アジアで負けない日本企業の条件

経済・ビジネス

アジア企業としての生き残りを迫られている日本企業

2013年6月から数回、アジア各国を回り、進出した日本企業を取材し、このたび一冊の本にまとめた(『負けない日本企業』講談社、2014年6月刊)。

実は、2006年から07年にかけても同じように執筆の取材で、アジア各国を回ったことがある。それからわずか7年ほどの間であるが、08年にリーマンショックが起きて、日本が経済的に落ち込み、一方で、今まで以上に中国の影響力がアジアの中で大きくなっていることを目の当たりにするなど、風景は一変していた。

06~07年ごろの日本企業のアジア戦略は、まだ片手間なところが見受けられた。日本国内でもまだ十分な収益が上がっていたので、「とりあえずアジアに出てみよう」という感じだった。しかし最近は、どのようなメディアを見てもアジアしか話題が出ていないという状況になっている。それで本当にそれでいいのだろうか。日本企業は、ブームがあると、いつも同じ方向を向きたがる。「アジアに行かないと日本企業は死んでしまうかもしれない。もう中国じゃない、東南アジアだ」と言い出しているが、本当にそうなのか。それを自分の目で見ておきたいというのが今回の問題意識だった。

そしてそこで見たのは、日本企業が日本企業として生き残るためにアジアに行くのか、アジアの中でアジアの企業として生き残るのか、その選択を迫られている姿だった。

日本だけを見ているわけではない

最初の取材先として選んだ国はマレーシアだった。ここにはマハティール元首相がいる。今回、彼に会って、現在のアジアの動きについて全体的な見通し聞きたいと思ったのである。そして、アジアの側から見て日本のあり様について何かヒントがあればと考えたのである。

マハティールには、クアラルンプールのペレナスタワーの最上階にある彼の事務所で、彼が作った街をバックにインタビューした。

マハティール・マレーシア元首相と著者(左)

かつて、マハティールは“look east”をスローガンとしていた。われわれ日本人はこれを「日本を見習いなさい」という意味に捉えていた。eastとは欧米に対する日本で、日本型の発展モデルを積極的に取り入れようとしていると考えていた。しかし、意外だったことに、今回、彼の口から出たのは「以前からeastの中には中国を入れていた」という言葉だった。

だから、いま彼は安倍政権が中国と角を突き合わせることには非常に批判的である。マレーシアはTPPでアメリカにシフトするよりは、アジアの中で生きていくために中国と喧嘩をしてはいけないと考えているという。自身が関係している経済団体などには、中国シフトをするように指導しているという。マレーシアの現政権はTTPに参加しようとしているが、マハティールは当然、これにも反対している。

注目すべきことはこれだけではない。マハティールは政権の座にあった時代から、東アジアとは反対側の中東地域も重視してきた。マレーシア自身も属しているイスラム圏への注目である。イスラム圏は宗教的な基準が生活の隅々にいきわたっているが、その基準であるハラルの認証担当省庁を作り、ハラルマーケットへの参入を目指しているのである。

イスラム圏への配慮を怠らない

イスラム圏の国ならハラルは当たり前なので、ビジネスにしようなどという発想はふつうありえない。しかし、マレーシアは多民族、多文化国家であることから、このような「自由な」発想があり得る。さらに、この国はマレー系は政治を担っているが、経済は中国系とインド系が抑えている。マレー系がビジネスの世界で生き残るのはハラルビジネスしかない、と考えたのである。

マレーシアは、中東のように欧米から距離を置かれた世界からアジアへのゲートウエイとして自らを位置付けていると思える。中国を見つつ、日本を見つつ、中東も見る。それが多民族国家のプラス面なんだろう。自分の立ち位置、地政学的な位置をよく認識して、生き抜いていこうとしているのである。この点、日本とは対照的だと思う。

リスクの高い過酷な国で弱い日本企業

もう一つ、アジアと日本との関係を考えるうえで注目の国であるミャンマーにも行ってきた。ミャンマーはいま、アジアの最後のフロンティアとして注目されているが、まだまだ、軍事政権と民主派やアメリカの軋轢をはじめ不安定要素を多く抱えている。しかし、日本は第二次世界大戦以来の深い関係を持っている。地政学的にも重要性がある。いろんな思惑があって今、安倍首相を先頭にミャンマーに進出しようとしている。しかし、ミャンマーは歴史的に見てもしたたかで政治的に非常に老練な国だ。

こういう国はリスクが高い。日本企業はこういう国に進出するとたいてい「NATO」、つまり“no action,talk only”になってしまう。首相がどれほど積極的になっても、日本企業自身がリスクをとるという選択をしないと、結局、進出はできないのである。

進出企業の現地スタッフには、「何で本社はリスクをとってくれないのか」という不満があふれている。現地にいる人々にとっては腹立たしいことだろうが、取れる案件をいくつも逃している。日本の新聞を読むと、ミャンマーで成功しているというような記事ばかり出ているが、決してそうではないのである。

インドでも同じ話をよく聞いたが、過酷な国になればなるほど日本企業はダメ、みんなサラリーマンで根性がない、会社も失敗したらどうするのか、ということばかり気にして、結局、判断が遅い。「インフラが整わないと」という言い訳がよく出るが、インフラが整ったら誰でも進出できる。条件が整ったら欧米企業がやってきて、あっという間にシェアをとっていく。日本企業は、いつも、このパターンでやられているのである。

“remain here”——こうしてパナソニックはマレーシアで成功した

もちろん、アジアに進出し大成功している例はいくつもある。それらの企業に共通して言えることは、誰もが出て行ける条件が整う前から、つまりリスクがある段階から進出し、根付いていることである。そうなれば後から何がやってこようと全く動じない。代表的な例をいくつか紹介していこう。

最初は、マレーシアのパナソニックである。1960年代に進出し、マレーシア経済の牽引車となっている電子・電器産業の中心的存在であり、パナソニックグループの海外部門でも大きな存在である。マレーシア国内市場のシェアが高いだけでなく、グループの中でも重要な開発・製造拠点となっている。

関連会社のマレー人の社長がその成功の理由として挙げたのが“remain here”。これはマハティールも日本企業の美点として挙げたことだが、ほかの欧米諸国の企業は、いったんは進出しても儲けたら出て行ってしまう。通貨危機などあったときには、みんな逃げてしまう。そしてそこには残骸だけが残る。しかし日本企業は進出を決めるときはグズグズしているが、いったん進出してしまうと、今度はなかなか撤退の命令を出さない。これは、戦争の時には負けパターンだ。

ただ、簡単には撤退しない。マレーシアの経済変動、日本からの無関心があっても、パナソニックは1960年代からずっとそこに居続けている。その間に人材が育ってきて、新たな発展の芽が出た。例えば、インド系の技術者が多く育っているが、彼らをインドに派遣して、現地の需要を取り込んだ製品開発を行い、エアコンのシェアをゼロから15%まで伸ばしたという。

日本ではパナソニックは、販売チャネルを専門販売店であるパナショップ(旧ナショナルショップ)から量販店に大きくシフトし、かつて80%以上だったパナショップのシェアは今や30%以下になっているという。しかし、マレーシアにはパナショップが健在である。店主が代々子供に引き継いで土着しているのである。そして、すべての店に松下幸之助の「共存共栄」の色紙が貼ってある。幸之助の言葉を社訓に取り入れているショップもいくつもある。

マレーシアのパナショップの店主は「自分たちのお客さんへの丁寧な接し方、修理などは量販店とは全然違う。確かに脅威だけど。少しぐらい高くてもメンテナンスがちゃんとしていればちゃんと買ってくれる。リピーターが来てくれる」と話している。マレーシアではパナショップは1979年から展開をはじめ、現在150店舗もある。これがパナソニック・マレーシアの財産だと現地では考えている。

インドネシアに根付く住友林業、ヤクルト

現地に根を下ろしたということでは、インドネシアの住友林業を挙げたい。戦前からバリ島の近くの小さな町で、南洋材のチーク材を切り出して日本へ輸出してきた。伐採した後、植林をするのだが、苗木を育て、現地の人にそれを渡し成木となったところで切り出して、また会社が買い上げる。その収入で村は豊かになる。その収益でメッカに巡礼に出ている。社会貢献の植林になっている。現地社員は、何代も続いており、社員出身の人物が市長になったりしている。地元でもとっても尊敬されている会社になっている。こういう生き方は、日本企業らしいと思う。

同じくインドネシアでヤクルトは、日本国内と同じくヤクルトレディ(ヤクルトおばさん)を使い、訪問販売をしている。女性たちには、いい収入になっているという。ヤクルトレディたちの話では、「おかげで子供を大学に進学させることができた」「オートバイを買えた」という。そういう人がいっぱいいる。地元の人たちの収入になるような仕組みを考えたおかげで、きめ細やかな訪問販売が軌道に乗り、認知度、浸透度が高まり、スーパーに卸すだけの欧米系の飲料メーカーに比べ、売り上げもすごく安定するという。

ベトナム現地化で成功したエースコック

現地化という意味で最も成功した例としては、インスタントラーメンのエースコックのベトナム進出がある。エースコックは、日本国内ではシェアをとれずに苦戦しているが、1993年にベトナムに出て、日本の商品をそのまま作って売るのではなく、ベトナム風の味付けに徹した商品開発を行い、「hao hao」のブランドでいまや国内最大のラーメンメーカーになっている。しかも東欧やアメリカで成功したベトナム商人の「ベト僑」を通じて世界ブランドにしようとしている。いまや日本での売り上げより海外売り上げの方が大きくなっている。やはり日本で苦戦して、外にマーケットを見つけ、ここで頑張って生きて行こうという決意がある企業は強い。そして、インスタントラーメンという大衆商品で勝負したことも成功に寄与していると思う。

日本製品は、値段がリーゾナブルで品質が高いことが、世界で売れた理由だった。最高級品はいまだに欧米のブランドである。そのあたりをきっちり抑えておかなければならなかったのに、近年、日本企業はやたらに高付加価値に走った。アジアは富裕層が増えているというが、富裕層狙いの日本企業でそんなに成功しているところがあるとは思えない。

インドネシアに進出したフマキラーの例だが、最初、業績は低迷していたという。しかし、現在の社長が赴任して、ユーザー調査をしたところ、南方で蚊が多いため蚊取り線香の需要は旺盛だが、日本では当たり前の30本、50本と入った1パックの値段が高すぎて一般庶民には手が出ないという。そこで、1本ずつばら売りにしたところ売り上げが一気に伸び、現地のトップメーカを上回った。その後、パッケージ売りを増やしていったという。まず、ボリュームゾーンをしっかり抑え、その後、少しずつ高価格帯へ広げていくというやり方だ。

よく、アジアの富裕層、中間層を狙えというが、たいていの国は、少数の本当のお金持ちか、圧倒的多数の低所得層しかいない社会だ。現地の実情に合わせ、ボリュームゾーン向けに成功した企業が、成功しているといっていい。

日本企業が忘れていたこと

「日本で伸びない、中国でも厳しい、だから東南アジア」というけど、東南アジアに出たらそれだけで成功するわけではないのである。結局、地道に努力するしかないわけだ。ただ、面白いことに、中国や韓国の企業は、どちらかというと欧米流で、がつっと儲けて、さっと去っていくが、それに比べると日本企業の方は、いまだに大企業でも中小企業のように地道である。

江上剛氏の新著『負けない日本企業』講談社刊

かつて経済成長期に日本企業が伸びたのは、物不足で、何でもいいから作れば成功したからというわけではない。その中で今日生き残っている企業というのは、松下幸之助だけではなく、顧客の声を聴いたり、ニーズに合わせたり、メンテナンス・サービスをしたり、売りっぱなし作りっぱなしじゃない仕事をやってきている。

日本企業がかつて得意としていた、きめ細やかな顧客サービスというのは、コストがかかりすぎるということで、近年、どんどん切り捨てられていた。が、もしかしたら、これこそが利益の源泉だったのかもしれない。切り捨てたあたりから、日本企業の不調が始まったのかもしれない。今回、アジアに進出した企業を回ってみて、このことをつくづく思った。

カバー写真=インドネシアのヤクルトレディたちと著者(前列中央)

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