或るアメリカ人の伝記における四十七浪人とヒロシマの悲劇

政治・外交

米作家のジョージ・ヴィレックと日本

東京の私の家の窓からは、世界中で知られるようになった、赤穂浪士四十七士(※1)が埋葬されている泉岳寺(港区高輪)が見える。この私の家には、アメリカの作家、詩人、ジャーナリストであるジョージ・シレベスター・ヴィレック(George Sylvester Viereck; 1884-1962)の生涯や作品に関する書籍や写真、様々な資料多数が保管されている。それは、主に、私が十年来、調査を続けてきた彼の伝記に関わるもので、ヴィレックの生涯についての作品「ジョージ・ヴィレック:一つ以上の人生」(ロシア語)が近くモスクワで出版される。

ワシーリー・モロジャコフ著 「ジョージ・ヴィレック 一つ以上の人生」表紙

この稀に見る人物の、様々な出来事で満ち溢れた人生を簡潔に言い表すのは非常に難しい。このコラムでは、彼の人生から幾つかのエピソードを紹介するに留めることとする。

日本学者としての私を良く知る人達から「ヴィレックは日本と何かで関係しているのですか?」と聞かれたが、私は即座に「いいえ」と返答した。しかし、その後、「本当に彼は日本と何の関係もないのだろうか?! いや、関係があるよ!」とひらめいたのである。

小山内薫が翻訳、上演されたヴィレック戯曲

ドイツで生まれ、11歳の時、両親と共にアメリカに移住したヴィレックは、ドイツ語で書いた詩で文壇にデビュー、その後、英語での執筆にシフトする。彼が英語で書いた最初の本は小戯曲「愛の中でのゲーム(A Game at Love)」であり、この作品は当時のヨーロッパで人気であった「読むためだけの戯曲」であった。しかし、1913年、ヴィレックは、シアトル在住のゴソ・ナイトという人物から、戯曲の一つが1年前に東京で舞台化されたということを知らせる手紙を受け取る。

「愛の中でのゲーム」は、ヨーロッパ流の近代劇を目指す新劇運動に尽力し、日本の演劇の革新において重要な足跡を刻んだ劇作家、演出家で、ヨーロッパの戯曲の翻訳家であった小山内薫の目に留まった。小山内は、その中から、「一瞬間の心持(The Mood of a Moment)」を翻訳した。「一瞬間の心持」は、

小山内薫「続 近代劇五曲」1921年

ニーチェのいうところの“金髪の野獣”のような存在であるアルバアトが、「沢山、本を読んで少し物を食べた(※2)」というマリオンという娘に、様々な話をして楽しませ、誘惑する。そして最後に「女がわたしを愛し始めた瞬間に、女はわたしにとって詰まらないものになるのです」とマリオンを突き放す。

1912年3月、劇団「土曜劇場」は、日本初の全席椅子席の洋風劇場である東京の「有楽座」で、「一瞬間の心持」の公演で演劇界にデビューした。この舞台は一か月の間、毎週土曜日に公演された。マリオン役は、新劇運動での小山内薫の同志であった稲富寛が務めた。稲富寛は、女形としてこの役を演じたのであった。

小山内は、1921年に「一瞬間の心持」の翻訳が収められた選集「近代劇五曲 続」を出版、この戯曲を「今から見ると可なり気障なものだが、十五年以前の近代思想的過程としては、かういふ作も許せるかと思ふ」(今の感覚だと、この戯曲はかなり大げさなものだが、15年前は近代的な思想の一つの過程として、このような作品も許されたのではないかと思う)と評した。選集には、ヴィレックのこの作品と共に、アンドレーエフの『星の世界へ』、ダンヌンチオ『春曙夢』等が収められている。

広島・長崎の原爆投下への詩「破産者」

ヴィレックが「一瞬間の心持」の東京公演について知った1913年、「日本に対抗する歌(Song against Japan)」という詩をカリフォルニア州知事のハイラム・ジョンソンに捧げた。その背景にあったのは、個人的な不快感ではなく、政治的な打算であった。ジョンソンはヴィレックの同志だったが、ジョンソンはカリフォルニアの日系移民に対し厳しい政策を行っていた。「彼らの黄色い世界」と「白人の砦」を対比した「歌」は、詩として優れているとはいえない。しかし「我々には一つの運命があり、彼らには浪人47士がいる」という一説には思わず微笑んでしまう。もしヴィレックが、その手稿が今どこにあるか、彼の伝記の書き手が住んでいる場所を知ったとしたら、とても驚いたことだろう。

それから40年後、ヴィレックは、日本に関連するもう一つの詩「破産者」を書いた。広島と長崎への原爆投下後、イエス・キリストが“最後の審判”の場を訪れ、自らを破産者と認めるように依頼する。

破産者

―アルバート・アインシュタインに捧ぐ―
ジョージ・シルベスター・ヴィアレック

I

いくさ神は ひどく陽気に
うちのめされた地上をのっしのっしと闊歩し
科学は サタンのしつような誘いで
反キリスト者の花嫁になった
地獄の濛気で生まれたので分離したアトムは
陸から海から上を下へかきまぜた
不機嫌な空を背にうけてムクムクと
身の毛もよだつ虹がすっかり歪んで
沈んでゆく天体の崩壊するさなかで
人類が新しく発見した地獄との契約を宜した
虐殺された犠牲者の数えがたい墓からは
放射能の凶悪な命運が現われ
毒にまみれた芝生の上に はっきり
人類と神との亀裂の刻印

青ざめはてた広島の 無に帰した原野には
斬殺屍体からただよう悪臭
母の乳房を吸う嬰児(えいじ)は
安らう馬槽を探したがどこにも見出せず
かつて聖子に遁(のが)れる場所
を与えたエジプトから(*1)は何の招きもなかった
山岳を震かんさせた悪魔は
世界の人類を足下に踏みにじり
病める流れは 恐れにおののいて
無数の溺死体を吐き出した
いかなる聖餐式(せいさんしき)も いかなる聖なる香油も
陸や海の悪臭を拭いえなかったし
地上の子らを その命運から救いえず
「永遠の憎悪」の汐に呑みこんでしまった
しかし東方の賢者 西方の賢者らは
悪魔的な追求をおさえることもならず
地獄の溶鉱炉で原爆をつくり
人類の棲家(すみか)を 地球から爆破してしまった

II

正面の石門をひそかに通りすぎた
一人の訪問客のうなだれたものごし
いたむ両肩(もろかた)にせおっているのは
眼にこそ見えぬが重い荷物
「もの聞きますが」とたずねるも案じ顔
「もしや破産管理局ではありますまいか」
けわしい段をたぐって登り 高い円柱の間を通って
ようやくついた審判廷
ひややかに それがいつものテではあるが
きびしい判官 高座から彼を眺めて
「所定正規の申し立手続きは終わったのか
また追加の訴訟手続きはすませたのか」
見慣れぬ人は恥らって頭をかがめ
「人々は 私の名で存分に富を蓄えました
だのに扉から一歩も入れてはくれません
私には 昔のような避難の場所がなく
私には 枕するところもいまありません
彼等は 私の美酒をこぼしパンを腐らせ
私のものを遠慮えしゃくなく浪費して
主よ と呼ぶ私にせせら笑い」
「世つぎの家庭はないのか
証券も土地も資産も皆目ないのか」
「戦争で かつては聖父の住居を支えた
あの敷石までもいまははぎとられました
私の靴は裂け 上衣は破れ 資産は分散
すっかり破産していまは力もつきました」
役人はつっけんどんに蛇の声で
「破産者 とここに署名するがよい」

見知らぬ人は手をあげた だが誰一人
むかしの傷 聖痕を見なかった
また茨の冠をつけていた烙印
の下のもつれた髪を誰も見なかった
あおざめた頬に血と涙がふりおちると彼は
また口をきったが誰も聞くものはいなかった

「ダチオの陣営(*2)では 半狂乱の兵士らが
私を十字架に またもつけたのです
クレムリンの不気味な標語が
二度目の詩に 私を引きわたした
その間 かつての聖なる塔からは
サタンの旗がなびき
いまや賢者の奸(よこしま)な背徳で
私の忍耐は終り 蘇りはもうない
諸国民は苦難と堕落にもがくとも
私は地上に再び来ることはない(*3)
私の星はうすれたので 仏陀(ぶっだ)に
私のなしえなかった仕事をさせよう
人々は 最も致命的な果実を
禁断の木からもぎとってしまった。
その根に『毒』がつき 私の仕事は中止 ―

勝負は決まった そしてサタンは勝った」

彼は四つの文字をペンで記した(*4)
けれども 再び判官が見上げた時
かの見知らぬ訪問者のいた場所に
十字架の亡霊が かわって現われた
亡霊は よごれた床の上にゆらめき
それから消えて まったく見えなくなった
むとんちゃくに それでも少々立腹してか
眠そうな顔の法廷書記は大声で「お次ぎ」
とわめいた

(大原三八雄 訳)
「中国新聞」1956年7月

(「破産者」について)

(訳者 大原三八雄による注)

この詩は世界大戦が十字架上のキリストを苦しめたことを示している。続いて原爆水爆等核兵器の発見が、人類を自殺に導くに等しいものであることを比喩的に現わし、この作者があくまでも神の側人間性の側に存在していることを示している。詩を通覧して理解出来ることは、作者の意図している「破産者」はキリスト自体ではなくて、実は欧米の文明自体であることを批判しているといえよう。

(*1) エジプトからは・・・・ (注:訳者 大原三八雄) イエスが生誕直後にユダヤの国ヘロデ王の難をさけてエジプトにのがれたことをさす。(新約聖書マタイ伝二の十三―二三参照)

(*2) ダチオの陣営 (注:訳者 大原三八雄) ヒットラーが第二次世界大戦中に大虐殺を行った洗浄

(*3) 私は地上に再び来ることはない(注:訳者 大原三八雄) キリストの再臨(ヨハネ黙示録には随所にこの思想が現われている)。

(*4) 彼は四つの文字をペンで記した (注:訳者 大原三八雄) ユダヤ人やローマ人は十字架に「ユダヤの王イエス」という四つの文字を記したが、それを逆にイエスに書かせている。

しっかり和訳され、今も平和祈念資料館に所蔵

ヴィレックは「この詩は多くの言語に翻訳されたが、今まで、誰もこの詩を決して公開しようとはしなかった。」と、詩の出版に際して前書きにこう記している。しかし、ヴィレックは間違っている。「誰も広めようとしなかった」訳ではない。

広島女子短大の大原三八雄教授が、1956年7月に「破産者」を翻訳。詩の和訳は、文中の寓話的な表現の解説とともに、中国新聞に掲載された。その後、大原は、この詩を『世界原爆詩集』(大原三八雄 編)に加えた。この詩集は、その後、版を重ねることになる。

『世界原爆詩集』(大原三八雄 編)

ヴィレックは、広島逓信病院長、蜂谷道彦の「広島日記」を英訳で読み、「破産者」の前書きで非常に高く評価している。1955 年9月23日、蜂谷はヴィレックに手紙を送り、「破産者」の英文単行本と「破産者」の和訳を原爆博物館(現在の広島平和記念資料館)に寄贈したと伝えている。しかし、平和祈念館の記録では、寄贈されたのは1956年7月21日となっている(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26302)。蜂谷から日本語訳を受け取ったヴィレックは、それをスタンフォード大学図書館に寄贈した。現在も、「破産者」の和訳は、同図書館に所蔵されている(http://searchworks.stanford.edu/view/8628652)。

ヴィレックの手稿を再び手に取り、彼の書籍を読み返してから、窓の外の四十七士の墓に目をやった。もう、これからは、どんなことが起こったとしても、驚いたりしないだろう。

バナー写真:(左)小山内薫の訪ソにより、1928年、史上初の歌舞伎ソ連公演が開催。セルゲイ・エイゼンシュテインと「忠臣蔵」主役に扮した二代目市川左團次(左)。第二次大戦後、「忠臣蔵」はGHQにより軍国主義につながるものとして上演禁止となる。出所:『芸術新潮』平成十一年五月号

(右)東京 港区泉岳寺の四十七士の墓

(※1) ^ 赤穂浪士とも呼ばれる。江戸時代中期、主君の浅野内匠頭の遺恨を晴らすべく大石内蔵助以下47人が、吉良を討ち、浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供え、幕府の命に従って全員切腹。事件を題材にした物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作、ハリウッド映画(2013年)など様々な分野で作られてきた。

(※2) ^ 小山内薫訳 『近代劇五曲 続』 国文堂書店、1921年

原爆