特集 日本のウイスキー
ウイスキーは「文化をまとった酒」
洋酒をめぐる風俗史

狩野 卓也【Profile】

[2014.09.02] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL | العربية | Русский |

『ウイスキーが、お好きでしょ』のCM楽曲リバイバルとともにハイボールが流行し、日本のウイスキー市場は再活性化した。高度成長期に庶民のものになり、「水割り」スタイルの普及やスナックという業態が隆盛するなど、独自の発展を遂げた日本の洋酒文化の変遷を振り返る。

ウイスキー市場、約20年で4分の1に縮小

第2次世界大戦後の日本経済の発展は、日本における洋酒文化、特にウイスキー市場の形成に大きな影響を与えた。それまでのマーケットは日本酒を中心に回っていたが、日本の社会・文化が欧米のスタイルを取り入れて成長するともに、ビール・ウイスキーの消費量が成長していったからだ。

各家庭に冷蔵庫が普及するとともにビールの消費量は増え、1950年代には日本酒を抑えてナンバーワンに。人口増に伴い酒類消費総量は増加していく中で、日本酒の消費量は1975年をピークに減少に転じた。

一方、ウイスキーは1983年まで増加を続ける。しかし、米国に端を発した“白色革命”(ウォッカ、ジンなど白色蒸留酒が好まれるようになった消費傾向)の影響は、日本では焼酎・チューハイブームという形で表出。焼酎の消費量は1983年からわずか数年間で倍増し、ウイスキーを追い抜いた。

ウイスキーは戦後一貫して消費量が増加していたものが、1983年のピークから数年の間に4分の1も減らした。1990年には日本独特の級別制度が廃止され、平均的な価格は下がったものの市場はさらに減少。2000年代に入った頃には、ピーク時の4分の1程度にまで収縮してしまった。ようやく増加に転じたのは、ここ数年のことである。

ウイスキー黎明の時代

日本にウイスキーが普及したのはそう古い話ではない。寿屋(現在のサントリー)が、「醒めよ人!/すでに舶来盲信の時代は去れり/酔わずや人/我に國産至高の美酒/サントリーウイスキーはあり!」との激烈な広告メッセージとともに国産ウイスキー第一号を発売したのは、1929年のことである。当時のウイスキーのマーケットは極めて小さく、一部の富裕層が欧米文化への接点として口にする程度であっただろうが、文章からはすでに輸入ウイスキーが日本国内では珍重されていたことがうかがえる。多くの人にとっては、うわさに聞いたことがある憧れの酒だったことであろう。

日本で大衆が本格的にウイスキーに触れられるようになるのは、1960年以降のこととなる。

級別制度と格付けで独自発展をした日本のウイスキーマーケット

1962年から1989年の酒税改正まで、主に原酒混和率の差によりウイスキーは特級、1級、2級の3区分に分かれて課税された。級ごとの酒税額格差は大きく、日本のウイスキーは諸外国以上にブランドごとにヒエラルキーのあるマーケットとして成長する。結果としては、大衆商品の2級ウイスキーと高級な特級ウイスキーというふたつの区分でウイスキー市場は形成されていった。

経済発展段階において、高価な商品は憧れの商品として価値を高めていくもので、ウイスキーはその典型的なものとなり、特級ウイスキーは贈答品市場でも重用された。級別制度が廃止されたときに特級ウイスキーは酒税が1400円程度課せられており、代表的な小売価格は3170円。これに対して、2級は酒税が170円程度で、小売価格は720円だった。そして生活水準の上昇とともに、主力市場は2級ウイスキー(サントリー・トリスやレッド、ハイニッカなど)から特級ウイスキーへ移行していった。

酒税額差による級別制度により、ウイスキーの銘柄間の価格差が大きくなったことが、ひとつのメーカーでのマルチブランド政策を後押しした背景にもなっている。さて、それではこの時代のウイスキーの消費シーンを簡単に振り返ってみよう。

夢を売った「トリスを飲んでハワイに行こう」キャンペーン

「トリスを飲んでハワイに行こう」キャンペーンの広告=サントリー提供

1960年代には、トリスバー、ニッカバーといった名前を冠した大衆的な洋風バーが数多く登場し、1961年には「トリスを飲んでハワイに行こう!」という広告キャンペーンが始まった。当時の日本人にとって海外旅行は夢の世界であり、ウイスキーという新しい酒が夢を与えてくれるものとして大きく認知された。ウイスキーは戦後の復興を象徴する酒類として、単に酔いを求めるだけではなく文化をまとった酒としてデビューしたのである。

1970年代に入り、目覚ましい経済発展が進むと、「十年まえは熱燗で一杯やったものですが……一日のピリオド。黒丸。」というサントリーオールドの宣伝が一世を風靡した。寿司屋の職人が仕事を終えた後に日本酒ではなく特級ウイスキーを飲む姿を描いたこのメッセージは、ウイスキーをバーだけで飲む特殊な洋風文化の酒から、日常生活にまで広げることに成功した。宣伝の始まった1970年は当時サントリーの主力商品であったオールドの年間販売量は100万ケース程度であったものが、1974年には500万ケース、1978年に1000万ケース、1980年には1240万ケースと瞬く間に世界トップの販売量となった。

この時代は、水割りがウイスキー(後にブランデーも)の飲み方として定着した時代でもある。アルコール度数が40度以上もあり、日本人には飲みにくかったものを水割りにして、慣れ親しんだ強さ(15度前後)にする日本の独自スタイルが確立した。これは日本酒がほとんど飲まれず、本格焼酎をお湯割り(15度前後)にして飲んでいた南九州地方の習慣と同じであり、ウイスキーを食後酒だけでなく食中酒としても楽しむという市場を作っていった。日本酒=古臭い酒、ウイスキー=モダンな酒というイメージも強く、先進国の憧れの酒から現実に飲む慣れ親しんだ酒へとウイスキーの位置づけも変わっていった。そのようにウイスキーを飲む場所として、居酒屋の洋風バージョンともいえるスナックという業態が成長していく。

日本独特のスナック文化

日本で「スナック」と呼ばれるバー業態が隆盛したのは、1970年代から90年代にかけてである。軽食もあり、接客するホステスもいる店でカウンター席を中心とするものが多い。ウイスキーの消費が拡大する時代に果たした役割は大きく、特にこの業態で「水割り」「ボトルキープ」が広がったと考えてよい。ボトルキープは、メーカーの営業政策上も好都合であり、拠点店を作ることで、ブランドの認知率アップ、営業支援も容易であった。

スナックの店内。大半の店がカラオケを置いている(時事通信フォト)

一方で、価格帯別のブランドを複数扱うことで、同一カテゴリー内での上級移行を促した。他人よりも高級な酒を飲むことは、自己顕示欲を満足させる見栄消費の側面もある。スナックの客は、酒代を払うのであるが、目的は酒を飲むことや食事をすることではなかった。主目的は「ママ」「ホステス」の接客サービスを受けることであり、70年代は会話がメインであったが、80年代にカラオケが登場してからは、歌うことやダンスをすることに移行していく。ここで高価な酒を飲むということは自己顕示欲の充足であり、同じ価格帯の中で多様な味わいの酒を求めるという方向にはあまり進まなかった。

酒の種類を選ぶ飲み方の登場

80年代以降はカフェバー、ショットバーなど新しい業態も登場した。豊富な品そろえのウイスキーを、ショットやカクテルで飲む。バーボンも若い世代を中心に人気を集めて洋酒の多様化も進み始めた。その背景には、並行輸入品が登場することでそれまでの輸入総代理店による建値制度が崩れ始めたこともある。

この結果、スタンダードスコッチは廉売される商品となり、ブランド価値が下がり市場を失っていった。プレミアムクラスも当初は市場のすそ野が広がったが、やはり価格の持つ価値が崩れて贈答品市場を失い、結果として国内の販売量は減少していった。

価格が下がることで市場が収縮するという、マーケティングの常識とは異なる事態になったのである。ここからウイスキーは、従来のハイクラス市場を失うかわりにモルトウイスキーを典型にする味や香りといった嗜好品としての価値判断による市場の再構築へ進むことになっていく。

日本社会のヒエラルキーを象徴した銘柄

日本でウイスキーがたくさん飲まれていた1980年代までは飲む銘柄が社会階層、思想などを表すアイコンでもあった。サントリーのレッド⇒ホワイト⇒オールド⇒リザーブと、可処分所得の増加に伴い上級移行が当たり前のように進む時代であった。さらに垂直の関係だけではなく個性派の人向けのイメージをまとった角瓶やニッカ、バーボンなどの銘柄もあり、飲む銘柄によって自己主張を表すこともできた。それくらい当時の日本人にとっては、ウイスキーというものは社会と密接な酒であった。

その背景にはサントリーがあらゆる世代に向けて、マーケティングメッセージを発信し続けた過去の蓄積がある。社会貢献などにも早くから取り組んだサントリーは単なる洋酒企業ではく文化企業としてイメージを高めていき、80年代初頭には大学生の働きたい企業として人気ナンバーワンの座に就いたこともある。しかし、ブランドごとの味や香りの差異よりも文化的なイメージとしてウイスキーマーケットは実力以上に広がったともいえ、1980年代初頭のチューハイブーム以降、ウイスキーの総市場が増加に転じることはなくなった。

ハイボールブーム

サントリーは数年かけてハイボールによりウイスキー市場の再活性化に成功した。ウイスキーのおいしさを訴求するために、提供するハイボールの度数、温度などのレシピの指導にも時間をかけ、結果としてウイスキーの従来の延長上にはないニーズをつかみとったからだ。

甘いチューハイを受け入れない層はもともと一定程度おり、「ドライ」「発泡性低アルコール」「飲み飽きない爽快感」というビバレッジを求めており、そこにウイスキー風味のあるハイボールが新しい飲み物として受け入れられたということである。この需要はビール、チューハイなど様々な市場から入ってきており、ウイスキーの新規客の獲得に成功した。

しかし、これはあくまでハイボールとしての飲用と考えることもでき、ここから本来のウイスキーにつなげていくには少し距離があるかもしれない。ここから入ってくるニューカマーをどれだけハイボール以外の本来の飲み方につなげていけるかが、ウイスキー市場全体のさらなる成長を左右することになるだろう。

タイトル写真:1955年前後のトリスバーの店内=サントリー提供

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  • [2014.09.02]

(株)酒文化研究所・代表取締役。1959年生まれ。1984年慶応義塾大学法学部卒業。洋酒メーカー勤務などを経て、1991年に同研究所を設立。1996年より現職。酒文化及び酒類ビジネスに関する調査研究や執筆、講演活動を行っている。著書に『酒と水の話-マザーウォーター』(紀伊国屋書店、同研究所編・共著)など。研究所のウェブサイトはhttp://www.sakebunka.co.jp/index.htm

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