露日協約100周年

政治・外交

百年一昔 露日戦争の後

ロシア語で「100年」という言葉は魔法のような力をもっている。「100歳まで生きたい」というのは、「永遠の生命を得たい」というのと同じことのように受け止められている。日本とは違い、ロシアでは100歳まで生きることができる人はごくわずかであることも、その一因であるのかもしれない。

100周年というのは最も重みのある節目ではないだろうか。人は、出来事そのものがそんなに重要ではなくても、ちょうど100年前に起こったことであれば関心を持つものである。それに、露日協約(第4次)(※1)の締結のことを「重要ではない」ということは誰にもできないであろう。

1916年(大正5年)7月3日、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)で、ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ、駐ロシア日本大使・本野一郎が協約に調印、大日本帝国とロシア帝国は軍事・政治同盟を結んだ。露日関係史の中でも両国の関係が最も密接となった瞬間だった。しかし、翌1917年に勃発したロシア革命によって露日同盟は効力を失い、大きな可能性を含んでいたロシアと日本の2国間協力は闇に葬られてしまった。残念極まりないことだ。しかし、歴史に「もしも」はない。今になって、一体、どれだけ可能性がを失われてしまったのかと考えても不毛なだけである。ここでは史実にのみ注目しよう。

山県有朋(1838年~1922年) 写真=近世名士写真 其1、1935年、国立国会図書館所蔵

1915年初頭より、日本の新聞がロシアとの同盟関係構築の必要性について報じ始めた。駐日ロシア大使を務めていたニコライ・マレフスキー・マレービッチは、 サゾーノフ外相への書簡の中でこうしたためている。「この戦争(第一次世界大戦、1914~18年)の開戦した頃から、日本のマスコミは、盛んに露日協約の必要性を訴え始めています。日本中のすべての報道機関が、その必要性を随時、議論しており、露日協約という考え方は、すでに日本社会で市民権を得たようにすら感じられます・・・。露日協約を必要とする声は、ここ日本では日に日に増大するばかりなのです」

露日協約を巡る議論の核心となったのは、何をもって「同盟」とするかという点であった。大部分の人々は、「同盟」とは第三国との対立の際に協約締結国に軍事支援を行うことを義務とする協約であると考えていた。実際、日英同盟はそのようなものであったが、ロシアとの間でも同様な協約が必要かと問われたのだ。

露日協約締結の突破口となった皇室外交

大隈重信(1838年~1922年) 写真=近世名士写真 其2、1935年、国立国会図書館所蔵

1915年2月、元帥・山県有朋は日本政府に対して覚書を提出した。山県は連合国の勝利に対して懐疑的であり、この大戦は引き分けに終わり、世界のパワーバランスが崩壊するだろうと考えていた。さらに、今後、米国の参戦が予想されるアジアでは緊張状態が高まっていくとも考えていた。山県は、日英同盟に加えて、露日協約を結び、軍事支援と中国の領土保全(もちろん、日本とロシア以外の国に中国の領土に触れさせないという意味)を義務付けることを提案したのだった。

大隈重信内閣はこの提案を支持しなかったため、山県は大正天皇の支持を取り付けようとした。そして、ロシア皇帝一家のメンバーが東京を訪問することが、そのための最善の道だと考えた。1915年、武官としてロシア軍の総司令部に身を置いていた陸軍少将の中島正武は、ロシア皇帝一家の外科主治医セルゲイ・フョードロフとの会話の中で、何気ない風を装ってこう語った。「もし皇帝閣下が日本に、ご自身の名代として、いとこのゲオルギー大公を派遣されるのであるとすれば、それは間違いなく好印象を与えることでしょうし、日本は、ドイツとの戦争で、ロシアへの支援をより強めることとなるでしょう」

1916年(大正5年)1月12日付 読売新聞「露國大公殿下を迎へ奉る」

本野一郎(1862年~1918年) 明治、大正の外交官、政治家。1908年、ロシア大使に就任。露日協約の締結に尽力。写真=米国議会図書館

この提案は皇帝ニコライ2世に伝えられ、その翌日のうちに皇帝はゲオルギー・ミハイロビッチ大公(※2)を日本へ派遣することを命じた。訪日の目的とされたのは、大正天皇の即位の祝賀であった。1916年1月にゲオルギー大公が東京に到着した際には、大正天皇自らが駅で出迎えた。

ここでは詳細は省いて重要なことだけ述べよう。当時、それまで外交官たちによって行われてきた個別の問題に関する交渉はことごとく袋小路に追い詰められていたこともあり、山県は外務大臣・石井菊次郎に対して、ロシアとの間で政治全般に関する協定を結ぶことを要求した。山県は、東アジアにおける平和と安全は、日本とロシアという2つの帝国の協力関係によってのみ維持することができると断言した。石井と大隈は、ロシアとの同盟関係の締結を特に望んではいなかったが、山県は自分の主張を押し通したのである。

セルゲイ・サゾーノフ(1860年~1927年) ロシアの外交官。英国および日本との接近を図り、日本と露日協約を締結。写真=プロジェクト・グーテンベルグ

これまでの研究によれば、多くの歴史家は、1916年の第4次露日協約の草案者はロシア大使・本野一郎であるとしていた。しかし、文献の指し示すところによると、露日協約への道を切り開いたのは、外交的な手腕に加えて地政学的な視点にも秀でていた山県有朋であった。山県の戦略の中核となったのは「皇室外交」であった。ロシア皇帝の名代としてゲオルギー大公が東京を訪れること、大正天皇がゲオルギー大公を歓迎することに対しては、誰も公に異を唱えるとはできない。ロシア皇帝の名代の訪日にゴーサインが出れば、それ以外のことは単に手続き上の問題であった。

1916年2月18日、本野はサゾーノフ外相に公式に交渉を開始することを提案し、外交文書を手渡した。ニコライ2世は、極東におけるロシアの覇権が盤石ではないこともあり、ロシアにとって日本との同盟関係は有益であると考えた。露日協約は、露日戦争(1904~1905年)後の両国関係の新たな一歩となった。だから露日協約の締結を、ロシアが極東における影響力を強めるための政策を拒否したことの証左であると捉えるのは誤りである。

(※1) ^ 露日戦争(1904~1905年)後の露日間の相互関係を規定した協約。1907年(明治40年)から16年(大正5年)まで、前後4回にわたって締結され、日英同盟とならんで第1次世界大戦前および大戦中における日本外交の中心的な役割を果たす。1916年7月3日、第4次露日協約と共に秘密協定も締結され、露日以外の中国支配を防ぎ、極東における両国の軍事同盟を保障した。しかし翌年3月に帝政ロシアが崩壊し協約は破棄。(編集部注:本稿の日本語版はロシア語原文に従って、日露戦争と日露協約をいずれも「露日」と表記した。)

(※2) ^ ゲオルギー・ミハイロビッチ (1863~1919年) ロシア皇帝ニコライ1世の孫の一人。ロシア大公。1916年1月12日ロシア皇帝名代として東京に到着。1月13日に山県有朋と会談し、ロシアへの兵器供給を要請した。ロシア革命後の1919年1月28日、ペトログラードで銃殺刑に処された。

露日協約の骨子

1916年(大正5年)7月9日付 東京朝日新聞「日露協約正文」

公開された露日協約の条文には以下のように記されている。

ロシアと日本の両国に対して、それぞれの国と対立するような「

何等政治上ノ協定又ハ聯合

(いかなる政治的な協定や連合)」の当事国となってはならない。

両締約國ノ一方ニ依リ承認セラレタル他ノ一方ノ極東ニ於ける領土權又ハ特殊利益カ侵迫セラルルニ至リタルトキハ日本國及露西亞國ハ其ノ權利及び利益ノ擁護防衛ノ爲相互ノ支持又ハ協力ヲ目的トシテ執ルヘキ措置ニ付協議スヘシ

(両国間で[相互に認められた極東における領土の権限と権益の]保護・防衛のための相手国への支援の方法について協議し合意すること)」

同時に、「

両國間ノ誠實ナル友好關係ヲ一層鞏固ナラシメンコトヲ希望シ

(両国間の緊密な友好関係の強化のために)」、協約とともに密約も締結された。

露日両国は、「

其緊切ナル利益ニ顧支那國カ日本國又ハ露西亞國ニ對シ敵意ヲ有スル第三國ノ政事的掌握ニ歸セサルコトヲ緊要ナリト認メ必要ニ應シテ隨時隔意ナク且誠實ニ意見ノ交換ヲ行ヒ前記事態ノ發生ヲ防止セムカ爲執ルヘキ措置ニ付協議スヘシ

(切迫した利益を顧みて、日本またはロシアに対して敵意を有する第三国の政治的な掌握から中国を守ることを差し迫って必要なことと認め、必要に応じて随時、遠慮なくかつ誠実に意見交換を行い、前述の事態の発生を防止するために取るべき措置について協議しななければならない)」(第1条)。

もし、中国で「

執リタル措置

(取られた措置)」によって、締結国の一方と前述の第三国の間に宣戦が布告された場合、「

締盟國ノ他ノ一方ハ請求ニ基キ其同盟國ニ援助ヲ興フヘク

(締盟国の一方からの要請に基づき、支援を行わなければならない)」、締盟国は「

他ノ一方ノ同意アルニ非サレハ講和セサルコトヲ約ス

(他方の締盟国の同意がなければ共通の敵国との間で和平協定を締結してはならない)」(第2、3条)。この条文を履行する際には、「

切迫セル戦争ノ重大ナル程度ニ適應スヘキ援助ヲ其ノ同盟諸國ヨリ保障

(締盟国双方は、その一方にとって差し迫り深刻な状況となった戦争の程度に応じて締盟国は支援を行うことを保障する)」(第4条)とされている。

同盟関係は5年間の期間で締結され、「

本協約ハ兩締盟國ニ於テ巖ニ祕密ニ附スヘシ

([政府より委任を受け本協約に署名をした者を除き]本協約は両締結国において機密とされるべきである)」(第5、6条)。ロシアの大臣の中で、この密約の存在を知らされていたのは、ロシア帝国閣僚会議議長のボリス・スチュルメルただ一人であった。

しかし、密約が秘密にされたのは、たったの1年半に過ぎなかった。1917年11月に権力の座についたボリシェビキは「秘密外交の廃止!」というスローガンを掲げ(※3)、ドイツとの戦争を継続している連合国(協商国)および米国に衝撃を与えるために、秘密外交に関する多くの文書を暴露した。(※4) 露日協定は実現されることのないまま、過去のものとなってしまった。

露日協約100周年に向けて、筑波大学で教壇に立つロシアの歴史家エドワルド・バールィシェフ氏が大変に興味深い本「日露皇室外交 1916年の大公訪日」(群像社刊)を日本語で出版した。同著のロシア語版刊行も心より待ち望む。

(原文ロシア語。バナー写真=1916年、ロシア最後の皇帝ニコライ2世とその子どもたち。翌1917年ロシア革命の勃発により、300年続いたロマノフ王朝は幕を閉じた。[出所:米エール大学バイネッキ図書館ロマノフ・コレクション])

(※3) ^ 1917年 レーニンは「平和についての布告」によって従来のあらゆる秘密条約を廃棄し秘密外交を否定することを交戦国に呼びかけ、ロシア帝国が関わった秘密同盟をすべて暴露した。

(※4) ^ 1916年に締結されたサイクス・ピコ協定(第一次世界大戦中の1916年5月16日に英国、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定)を暴露し、中東における「三枚舌外交」が強い非難を浴びた。

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