特集 禅の世界へ
「負けて勝つ」政治決断—全生庵を彩った2人の男(上)山本玄峰

出町 譲【Profile】

[2017.02.03] 他の言語で読む : Русский |

全生庵は東京・谷中にある、とりたてて目立つことのない禅寺だ。しかし、なぜか多くの政治家、官僚ら要人が座禅を組みに来ることで知られる。この寺に関わった2人の男が下したそれぞれの決断は、日本を救ったと言っても過言ではない。まずは山本玄峰からその秘話を紹介しよう。

自民党総裁任期の延長が決まり、安倍晋三首相が続投に強い意欲を示している。しかし、その安倍は07年9月、所信表明演説の2日後に潰瘍性大腸炎を理由に政権を投げ出したことがある。精神的にも追い詰められていたのは、明らかだった。現在の自信に満ちた姿と同じ人物とは思えない落差だ。何が安倍を変えたのか。
その理由の一つと言われるのが座禅だ。退陣7カ月後、心身ともぼろぼろになった安倍は全生庵を訪れた。その後も、月に1回ほど全生庵に通い、政権に復帰してからも節目節目に座禅を組む。

座禅が行われる全生庵の本堂。他に座禅道場もある

要人を引き付ける禅寺

全生庵を訪れた著者・出町氏

全生庵の名前を広めたのは、中曽根康弘だった。首相時代の5年間に167回も座禅を組んだ。全生庵は、富山県高岡市にある本山・臨済宗国泰寺(こくたいじ)の末寺に過ぎない。あまたある禅寺の中で、なぜ全生庵が要人たちを引き付けるのか。
私は住職の平井正修(ひらい・しょうしゅう)の話を聞いたり、文献を読んだりするうちに、全生庵ゆかりの山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)と山本玄峰(やまもと・げんほう)という2人の人物に興味を覚えた。名前を知っている人は少ないかもしれないが、彼らが残した足跡は大きい。

幕臣である山岡鉄舟は、勝海舟の使者として新政府軍の西郷隆盛を説き、江戸城の無血開城に道を切り開いた。山本玄峰は、終戦時の首相、鈴木貫太郎の相談相手で、無条件降伏をいち早く唱えた僧侶だ。
無血開城と無条件降伏は、日本の近代史で特筆すべき2大政治決断と言える。山岡鉄舟は1883年に全生庵を建立した。明治維新で殉死した人たちを弔うためだ。それでは、無条件降伏を唱えた玄峰は、全生庵とどんなつながりがあったのか。まずは、玄峰の話から始めよう。

全生庵で座禅を組む総理時代の中曽根康弘(時事)

終戦工作に動いた山本玄峰

平井住職は「中曽根先生が座禅なさったのは、四元義隆(よつもと・よしたか)さんの紹介です。四元さんとうちの父、平井玄恭(げんきょう)は、山本玄峰老師の弟子同志だった」と言う。玄恭は6歳のころから山本玄峰の弟子で、2人の師弟関係は40年以上続いた。静岡県三島市にある龍沢寺(りゅうたくじ)の住職だった玄峰は上京すると、いつもこの全生庵を拠点として法話をしていた。

四元は右翼の大物だ。近衛文麿や鈴木貫太郎ら首相の秘書を務め、戦後は「政界の黒幕」と呼ばれ、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らの懐刀となった。その影響力は長く続き、中曽根、そして細川護煕をも指南した。
若き日にはテロリストだった。1932年に蔵相の井上準之助と三井財閥総帥の團琢磨を暗殺した血盟団事件に関わり、収監されてもいる。当時貧富の格差が拡大し、国民の中では政財界に対する怨嗟の声が高まっていた。そんな中、起きたのが血盟団事件である。

その裁判で弁護をしたのが、既に高僧として知られていた玄峰だった。血盟団事件の被告たちは私心なく日本を救いたい一心だった、と法廷で主張して減刑を求めた。
四元に下された判決は、無期懲役の求刑に対し懲役15年。玄峰は頻繁に小菅刑務所を訪ね、講話していた。そこに収監されていた四元には、この講話が大きな戒めとなり、血盟団事件を反省し、寝る間を惜しんで座禅を組んだ。四元にとって玄峰は、親以上の存在となったのだった。

山本玄峰老師

玄峰は太平洋戦争について「このような無理な戦争をしてはいけない」と、開戦当初から反対していた。龍沢寺には、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人といった有力政治家だけでなく、戦後に学習院院長になった自由主義者の安倍能成(よししげ)、岩波書店創業者の岩波茂雄らも出入りし、あたかも反・東條英機の砦のようだった。
「わしの船は乗合船じゃ。村のばあさんも来れば乞食もくる。大臣もくれば、共産党もやってくる。みな乗合船のお客じゃ」

しかし、東條との面談だけは拒んだ。
「我見にとらわれたまま会っても、わしの言うことは分からんじゃろう。せめて幼稚園の子供のような心境になって、全てを捨て切った東条さんなら、わしの言うことも多少は分かるじゃろうが」

そして玄峰はいよいよ、終戦工作に動く。
恩赦で出所した四元は42年ごろから「東條を倒さなければ、日本民族が滅びる」と考え、重臣との面談を重ねていた。その中で最も共鳴したのが、枢密院議長の鈴木貫太郎だった。

玄峰の手紙が玉音放送のベースに

鈴木貫太郎(国立国会図書館所蔵)

1945年3月下旬、玄峰は四元の仲介で、鈴木と面談した。当時、鈴木は首相の職を受けるかどうか悩んでいた。四元は後のインタビューで、こう語っている。
「玄峰老師が真っ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『すぐやめな、いかんでしょう』と、意見が一致したんです」

その10日あまり後の4月7日、鈴木は首相に就任した。それからの4カ月は鈴木にとって、陸軍との駆け引きの毎日だった。本音では戦争終結を志向しながらも、それを表に出すと、クーデターを誘発しかねない。戦争遂行のふりをしながら、チャンスを待った。

鈴木は8月12日、玄峰に使者を通じて終戦の決定を下したと伝えた。玄峰はこの日すぐに手紙を書いた。
「貴下の本当の御奉公はこれからでありますから、まず健康にご注意下され、どうか忍びがたきを忍び、行じがたきを行じて、国家の再建に尽くしていただきたい」

昭和天皇は8月15日の玉音放送で「忍び難きを忍び…」と国民に語り掛けた。3日前の玄峰の手紙がベースとなったと伝えられている。

全生庵本堂

撮影=ニッポンドットコム編集部

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  • [2017.02.03]

1964年富山県高岡市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員を経て、2001年テレビ朝日入社。経済部、報道ステーションを経て、現在は情報番組「グッド!モーニング」のニュースデスク。11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(文藝春秋)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(幻冬舎)など経済人の著作が多い。「潮」「VOICE」「北日本新聞」などにも地域再生や企業トップインタビューなどを定期的に寄稿。

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