さらば選挙の女王——ファンタジーの終焉と朴槿恵の曲がり角

政治・外交

8年前に始まった「選挙の女王」物語

「大田(テジョン)は?」この一言で「選挙の女王」の即位物語は始まった。

2006年5月20日に韓国の統一地方選挙の支援遊説中に、カッターナイフ襲撃事件に遭遇し右耳下から顎にかけて傷を負い手術を受けた朴槿恵(パク・クネ)が、22日に病院に訪ねてきた自分の秘書室長ユ・ゾンボク(劉正福)に初めてかけて言葉だった。

当時、朴が代表をつとめていた野党ハンナラ党は、車のトランクに現金を詰め込んで運ぶといった大がかりな不正を行う政党、という悪評が広がり、国民の間では「チャテギ党(車運び党)」と指弾されていた。その汚れた政党が救われるために勝たなければならない象徴的選挙区が大田だったのである。その言葉を聞いた韓国国民、特に彼女の父、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領にノスタルジアを抱く中高年の保守派は「チャテギ党」に票を投じた。それで、ハンナラ党は大逆転ドラマの勝利を収めた。この選挙を契機に政治スキャンダルがなく、「異性を知らない」、清潔な54歳の女性朴槿恵は「選挙の女王」と呼ばれることとなった。

当時、朴は1998年の政界入りから国会議員5回当選というのが全ての経歴だった。官僚や地方行政の経験もなければ企業に勤めたこともなかった。社会人としては「素人」に近い朴が立て直した政党から、2007年には李明博(イ・ミョンバク)、そして2012年に朴自身が大統領と選ばれた。

修羅場の選挙戦を乗り切ったが……

2014年4月16日に起きた「セウォル号」沈没事件で韓国社会は、IMFに救済を仰ぐことになった1997年の金融危機より深刻な精神的混乱に陥った。「セウォル号」沈没事件を起点に韓国を前(before)と後(after)に分けて議論し始める傾向さえある。

その時点で、大統領の座についてから14ヵ月になりつつあった朴は、韓国社会のすべての自己反省と自己虐待を一身に負わされる羽目になった。「船の中で死んだ子供もあなたの子供でしょう」と叫ぶ遺族の勢いに押されて、大統領は涙を流しながら「公式謝罪」をした。そして、すでに予告されていた6月4日の第6回の統一地方選挙では朴が率いる与党の大敗が予想されていた。

しかし女王は死んでいなかった。ソウル特別市を含む17ヵ所の「広域自治団体」選挙では8対9で野党の新政治民主連合に負けたものの、226個の基礎自治団体長選挙では、117対80で勝利を収めた。

総じて見ると、「セウォル号プレミアム」を持って勝てたはずの野党は勝てなかったし、大敗を喫するはずのセヌリ党は保守層を対象とする「朴槿恵マーケティング」によって惨敗を免れたことになる。結局、朴大統領の「不通」(コミュニケーション不足)と専横を批判していた与党セヌリ党は、選挙になると女王に頼るしかなかったし、朴はその期待に応えた。特に興味深いのは、敗戦が危惧されていた仁川市長と釜山市長に「親朴」の代表的人物であるユ・ゾンボク(劉正福、2006年の襲撃事件の時の秘書室長)とソ・ビョンス(徐秉洙、朴大統領の西江大学後輩)が当選したことである。

北一輝ばりの「国家改造論」への意思

しかし「選挙の女王」というファンタジーは終わりつつある。選挙という祭りが終わり、朴の前にはあと44ヵ月の間に成し遂げなければならない課題が残っているからだ。自ら宣言した「国家改造」という「偉業」である。任期5年の公務員の一人である大統領が、船の沈没事故を機に「国家改造」を標榜する有様に違和感を覚える韓国人は案外少ない。

韓国の国柄なのか、「このままじゃいけない」という意識は人々の脳裏には根強い。日帝統治の時代に早稲田に留学した韓国の文豪イ・クァンス(李光洙, 日本名・香山光郞)は1922年、当時の月刊誌「開闢」に発表した「民族改造論」の中で、「朝鮮人皆の道徳的衰退」を痛烈に弾劾した。この「民族改造論」によって李は「親日派」の列に伍することになるが、彼が言ったことが新しい語彙でよみがえっているのが現状である。

日本では安倍晋三首相を語る際に「岸信介DNA論」を口にする人が多いが、それ以上の「政治遺伝学」が韓国で語られている。現職の朴大統領の父である朴正煕元大統領は李光洙と遠くない思想をもっていた。彼は1968年に「國民敎育憲章」を宣布した。当時中学生だった僕は、高校を卒業するまで毎朝生徒全員が運動場に集まり、「我々は民族重興の歴史的使命をもってこの地で生まれた。先祖の輝かしい魂を今日に生き返らせ、内には自主独立の姿勢を確立し、外には人類の共栄に供する時である」と始まる憲章を暗唱させられた記憶がある。僕より2歳上の朴槿恵大統領も中高校生の時代、それを毎日暗唱したにちがいない。

その朴大統領が「国家改造」を掲げるのは偶然ではないかもしれない。実際に4月29日の国務会議では、「過去から続いてきた誤った行態を正し、新しい大韓民国の枠を取り直す」と言いながら「内閣全体がすべてを原点から再び『国家改造』をやるという姿勢から根本的対策を用意するように」指示したわけである。朴大統領が北一輝の「日本改造法案大綱」を読んだ可能性は極めて低いが、彼が叫んだ「全日本国民は心を冷やかにして天の賞罰かくのごとく異なる所以の根本より考察して、いかに大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、挙国一人の非議なき国論を定め」云々と実によく似たトーンが鳴り響いている。

さらばセーラームーン、修羅場の女王へ

「セウォル号」運航会社の実質的オーナーで、宗教団体「救援派」のトップでもある、ユ・ビョンオンの逮捕を国務会議で促す一方、国家改造を命ずる朴大統領は、もう選挙の女王ではいられない。日本で流行った「美少女戦士セーラームーン」のような無機質的なまでに感じられる清潔でおどおどした女王ではなく、国民と一緒に汗をかく、政治の修羅場のなかに臨場する指導者に変身する時が来たのである。

6月10日に発表された国務総理と国家情報院長の候補者指名で、朴大統領の変身の兆しが見えてきた。特に大事なのは「妥協」という政治の茶番劇が初めて見えてきたことである。国務総理の候補にムン・チャングク(文昌克、66歳)を指名したことは新鮮なサプライズ人事である。誰も予想できなかった選択だったのだ。韓国の全国紙「中央日報」で35年間記者一本で歩んできた文氏は、朴大統領と親密な関係をもたない。いや、親密どころか、無縁でしかも朴槿恵の悪口も辞さなかった人物である。

2011年4月5日付の「中央日報」に当時主筆だった文氏は、「朴槿恵現象」というタイトルの評論記事を発表した。その中で、大統領にもなっていない朴氏への政権党内での権力の集中を「おかしいこと」と言い、次のように書いた。「垂れ幕の中にいる彼女に神秘感を覚えるせいなのか。自由人である今もあのようなのに、仮に権力の座につくとどうだろうか。誰が恐れ気もなくその垂れ幕を剥がして彼女の本当の姿を露呈することが出来るだろうか。民主主義は透明でなければならない。ありのままの姿を見せてから初めて国民は判断ができる。国民と代表になるためには、彼女が自ら垂れ幕から出なければならない」。韓国の言論界で「左顧右眄せずに直筆を振るう」という彼の評判を表す記事だった。こういう人を総理候補に指名した今度の人事はまさに朴大統領が「自ら垂れ幕から出た」という印象を与えた。

危機の帝王学

しかし、変身はそう簡単ではない。人の顔色を伺わない文氏の前の発言が韓国の左派および民族主義者たちの機嫌を損なうこととなった。「韓国人には怠けのDNAがある」とか「従軍慰安婦についてもう謝罪を求める必要はない」などの過去の発言の断片が巧妙に取り上げられ、指名撤回と「大統領の謝罪」を求める声さえ上がってきた。社会全体が熱病に苦しむなか、世代間の葛藤と理念的分裂がもう一幕演出される奇異な風景である。韓国の閣僚級人事聴聞会が奴隷の身体検査より厳しくて過酷なものなって久しい。そうなのにこれほどの事態を予想が出来なかった大統領府の仕事ぶりは朴政権の「不通政治」を改めて浮き彫りにしたかっこうだ。

今回の総理指名がなんらかの形で落ち着くと、朴大統領はつらい学習を経て視野が広げた指導者になれる可能性が高い。彼女には決断力のある性格と、常に存在した反乱の脅しの中で18年間に国を治めた父の肩の後ろで学んだ「危機の帝王学」があるからだ。

一方、国家情報院長の候補に現職駐日大使のイ・ビョンギ(李丙琪、67歳)を指名したことは、日韓関係の「不通」の打開にも希望を持たせる。外交官出身の政治家の中で「親朴系」と分類される李氏こそ、日韓関係の昨今の空洞化の弊害を誰より知っているはずだ。もし、朴大統領が国内政治の混乱に向いた国民の視線を外に向けて広げようと思ったら、「日本」は最良の素材になれる可能性がある。来年が日韓国交正常化の50周年であり、その稀な節目をうまく乗り越えるためには根回し作業が必要だろう。

世の中で起きたことを何から何まで手帳に書き込み、毎晩孤独の中でそれを繰り返して読み、日が明けると些細なことまで「万機親覧」する模範生少女型の政治から脱却し、遊びながら大胆に任せる度胸のある政治家への変身を国民は待ち望んでいる。その変身さえできれば、禍いを転じて福となす幸運に恵まれることになるかもしれない。5年の任期の2年目にこれだけの災いに苦しんだことで、就任4年目にやってくるといわれる韓国大統領制特有の「レームダック現象」から逃れる可能性もある。具象より抽象をもとめてきた「選挙の女王」は今回の危機でそれだけ猛烈なワクチンを打たれたのである。

カバー写真=2014年5月19日、国民向けに謝罪談話を行う朴韓国大統領(提供・Yonhap/アフロ)

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