硬いゴム製ゴジラのスーツは約100キロの重さがあった。しかも、スーツの中ではいていたのは、下駄(2作目からは長ぐつ)だった。とにかく動きにくいというのが実感だった。

「スーツの中で感じたのは孤独。そして、考えるのは次の動きのことだけ。重さと平衡して演じる仕事だから、余計なことを考えてはいられない」

 ゴジラの動きに個性を与えるために、中島さんは工夫や努力を怠らなかった。毎日のように上野動物園に通ってゾウや熊の動きを観察したというのは、ゴジラファンの間では有名なエピソードだ。また、円谷監督は2倍半や3倍のハイスピードで撮影するため、それに合わせて動きの速度も変えた。ゴジラの歩き方のポイントは「すり足」。「足の裏を見せてはダメ。すり足じゃないと強そうに見えない。お相撲さんと同じだよ」

ゴジラを見た子供たちの目の輝きが忘れられない

中島さん「唯一」のNGシーン。円谷監督は「意味なくモノを壊すのは嫌い」だったそうだ

ゴジラを演じるのは最初で最後だと思っていたが、結局12回演じた。そしてNGを一度しか出さなかったことが誇りだ。その一度とは、第1作でゴジラが東京・銀座4丁目の服部時計店(現在の和光)の時計台を壊す場面だ。「俺が無造作に壊したら、オヤジさんが、そのアクションはおかしいから、撮り直そうということになった。またミニチュアを作って、石膏が固まるまで、ひと月くらいかかったけれどね。それでリテイクの時には時計の鐘が鳴ると、何だろうなって触ってみて、それから壊すという動きをして、OKが出た」。

1954年11月に公開された『ゴジラ』は、観客動員数960万人の大ヒットを記録。米国では1956年に“Godzilla, King of the Monsters” として公開された。米国版は新たなカットを加えて再編集されていたが、米国版を契機にゴジラの海外での知名度は広がった。

中島さんは60年経った今でも、初めてゴジラに「遭遇」した観客の反応を鮮やかに覚えている。

「映画が公開になってから、入場料を払って映画館に見に行った。一番前の席に座って、スクリーンを背中にしてお客さんの表情を見た。面白かったなぁ。志村(喬)さんがしゃべっているときには、(観客の)子供たちはおしゃべりしている。そこにドンドンと音が響いて、ゴジラが登場してくると、子供たちの目がキラっと光るんだよ、みんなの目がね。それを見たらうれしくてね、あれには泣いたよ、俺」

そう語りながら、中島さんは涙ぐんだ。その後ゴジラ以外にも、東宝特撮映画でラドンを始めとするさまざまな怪獣を演じ、『ウルトラQ』などのテレビ番組でも活躍した。最後に、ゴジラの一番の強敵は何だと思うか聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「ゴジラの敵で一番怖いのは人間だろうね。人間はいろんなこと考えるからね」。

撮影現場の円谷英二特技監督(中央)。1作目の『ゴジラ』では「特殊技術」担当だったが、2作目『ゴジラの逆襲』以降「特技監督」のクレジットが確立する。ゴジラシリーズでは怪獣以外の場面を本編の監督が、怪獣の場面を特技監督が担当した

 

*中島さんがゴジラを演じた12本

  作品名 公開日
1 ゴジラ 1954/11/3
2 ゴジラの逆襲 1955/4/24
3 キングコング対ゴジラ 1962/8/11
4 モスラ対ゴジラ 1964/4/29
5 三大怪獣地球最大の決戦 1964/12/20
6 怪獣大戦争 1965/12/19
7 ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 1966/12/17
8 怪獣島の決戦 ゴジラの息子 1967/12/16
9 怪獣総進撃 1968/8/1
10 ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 1969/12/20
11 ゴジラ対ヘドラ 1971/7/24
12 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン 1972/3/12

(2014年6月12日のインタビューを基にニッポンドットコム編集部が構成。タイトル写真は『南海の大決闘』撮影時の中島春雄さん)

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