ニッポンの常識

なぜ日本人は蕎麦をすするのか?

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「ズルズル!」という豪快な音を立て、蕎麦(そば)を食べる日本人。訪日観光客が、それを知らずに蕎麦屋に入ると驚き、人によっては不快感を持つかもしれない。麺類を“すすって”食べるという、日本独特の食習慣が「なぜ生まれたのか」「なぜ根付いたのか」。老舗蕎麦屋の店主に話を伺うなどして分析を試みた。

蕎麦の香りは鼻ではなく口の中で楽しむ

大好きな蕎麦をすする著者・本橋氏

手軽においしく食べられることから、日本人だけでなく、訪日観光客にも人気の高い、蕎麦、うどん、ラーメンなどの麺類。そんな麺類に関して昨年、ちょっとした騒動が日本で起こった。食べる時に「ズルズル」と音を立ててすすることが、外国人に不快感を与える「ヌードル・ハラスメント(ヌーハラ)」だと、ツイッター上で訴えるアカウントが現れたのだ。すぐに多くのユーザーがリツイートし、テレビ番組や新聞でも紹介され、すすることに対して肯定、否定の意見が多く出された。

このヌーハラ騒動は具体的な根拠のないものとされ、すぐに沈静化したが、実際「すする」という食べ方は日本独特なもの。その光景を初めて目にした外国人の中には、驚く人や嫌悪感を持つ人もいる。パスタや中華麺など世界には麺料理が数多くあるが、音を立てて食べることはマナー違反とされ、どこでもモグモグと静かに食べているからだ。

では、日本料理のマナーで、すすることが良しとされているかというと、そうではない。正式なマナーとしては、やはり音を立てて食べることは良くないこととされているのだ。では、なぜ日本人は麺類だけはすするのか? 今回は私の専門分野「蕎麦」に焦点を当て考察したいと思い、200年以上続く老舗店であり、外国人客も多く訪れる麻布十番(東京都港区)の「総本家 更科堀井」の堀井良教(よしのり)さんに話を伺った。

「蕎麦の香りを楽しむために、すするようになったということでしょうね。蕎麦はもともと鼻じゃなくて、口の中で香りを楽しむものですから。ワインのテイスティングの時、まずは鼻で香りを嗅いだ後に、口の中で転がして喉から鼻に抜ける香りを嗅ぎます。確か、前者をオルソネーザル(鼻先香、立ち香)、後者をレトロネーザル(口中香、あと香)と言います。そして、蕎麦は前者が弱いので、後者を楽しむもの。特にもり蕎麦は冷たいから匂いも立ち昇らないし、鼻で嗅いでも分からない。強くすすって、口の中に広がる香りを堪能するのが正しい食べ方なのです」

確かに、蕎麦はモグモグやっても味気ないものだ。しかし、そのマナーを破った食べ方が、どのように日本中に広がっていったのか? 歴史資料や堀井さんの知見を基に、私なりに推論を立ててみたい。

創業1789年の老舗店を継ぐ堀井さん

「すする」ことがマナーよりも優先された理由

栄養価が高く、コメなどに比べ短期間(2カ月半から3カ月位)で収穫できる蕎麦は、古くから日本各地で食べられていた。最初のうちは粒のままでおかゆなどにして食べられていたが、そのうち粉にひいて練った「蕎麦がき」に変わり、やがて麺状にして食べるようになった。そんな蕎麦が食事として定着したのは、江戸時代の初期。1600年代の後半には、すでに多くの蕎麦店ができていた。最初こそほとんどの店で蕎麦とうどんを併売していたのだが、やがて蕎麦の人気が高まってうどんを駆逐してしまい、江戸の名物となっていったのである。

「蕎麦は当初、セイロで蒸して食べていたので、蒸した時に漏れる蒸気から、蕎麦の香りに気づいたのでしょう。それで、すすって食べてみたら、香りも楽しめておいしく食べられた。そんな感じで、自然に身に付いた知恵だと思いますよ」(堀井さん)

蕎麦が人気となった理由としては、その味もさることながら、栄養価の高さもあったのだろう。うどんの原料である小麦と比べると、蕎麦はタンパク価が高く、ビタミンB群も豊富。当時は栄養価を調べることはできなかったかもしれないが、「体に良い」ということは体験的に分かっていたのではないか。蕎麦を売る店は時代を経るにつれ増え続け、江戸時代後期の1800年代には、江戸に700軒ぐらいの蕎麦店があったとされている。これは、当時の飲食店で最も多かった居酒屋に次ぐ数字だ。

「当時の江戸は100万人都市だったと言われています。世界でも有数の人があふれる街で生き抜くために、短時間に高栄養価の食事を取らねばならなかったことでしょう。それが、関西はうどん文化なのに対して、江戸には蕎麦が根付いた原因の一つだと考えられます」(堀井さん)

堀井名物「さらしな」(930円)は、蕎麦の実の芯の粉で打った白くきめ細かい蕎麦。すするたびにほのかに蕎麦の香りを楽しめる、まさに「すする」にはぴったりな一杯

気軽に食べられる屋台や、てんびん棒をかついで売り歩く「夜蕎麦売」が多かった。武士など上流階級が食べに行く高級店もあったが、蕎麦はまさしく庶民の食べ物だったのである。ちなみに、日本の名物となっている寿司や天ぷらも、そのルーツは江戸時代の屋台で、蕎麦と同じく庶民の間で大流行していた、手軽に食べられるファストフードだったのだ。

そんな江戸時代、日本にはすでに食事のマナー、礼法があった。それは現代に通じているもので、音を立てて食べるということは、当然マナー違反。しかし、堀井さんも「庶民の食べ物だったので、マナーを気にしなかったんでしょう」と言う通り、そんな野暮なことを言い出す江戸っ子はいなかったはずだ。また、屋台の食事は仕事の合間などに小腹を満たすもの。立ったまま食べることがほとんどだったため、自然と急いでかき込まなければならなくなる。そうなると、ごく自然に蕎麦を「ズルズル」と音を立てて食べていたのではないだろうか。そして、その習慣がそのまま現代まで続き、ラーメンの食べ方などにも影響を与えているのではないか。

切った蕎麦を丁寧に揉む職人さん

ヌーハラなど気にせず、おいしく食べる

堀井オリジナルの英語版「蕎麦の食べ方」ガイドも置いてある

蕎麦を食べるための最も適した「すする」という方法。せっかくだから、ヌーハラなどと言わず、どんどん世界に広めていきたいと思うのだが、実際に「総本家 更科堀井」では外国人客にどう教えているのだろうか?

「こちらから教えるということはないです。すすれない方は、みなさんモグモグ食べていますよ。私はすすることにこだわるよりも、まずは蕎麦のおいしさ、栄養価の高さを分かってもらいたいですね。モグモグ食べながら、そのうち“すするとおいしい”ということに気付いてもらえればいい。あまり押しつけるようなことをしても、受け入れてもらえないですから。すするのは、あくまで蕎麦の一つの食べ方。お客さんに喜んで食べてもらえれば、それが一番なんです」(堀井さん)

もちろん英語メニューも用意している

「すする」という行為は、江戸時代から続く日本の食文化。それを押しつけたり、逆にハラスメントになるからと遠慮したりすることは、どちらも正しくはないだろう。まずは食べ方にこだわらず、蕎麦を味わってもらうこと。なによりも食事というものは、マナー以前においしく食べることが、最も重要だと堀井さんも言う。

ちなみに「総本家 更科堀井」では、日本人の常連客が外国人客にすすり方を教えていることが、時折あるそうだ。近くに大使館が多い土地柄から、高齢でも英語を話せる方が多いため、仲良く話をしているうちに自然とそうなるらしい。こうした形で、蕎麦のおいしさとすする食べ方が世界に広まればうれしい。

店舗情報

「総本家 更科堀井 麻布十番本店」

・東京都港区元麻布3-11-4
・TEL:03-3403-3401
・営業時間:午前11:30~午後8:30(土、日、祝は午前11:00~)
・定休日:年中無休

写真=安藤 青太

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