京都、東京で「東山魁夷・生誕110年展」—唐招提寺障壁画の再現展示も

文化

日本画家・東山魁夷の生誕110年を記念した企画展「生誕110年 東山魁夷展」が29日から30年ぶりに京都市で開催される。続いて10月24日からは舞台を東京に移し10年ぶりに開催される。

同展には代表作「残照(ざんしょう)」「道(みち)」「緑響く(みどりひびく)」や鑑真(がんじん)和上が開いた奈良・唐招提寺の御影堂(みえいどう※)に納められた障壁画など約80点が展示され、90歳で世を去った「国民的風景画家」東山の画業の足取りをたどることができる。

※御影堂(みえいどう)=寺の創始者の像「御影(みえい)」を安置した建物。宗派によっては「ごえいどう」とも読む。

《道》   1950年、東山魁夷、東京国立近代美術館蔵

《残照》   1947年、東山魁夷、東京国立近代美術館蔵

《緑響く》  1982年、東山魁夷、長野県信濃美術館 東山魁夷館蔵

2018年は日中平和友好条約締結40周年に当たり、代表作3点に加えて注目されるのが中国との縁が深い唐招提寺の障壁画の復元展示だ。主催者は「御影堂は修理のため今後数年間は唐招提寺でも見ることができないため堂内部をほぼそのままに間近に見ることができる貴重な機会だ」と語る。

東山画伯は、仏教の教えを伝えるため5度失敗し失明しながらようやく日本にたどり着いた中国の高僧鑑真に対する深い畏敬の念に基づいて障壁画の制作に着手し、日本各地を改めて見て歩いた末に障壁画の「山雲(さんうん)」と「濤声(とうせい)」を、視力を失った鑑真が見たかっただろう日本の景色として色鮮やかに描いた。また1978年の条約締結前で訪中が難しかった時代に3度現地を取材し、鑑真の故郷である中国揚州市を「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」、6度目の渡来成功前に1年間留まった水墨画の世界・桂林を「桂林月宵(けいりんげっしょう)」、祖国中国を代表する景勝地・黄山を「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」として、中国的な墨絵にまとめた。

唐招提寺御影堂障壁画のうち、《山雲》(部分)    1975年、東山魁夷、唐招提寺蔵

唐招提寺御影堂障壁画のうち、《濤声》(部分)    1975年、東山魁夷、唐招提寺蔵

障壁画制作を通じて東山にもたらされた新しいモチーフが代表作の一つ「緑響く」にみられる白馬のいる風景だった。東山は障壁画を構想中の72年にだけ白馬を描いており、後に「自らの祈りの現れであろう」と語ったという。なお今回展示される「緑響く」は原作が所在不明となったことから10年後に再制作された作品である。

会期:京都8月29日~10月8日(京都国立近代美術館=京都市)、東京10月24日~12月3日(国立新美術館=東京都港区)。

東山魁夷(ひがしやま・かいい、1908~99年)

東山魁夷ポートレート(1984年・75歳)  撮影:日本経済新聞社

1908年横浜市生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画を学ぶ。ドイツ留学などを経て西欧的な感覚も身に着けたが第二次世界大戦に召集され中断。戦後47年に代表作「残照」で日展の金賞を受賞後、東宮御所や皇居新宮殿の壁画を手掛け近代日本を代表する風景画家の一人となる。その後中国に現地取材しながら10年がかりで唐招提寺の障壁画68面を完成させた。フェルメールやピカソと同様に「青」を好んだ画家として知られ、同じ色にこだわる欧州の陶器メーカー、ロイヤルコペンハーゲンが彼の代表作の陶版画を制作したことも。「自然と真摯(しんし)に向き合い、思索を重ねながらつくりあげたその芸術世界は、日本人の自然観や心情までも反映した普遍性を有する」(「生誕110年東山魁夷展」資料)と評価されている。文章家でもあり画文集など著作が多い。

唐招提寺(とうしょうだいじ)

奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の南都六宗(なんとりくしゅう)の一つ律宗の総本山。遣唐使の時代、中国における高僧の地位を投げ打って渡来した鑑真が759年、戒律を学ぶ者たちの修行の場として奈良市五条町に開いた。日本の朝廷からの招きを受けた鑑真は船の難破などで5度日本海を渡り切ることができず、6度目にしてようやく日本にたどり着き仏教普及の礎を作った。御影堂に祭られている鑑真像は日本最古の肖像彫刻として国宝指定されている。

文=編集部 画像=「生誕110年 東山魁夷展」提供

バナー画像:「生誕110年 東山魁夷展」ポスター (左から京都展、東京展)

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