日独関係150周年とフンボルト

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プロイセン―ドイツの学者のアレクサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)は、世界・宇宙の全体像を解明しようと、すべての生体を分類化し、体系的な科学方法を導入した大著『コスモス』(宇宙)を残した。このため、フンボルトは近代科学の祖の一人として有名である。ドイツでは、現在でもアレクサンダー・フォン・フンボルト財団が国際的な科学交流促進に努めている。

筆者がセバスティアン・ドブソンと共編した『プロイセン―ドイツが観た幕末日本』(日・独・英)。

フンボルトは探検家として、北米、南米、そしてアジアを旅し、1829年にモンゴルのエルティシ河畔に到着した。彼がもっとも日本に接近したときであった。(※1)フンボルトは生涯、日本に来ることはなかったが、ヨーロッパ人の“日本発見”に、彼の科学的遺産が大いに影響を与えたことが最近明らかにされた(『プロイセン―ドイツが観た幕末日本:オイレンブルク遠征団が残した版画、素描、写真』を参照)。

2011年は、日本ドイツ関係の150周年であった。1859年に、プロイセンのダンツィヒ港(現ポーランド・グダンスク)からプロイセン海軍の4艦 が東アジアへ向かって出航した。このプロイセン海軍の軍艦―要するに、ドイツ版の黒船―に、清国、日本、シャム宮廷へ向けて、全権特派公使としてプロイセンの高官のフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯が乗り込んだ。彼の率いる使節団は1860年9月に江戸湾についた。

オイレンブルグ使節団と日本

この使節団がなぜ日独関係の始まりとして理解されているのか。この軍艦にはプロイセン以外のドイツ諸邦の代表も乗っており、全権大使のオイレンブルグ伯はプロイセンのみならず、30のドイツ諸邦との間にも修好通商条約を求めた。しかし、それはかなわず、日本(当時の徳川幕府)とプロイセンの2国間の条約だけが調印された(日普修好通商条約)。やがてこの条約はのちのドイツ帝国(1871年建国)と日本の修好通商条約の基本となり、ドイツとの正式な交流の出発点となった。

このオイレンブルグ使節団は、まず条約締結の要求のため、軍事力を持って日本にやってきたが、当時の優れたドイツ科学の権威を世界に訴える目的もその派遣の背景にあった。実は、当時のプロイセン海軍は弱体で、東アジアまでの危険な遠征に適切な船が少なく、4艦を派遣することでさえ無理があった。そのため、4艦のうちの一つフラウエンロープ号は、1860年9月2日の夜、日本近海において遭難し、全乗員がその犠牲になっている。軍事的にはまったくの失敗に終わり、プロイセンはやはり海軍国でないことが明らかになった。

フンボルトの思想・影響力が日本学術調査に深く浸透

一方、学術的な側面では、オイレンブルグ使節団は大いに成功したといえるだろう。これは、日本との交渉が長引いたおかげでもある。当時の攘夷ムードのなかで、幕府は30のドイツの諸邦はもとより、プロイセンとの新しい条約を結ぶことを拒み、強固に条約調印に反対した。条約交渉が長引いた間、地理学者、生物学者、人類文化学者、写真家などが日本を調査し、1000枚以上の写真を撮り、海藻などを採取し、民芸品を収集し、そしてドイツ帰国後に膨大な報告資料を作成した。(現在、一部google booksで閲覧可(※2)。)

このオイレンブルグ使節団として日本にやってきた学者の多くは、フンボルトに深く関係しており、フンボルトの弟子か、彼の推薦を受けて王室によって任命された者、それともフンボルト的な科学方法を実践する者がほとんどであった。フンボルトは、遠征団出発の直前の1859年に世を去ってしまったが、彼の思想•影響力は没後も残り、オイレンブルク使節団の学術調査に深く浸透し、初期日独学術交流に大きな影響を与えた。(2012年3月1日記)

(※1) ^ 彼はそこで中国の官僚清福と出会い、この清福がフンボルトに4巻からなる中国の古典文学作品を贈った。フンボルトの兄ヴィルヘルムが中国語を読めると知った清福は、この書物に自ら一筆を添えていたようである。ヴィルヘルムは言語学者であり、プロシアの教育大臣という職を務め、プロシアの教育制度を改革し、ドイツの近代教育の磯をつくったことで有名である。

(※2) ^ 報告書の第一巻;生物学の部門の報告書の第一巻;日本のカタツムリを取り扱う報告書。さらに、使節団の一部の参加者の回想録も全文掲載されている。(http://books.google.co.jp/books?id=Q29BAAAAcAAJhttp://books.google.co.jp/books?id=36dFAAAAIAAJ

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