48年ぶりのメダル狙う日本のサッカー・リオ五輪代表

社会

「ディフェンスから構築してきた」チーム

今年1月にカタールで開催されたサッカーの「U-23アジア選手権兼リオデジャネイロ五輪アジア最終予選」で優勝し、6大会連続10度目の五輪舞台となるリオ五輪切符を獲得したU-23日本代表。アジアチャンピオンとして出るリオ五輪で、メキシコ五輪以来48年ぶりのメダルを狙う通称“手倉森ジャパン”とは、どのようなチームか。

2014年1月からリオ五輪を目指すチームを率いて2年半が過ぎた。手倉森誠(てぐらもり・まこと)監督が選んだメンバー18人は国際サッカー連盟(FIFA)の定めたルールに従い、23歳以下の選手15人にオーバーエイジとしてFW興梠慎三(浦和)、DF塩谷司(広島)、DF藤春廣輝(G大阪)の3人が加わった陣容だ。

所属リーグの内訳はJリーグが17人で、欧州組はFW南野拓実(オーストリア・ザルツブルク)1人。当初はFW久保裕也(スイス・ヤングボーイズ)が代表に選ばれていたが、クラブから出場の許諾が得られず、大会直前にバックアップメンバーのFW鈴木武蔵(新潟)が昇格した。

また、ポジション別の内訳を見ると、GK2人、DF6人、MF7人、FW3人となっている。メンバー構成の特徴が浮かび上がるのは、MF登録の選手のポジションの内訳を細かく見たとき。7人はボランチ4人、サイドハーフ3人となっており、守備に重点を置いた人数分布になっていることが分かる。

これは、リオ五輪で予想される試合展開から導き出された配分だ。手倉森監督は常々「われわれはディフェンスから構築してきたチームであって、派手に勝てるチームではない」と話してきたように、実際にアジアでも楽に勝てる試合は数少なく、14年アジア大会をはじめ、ベスト8で負けてしまうことも多かった。

リオ五輪最終予選では優勝という最高の結果を残して勝負強さを見せたが、五輪本番をシミュレーションすれば、耐える時間が長くなると予想するのは当然だった。

一方、少ない人数で構成される攻撃陣の特徴は、小柄でスピードがあることだ。FWとMFは全員が身長180センチメートル以下。指揮官が日本人の特性を生かした選手選びをしたことが分かる。

コンセプトは「全員守備・全員攻撃」

手倉森ジャパンの基本システムは4-4-2だ。

チームの立ち上げ当初は中盤を厚くする4-2-3-1や4-1-4-1で戦うこともあった。しかし、ポゼッションにこだわることなく、「全員守備・全員攻撃」というコンセプトをうたい、縦への配球や時間を掛けずにシュートまで持っていくということに重きを置くスタイルがチーム内に浸透していくと、2トップにボールを収める、あるいは2トップが相手DFの裏を狙うという意図を共有しながらの攻めが増えた。

この背景には、ポゼッションサッカーの極みであるスペインが頂点に立った10年南アフリカW杯から、14年ブラジルW杯ではドイツ型のカウンター攻撃が世界を席巻するように移り変わったとするFIFA技術研究グループの報告書(14年7月発表)の存在がある。

リオデジャネイロ五輪サッカー男子日本代表のメンバー発表を行う手倉森誠監督=2016年7月1日、東京都文京区のJFAハウス(時事)

ブラジルW杯が終わってから約1カ月が経過した14年8月の会見で、手倉森監督はこのように話していた。

「4年前の南アフリカW杯でスペインが優勝してからは、世界でポゼッション型サッカーがトレンドになっていた。しかし、U-21日本代表(現リオ五輪代表)の監督に就任したとき、ブラジルW杯では何がスタンダードになるのかと考え、チームコンセプトとして『全員守備・全員攻撃』という考えを見つけていた」

14年1月からすでに指揮を執っていた手倉森監督はトレンドを先読みする形で、ポゼッションサッカーに代わるコンセプトを打ち出していたのだった。

アーセナル移籍の浅野拓磨に注目

手倉森ジャパンで今、最も旬な選手と言えば、広島からイングランド・プレミアリーグの名門アーセナルへの完全移籍が決まったばかりのFW浅野拓磨だ。

キリンチャレンジ杯の南アフリカ戦でシュートする浅野拓磨(広島)=2016年6月29日、長野・松本平広域公園総合球技場(時事)

50メートル5秒9の快足を生かした縦の突破力が魅力の点取り屋は、プロ3年目の昨年、リーグ戦32試合出場8得点とブレーク。Jリーグチャンピオンシップでも活躍し、広島をリーグ優勝へと導いた。ハリルホジッチ監督率いるA代表にも選出され、徐々に存在感を示すようになっている。

猛獣のジャガーのようにスピードがあることから、広島の先輩であるFW佐藤寿人がつけてくれた愛称は「ジャガー」。点を決めたときに顔の横で両手の爪を立てる「ジャガーポーズ」は今やサッカー少年に大人気だ。

海外組として参戦するMF南野は、手倉森ジャパンのエースとして得点が期待される。

五輪予選準決勝のイラク戦でプレーする南野拓実(ザルツブルク)=2016年1月26日、カタール・ドーハ(時事)

南野は15年1月にセレッソ大阪からザルツブルクに移籍すると、2014-15年シーズン後半戦のリーグ14試合に出場し、3ゴール3アシストを記録。15-16年シーズンは32試合で10ゴール3アシストし、チームの3年連続10回目のリーグ制覇に大きく貢献した。

守りでチームの要となるのが、キャプテンを務めるボランチの遠藤航(浦和)だ。守備時には鋭い読みと対人プレーの強さでピンチの芽を摘み、攻撃時には思い切った縦パスでチャンスを演出する。広い視野と冷静沈着な判断力の持ち主は、手倉森ジャパンの立ち上げからチームの中心を担ってきた。「リオではメダルを獲得する」と意気込んでいる。

キリン杯決勝のボスニア・ヘルツェゴビナ戦でドリブルする遠藤航(右から3人目、浦和)=2016年6月7日、大阪・市立吹田サッカースタジアム (時事)

東日本大震災で被災、J1仙台を押し上げた手倉森監督の手腕

日本サッカー協会は04年アテネ五輪から4大会連続で日本人指導者を五輪チームの監督として選んでいる。

今回、リオ五輪出場チームを率いる手倉森誠監督は1967年11月14日、青森県生まれの48歳。双子の弟・浩とともに高校サッカーで活躍し、その名コンビぶりは世界的人気漫画「キャプテン翼」のキャラクター「立花兄弟」のモデルと言われている。

2008年からベガルタ仙台の監督になると、就任2年目の09年にJ2で優勝してJ1昇格決定。10年からJ1で指揮を執り、強豪とは言えないベガルタ仙台を上位に押し上げて、13年まで同チームを率いた。

手倉森監督の指導者人生を語る上で重要な位置を占めるのは、11年3月11日、午後2時46分に起きた東日本大震災だ。

仙台市の震度は6強。ベガルタのクラブハウス2階にいた手倉森監督は、崩落した天井と倒壊した本棚のすぐ横で九死に一生を得ながら決死の覚悟で建物を脱出した。

1カ月余りの中断期間を経てJリーグが再開した後は、被災地の希望の星となって快進撃を見せ、仙台は前年の14位から4位へとジャンプアップ。翌12年にはクラブ史上最高成績である2位となった。

手倉森監督が震災をきっかけに抱いた「人の思いを背負って戦う者は強い」との信念は、U-23日本代表にも注がれている。

たくましくなった選手たち:3分の1がJ2経験しながら五輪切符獲得

手倉森ジャパンのメンバーはおとなしい選手が多く、特に初期のころは合宿での練習を見ても声があまり出ていなかった。テクニックはあっても闘志がプレーに現れないことがマイナスとしてとらえられるのか、所属クラブでコンスタントに試合に出ている選手は少なく、中にはほとんどベンチ外という選手もいた。

しかし、J2クラブへの期限付き移籍でプレー機会を得て代表入りした矢島慎也(浦和からJ2岡山に期限付き移籍中)をはじめ、約3分の1の選手がJ2でのプレーを経験しながらリオ五輪切符をつかんでいる。困難を乗り越えながら、チームは着実にたくましくなっている。

日本はリオ五輪のグループリーグで、ナイジェリア、コロンビア、スウェーデンという手強い国と同じグループに入った。「死の組」と呼ばれる強豪揃いのグループを突破して決勝トーナメントに進出すれば、その先は勢いでメダル争いに加わることも十分に可能だ。3位決定戦で敗れ、惜しくもメダルに届かない4位という結果で終わったロンドン五輪を超える成績を期待したい。

バナー写真:サッカー五輪予選決勝の韓国戦を制し、優勝杯を掲げて喜ぶU-23日本代表。中央は手倉森誠監督=2016年1月30日、カタール・ドーハ(時事)

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