特集 ニッポン偉人伝
渋沢栄一:「公益の追求者」の足跡をたどる
[2017.04.20]

生涯に約500の企業設立・運営に携わったことで知られ、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。その一方で、関わった社会事業は約600にも上る。「公益」を第一に考え、「道徳経済合一説」を実践した人生を、渋沢史料館の展示とともに紹介する。

市場主義の反省で注目集める

日本有数の桜の名所として知られる飛鳥山公園(東京都北区)。その園内南側に、渋沢栄一(1840〜1931年)が晩年を過ごした邸宅「曖依村荘(あいいそんそう)」跡がある。

渋沢史料館に隣接する旧渋沢庭園内にある栄一像

戦火を逃れて現存する建物は、賓客をもてなした洋風茶室「晩香廬(ばんこうろ)」と、図書館として建てられた「青淵文庫(せいえんぶんこ)」。両方とも国指定重要文化財となっている。渋沢の喜寿を祝い、現在の清水建設から寄贈された晩香廬は、今年で築100年を迎える。渋沢史料館はこの2つの大正建築を中心施設として始まり、1998年に資料の展示を行う本館をオープンさせ、現在の形となった。

晩香廬の名は、渋沢の漢詩「菊花晩節香」にちなんだと言われる。暖炉や調度品、家具には、手の込んだ細工が施されている

2008年のリーマンショックあたりから、短期的な利益を追求するマーケット資本主義に対する反省が世界中で深まる中、私利と公益の調和を目指し、道徳経済合一説を唱えた渋沢が、国内外で注目を集めている。それに合わせて、渋沢史料館の入館者数が伸び、海外からの来訪も目立つようになった。特に多いのは、中国や台湾、韓国といった東アジア圏の人たちだ。中国の企業経営者たちが、たびたび社員を引き連れて訪れている。

「今、見直される渋沢栄一」

1925年竣工の青淵文庫は、煉瓦造および鉄筋コンクリート造の洋館を美しいステンドグラスとタイルが彩る

「栄一述の『論語と算盤』は、中国語に翻訳されて大変よく読まれています。急成長する中国経済に不安や疑問を持つ人が多く、そこに中国の若者の間で巻き起こった論語ブーム(于丹現象)が重なったからでしょう。06年には、湖北省武漢市にある華中師範大学に『渋沢栄一研究センター』が設立されました。また、米国のミズーリ州立大学セントルイス校に栄一の名前を冠した講座ができるなど、欧米でも研究する機関や学者が増えています」(渋沢史料館・井上潤館長)

左上)井上館長 右上)渋沢史料館の外観 下)展示室のエントランス

公益を追求した激動の生涯

渋沢栄一は1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で、豊かな農家の長男として生まれた。畑作、養蚕の他に、藍玉の製造、販売などを行っていたため、仕入れなど家業を手伝う中で商売の感覚を磨いた。7歳から従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう、後の富岡製糸場初代場長)に、論語や歴史を教わった。二十歳を過ぎてからは、農閑期に江戸へ出向き、当時屈指の儒者・海保漁村(かいほ・ぎょそん)の塾や北辰一刀流・千葉栄次郎、千葉道三郎の「玄武館」に通うなど、文武共に学んだ。

展示項目1番は「郷里にて」。若き渋沢の思想を知ることができる

郷里や江戸で志士らと親交を持ったこともあり、栄一は尊王攘夷思想に染まり始めた。尾高らと高崎城乗っ取りや横浜の焼き討ちを共謀したが、未遂に終わっている。その後、逃げるように京都に旅立つと、身の安全を確保するために、縁があった一橋慶喜(よしのぶ、後の徳川慶喜)の一橋家に仕えることに。そこで、家政の改革に取り組んで成果を上げ、重用されていった。

展示「幕臣となる」。幕末から、ヨーロッパ体験、静岡時代まで

67年、15代将軍となった慶喜の弟・徳川昭武(あきたけ、1968年より水戸藩主)を将軍名代とする「パリ万博幕府使節」に随行。博覧会後は欧州諸国を訪問し、そのまま昭武のパリ留学に付き添った。そして、1年半の間に、先進国の社会制度や経済活動に触れた。

67年にフランスで撮影された2枚

明治時代になって帰国した渋沢は、徳川宗家が移封(いほう)された静岡藩で銀行兼商社のような組織「商法会所」を設立。その後、明治政府に招かれて民部省(後、大蔵省)の官僚となる。要職を歴任し、国立銀行条例や度量衡(どりょうこう)の制定、富岡製糸場の設立など、新しい国の仕組みづくりの実務を中心的に担った。

展示「維新政府の一員に」。近代日本の基礎作りのために、幅広い分野の仕事をこなしたことが分かる

73年に大蔵省を辞め、民間人として経済活動を開始。自ら設立に力を注いだ「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の総監役(後に頭取)として、合本組織(株式会社)による企業の創設や発展に力を注ぎ、生涯に約500の企業の設立・運営に関わった。

展示「実業界を築く」。第一国立銀行に始まり、設立・運営に関わった企業関係の資料などがずらりと並ぶ

1931年11月11日に91歳で永眠するまで、教育機関や社会公共事業の支援、民間外交にも尽力。こちらは約600に及ぶ社会事業に関連した。私利よりも公益を優先した人生が評価され、生前に財界人としては最高の子爵を与えられた。

最後の展示項目は「91年の生涯を終えて」。葬列を見送る人の多さに、一般市民にも慕われていたのが表れている

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