「テロ」の背後にある欧米とイスラム社会、双方の“偽善”

政治・外交

言論の自由とは何か?

再び「9.11事件」の悪夢が蘇ってきた。しかし、今回は米国でではなく、世界の花の都“パリ”だった。1か月前にフランスで起きた週刊紙「シャルリー・エブド」の襲撃事件の痛ましいニュースを耳にした瞬間、2001年の米同時多発テロ9.11事件が脳裏をよぎった。「我々の味方か、それともテロリストの味方か」―当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領のバカバカしい発言を思い出す。仏大手新聞社「ル・モンド」は、アメリカ国民に対するフランスの連帯感を示そうと、「私たちは皆アメリカ人」というキャンペーンを繰り広げた。

はじめに断っておくが、いかなる理由によるものであれ、フランスの襲撃事件は断じて許されるものではない。政治的な目的を暴力によって達成しようとする最悪で卑劣な行為である。

しかし、本当にあの事件は、世界や西欧のいう「言論の自由」を犯すものだったのか。だとすれば、他文化や他民族が大切にする思想や信条などを傷つける、この「言論の自由」について我々は考えるべきだと思う。

「イスラム=テロ」というレベルの低い構図

侮辱・冒涜・差別・憎悪・・・「表現の自由」などという美しい言葉で飾られるものではないと思う。世界の20%を超える人がイスラム教徒であるとされている。普遍的に尊敬されている思想を軽く扱われたら傷つく人がいるのは想像するに難くないだろう。表現の自由の問題ではなく、背景にはヨーロッパに蔓延している人種差別や白人優位の超越感という古くいびつな考え方があるのではないかと感じている。

今回の仏新聞社襲撃事件をめぐる議論では、西洋とアラブ・イスラム世界との長い対立構造とその歴史が語られることが多い。こうした短絡的な結論に飛びついてしまう人がいる。私の胸の内を明かすと、「イスラム=テロ」というレベルの低い議論にはうんざりといった心境だ。

西洋対東洋、イスラム対キリストまたはユダヤといった都合の良い解釈や短絡的な結論ではなく、足元にある実際の生活の背景、具体的な利害関係に向き合わなければならないのではないか。「イスラム=テロ」という短絡的な考えに陥るのは、底流にあるラジカル(極端で過激的信条)な思想が最大の原因だといえる。

ヨーロッパにおけるラジカルな思想の台頭

今回の事件は極めてヨーロッパのローカルな次元の問題として見るべきだと思う。近年、フランスのイスラム教徒の人口は急速に、しかも圧倒的に増え、現在、その数はヨーロッパ最多の約500万人と推定されている。それに対する不安が反イスラム感情や移民排斥傾向をもつ極右政党国民戦線への支持を増やしている。そこにEU統合の深化がもたらす社会解体の圧力もあり、フランス的価値を掲げる反EUの国民戦線にはますます支持が集まる。実際に国民戦線は欧州議会選挙で、仏国内最多の票を獲得して、3議席から一気に24議席にまで伸ばし、ついに仏国内における第1党になった。

こうして見ると、平和と民主主義を理念に掲げ、統合を進めてきたEU、とりわけフランスの排他的でラジカルな思想の傾向の拡大とその悪影響をうかがい知ることができる。そして、これはフランスに限った話ではない。スウェーデンやデンマークなどのほかのヨーロッパ諸国にも広がっている。人権尊重を国や文明の理念に掲げてきたフランスだけに、『反移民』を掲げる政党が欧州議会選挙で第1党になったことは、いかにヨーロッパにラジカル思想的傾向が拡大しているかを示している。

ある意味で、これは「一級」、「二級」といったように国民を差別化し、分断する民主主義の不全と副作用だと言っていいだろう。フランスをはじめ、ヨーロッパ諸国の多くに蔓延する反イスラム感情や移民系国民への差別化を産み出した問題でもある。

イラク攻撃が生んだ「イスラム国」

テロはどうして起きるのか。テロの最大の動機は「社会に対する不満」だとされている。自分が生まれた環境や社会、帰属する文化や考え方などに対する“憤慨”の結果だと分析されることが多い。そして、今の世界の状況を見ると不満の元は一つだといえよう。

そのためにも地政学的視点からも、この事件を考えていく必要がある。アラブ地域で起きている戦闘や空爆、政治動乱や混沌状況と、今回の事件や他のヨーロッパで起きているテロ、暴力行為は全く関係のない別々のものではない。問題の根は深く連なっている。

しかし、私たちからすると、過激派組織を作らせる動機と大義を与えたのは誰だろう? 決して欧米メディアが伝えているようにアラブやイスラムの過激派思想によるものではない。「イラク攻撃」がなければ、「イスラム国」はなかったのだ。アルカーイダもそうだ。ソ連のアフガニスタン侵攻や攻撃がなかったら、きっとアルカーイダも出現しなかったに違いない。というのも出現する意味そのものがなかったからだと思う。 

風刺画に利益があるのか

預言者ムハンマドはイスラム教徒にとってどういう存在か、なぜそこまでイスラム教徒が風刺画に対して怒りを覚えるのか疑問に思う人がいる。預言者ムハンマドはイスラム教徒にとって大切な存在なのである。

大切にしたい存在を新聞に掲載されて侮辱されたら、どう思うだろうか。執拗に繰り返されたらどう思うのだろうか。不快に思いながらも無視する人がいれば、過激に怒る人もいるだろう。怒る人がいることを知りながらなぜ刺激するような内容の風刺画を掲載するのだろう。納得できるような理由を教えてもらいたい。あの風刺画を掲載することで誰に、どのような利益があるのか。

今年は、日本に来てから20年目になる。この20年を振り返ってみると、世界や日本においてイスラムに対する理解はまったく進んでいないとは言えないが、クローズアップされるニュースが偏っているために理解がゆがんでいる面も否定できない。そして、イスラム世界にもまたヨーロッパなどの欧米社会にもラジカルで排他的な思想が勢いを増しているように見受けられる。そのラジカルな思想の根源は、ダブルスタンダードによる偽善行為が溢れている私たちの日常生活にある。

パリの抵抗デモにみる偽善

その一例が、シャルリー・エブド襲撃事件に対して世界の指導者達の団結と連帯を示すために行われたパリでの抗議デモである。正確な表現を使えば、これは限りなく「ショー」に近いものだった。世界の指導者40人が一堂に集まること自体は歴史的舞台となったと思う。

だが、「言論の自由」のために集まった大統領や指導者たちのほとんどは、言論の自由を犯した経験のある人たちばかりだったのではないか。皮肉なことに、ジャーナリストの不当逮捕や言論統制の法律など普段から何のためらいもなく「言論の自由」を踏みにじっている指導者たちはシャルリー・エブドのために泣いた!

シャルリー・エブド事件とその被害者のために泣いた世界。その同じ世界が、空爆が三ヶ月も続いたパレスチナのガザや、独裁政権が4年も弾圧や殺害を続けるシリアとその国民、イラク、ミャンマー(イスラム教徒弾圧)、イエメン、などなどの混沌した状態を見て見ぬ振りをして、そして、誰も泣かなかった。今の国際社会は偽善で溢れている。ヨーロッパの言う人権、平等、自由なども偽善にすぎない。

イスラムの理念を見失うな

一方、イスラム社会も同じように偽善で溢れている。アラブ諸国政府や国民の多くは言うこととやることがまったく矛盾するものばかりだ。イスラムは平和な宗教のはずである。しかし、イスラム教徒である私たちの生活はまったく平和とは無縁な状況にある。

相手の考えを尊重し、共存共栄することや、異教徒を受け入れること、また相手に嫌なことをされても寛大な心をもってそれを赦すことこそ、イスラムの最も大切にしている理念であるにもかかわらず、我々の社会は攻撃や暴力に訴える人で溢れている。

何を信じて良いのか、もはやすべてが偽善にしか見えないのが今の実情である。結局、欧米も、またイスラムの現代社会も、共存の壁にぶつかるたびに、都合の良い解釈を重ね、ダブルスタンダードによる差別や排他行為を繰り返しているだけだ。

カバー写真=(右)仏紙襲撃テロ事件に対する大規模追悼デモ=パリのレピュブリック広場にて、2015年1月11日。(AP/Aflo)
(左)仏紙ムハンマド風刺画掲載に抗議のデモ=パキスタンのラホールにて、2015年1月25日。(REUTERS/Aflo)

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