原爆の記憶をとどめる瀬戸内海の似島を訪ねて

社会

日系3世のミステリー作家、ナオミ・ヒラハラさんは、被爆者の日系人庭師が探偵役を担う『庭師マス・アライ事件簿』シリーズで知られる。ナオミさんの父イサム(平原勇)さんは米カリフォルニア州生まれだが、幼い頃広島に移り住んだ。1945年の原爆投下の際には爆心地からほんの数キロのところにいたが、生き残った。母のマユミ(向井眉美)さんは広島生まれで、父親が原爆で死亡している。イサムさんとマユミさんは60年、広島で結婚式を挙げた。2人はカリフォルニア州アルタデナに新居を構え、後にサウスパサデナに移った。イサムさんは庭師で生計を立ててナオミさんとその弟を育て、4年前に亡くなった。広島平和公園の原爆死没者名簿には、イサムさんの名前もある。

2016年8月、ナオミさんは、『マス・アライ』シリーズの完結作となる7作目の下調べをするため広島湾に浮かぶ似島(にのしま)を訪れた。第1次世界大戦の際はドイツ人の捕虜収容所も設けられたこの島は、日本におけるバウムクーヘン発祥の地ともいわれる。第2次大戦で広島に原爆が落とされたとき多くの被爆者が一時、似島の臨時野戦病院に運ばれた。被爆者の庭師マス・アライは、完結作でヒロシマと向き合うことになる。(編集部)

被爆者が避難した島

広島港宇品ターミナルから似島までは、フェリーで約20分だ。同乗者を見ると、似島を初めて訪れる乗客は私だけのようだ。フェリーの壁に張られた島のカラーイラストマップを熱心に見ているのは私だけだし、乗客の多くは小学生で、緑色にこんもりと立ち上がる似島の遠景よりも、おしゃべりに夢中だ。

標高278メートルの「安芸小富士(あきのこふじ)」は島の最高峰だ。この山に登るために島を訪れるハイカーも多く、サイクリングで島一周を楽しむ人たちもいる。島では牡蠣(カキ)の養殖が盛んで、干潮時には牡蠣の稚貝を付けたホタテの貝殻がずらりと吊るされた光景が見られる。

私が似島を訪れるのは、ハイキング、魚釣りやウォータースポーツを楽しむためでも、新鮮な牡蠣が目当てでもない。第2次世界大戦末期に、広島の被爆者の一時的な救護所になった似島の歴史について学ぶためだ。今では島民が1000人に満たないこの島について、今日の広島市民でさえよくは知らない。しかし、私にはこの島との特別な結びつきがある。母の親戚の1人がかつて島に高齢者施設を創設したからだ。この施設は今でも運営を続けている。こんな縁もあって、すでに多くの人の記憶から失われた似島の歴史の痕跡を、実際にこの目で見て振り返ってみたかった。

牡蠣の養殖が盛んな似島では、干潮時にこんな光景があちらこちらで見られる

続々と船で運び込まれた1万人の被爆者たち

似島の歴史は、日本の戦争の歴史と切り離せない。日清戦争(1894~95年)の終結時、朝鮮半島や台湾方面からの帰還兵のための陸軍検疫所が似島に設置された。郷土史家の宮崎佳都夫(かずお)さんによると、当時世界的に流行していたコレラなどの伝染病を水際で防ぐ目的だった。検疫所は後にもう1つ建設され(編集部注:第2検疫所)、第1次世界大戦中にはドイツ人の捕虜収容所ともなった(編注:第1検疫所は兵器倉庫となる)。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された後、被爆者をどこかに収容する必要があった。その場所に選ばれたのが似島だった。陸軍検疫所が臨時野戦病院となった。宮崎さんによると、原爆投下の約1時間半後の午前10 時過ぎから被爆者が船で続々と運ばれてきた。その数は、1万人以上にも及んだ。この小さな島がそんなに多くの被爆者たちの救護所になったことに、驚きを禁じ得ない。実際、原爆で熱傷を負った犠牲者たちの、胸を締め付けられるような写真の多くは似島で撮られたものだ。

臨時野戦病院は終戦の10日後、8月25日に閉鎖された。収容された多くの被爆者は亡くなったが、生存者は最終的に国内各地のより設備の整った医療施設に移送された。

軍の施設が戦争孤児のホームに

似島とその戦争との関わりの物語は、そこで終わるはずだった。しかし、島を捉えて離さない何かしらの力、戦争の傷跡を癒やす力とでも言うべき力が働いたのか、終戦翌年の1946年、第1検疫所の跡地に、戦争孤児のための施設、似島学園が設立された。学園が最初に受け入れたのは、原爆や戦災で家族を失った34人の子どもたちだった。

1967年、(第2検疫所の跡地の一部に)養護老人ホームの平和養老館が設立された。私の母方の縁者である向井佐歳(さとし)がその創立理事長を務めた。それまでの老人ホームはお寺の経営が多かったが、平和養老館は民間の非営利団体が運営する当時としては画期的なものだった。平和養老館はその後、介護サービスも提供する特別養護老人ホームとなっている。

平和養老館の前庭に立つ「平和観音」。被爆者の慰霊のために建立された

また、島の南東部には小学校と中学校が隣接して立つが、その中学校の敷地の南側に原爆慰霊碑がある。広島では市内のあちらこちらに同じような慰霊碑があり、それ自体は珍しいことではない。しかし、この慰霊碑は1971年、中学校の農業実習地から617人もの遺骨と骨灰が発掘されたのを受けて建立されたものである。遺骨は、湾を隔てた広島平和記念公園の供養塔に納骨された。さらに2004年には、やはり中学校の近くから85人の遺骨が発掘されている。

遺骨の発掘場所が花咲く慰霊の広場に

正式な広島市平和記念式典は8月6日に行われるが、似島はその2日前の8月4日が慰霊の日だった。島民だけのこぢんまりとした式典だと聞かされていたが、私は参列するつもりだった。

平和養老館の親戚のところで一晩を過ごし、8月4日を迎えた。早朝からすでに日差しは強く、湿っぽい熱気が地面から立ちのぼっているのを感じる。私はぶらぶらと歩きながら、気の向くままに写真を撮った。靴の長さほどもあるミミズや、島のテニスコート近くのグラウンドでゲートボールに興じている2人の男性を眺め、海岸の方に向かう。人けのない田舎道を歩いていると、セミの鳴き声に混じって、スクーターがポンポンと音を立てて走る音が聞こえた。

強烈な日差しを避けるために肌を覆い、帽子をかぶった年配の女性が、慰霊式のために設置されたテントの向かいの緑地にスクーターを止めた。私も緑地に向かって歩いた。

この場所は2004年の遺骨発掘調査で、85人の遺骨が見つかった跡地だ。14年、島の有志によって整備され、季節の花々で彩られた「慰霊の広場」になった。説明板によると、さまざまな花壇は広島の6つの川を表している。

私がひまわりを眺めていると、スクーターの女性が話し掛けてきた。「花を植えたのは私のアイデアなんですよ」。水まきのホースを持ちながら、自分は似島出身ではなく、20年前に夫とこの島に移り住んだと説明する。戦争の悲しみ、喪失感、恐怖を癒やすために、ここに花を植えたかったと。

2004年、85人の遺骨が発掘された場所は、今では花壇に彩られた「慰霊の広場」となっている

2004年の遺骨発掘作業の光景と発掘された遺骨。遺骨は平和記念公園の供養塔に納骨された(提供:宮崎佳都夫)

彼女は近くにある納屋に私を手招きをした。普段は園芸道具置き場になっている納屋が、臨時の資料展示室になっていた。芝刈り機の脇の壁に、被爆者たちの様子や、遺骨発掘の際の白黒写真が張られている。私はミステリー作家という職業柄、また14歳の時に初めて広島に来た際に原爆の悲惨さに触れていたので、こうした写真にショックを受けたりはしなかった。だが、こののどかな場所で見ると強烈な違和感がある。積み重なった黒ずんだ頭蓋骨、長さと識別番号が書かれた人骨の画像。一刻一刻、暑さが増すばかりの中で、写真が伝える過去の重みをしっかりと受け止めるのは難しい。

島民たちによる慰霊の式典

白テントの下では、黒衣の島民たちが三々五々やって来て、折りたたみ椅子に腰を下ろし始めた。式典で唯一色のついたものといえば、ずらりと並んだ鮮やかな黄色と金色の飾りだけである。後になって、それらはお盆の時期に奉納される広島の伝統的な「盆灯籠」だと教えられた。

私もテントの下の椅子に座った。恐らく、数少ない島外からの参列者の1人であり、唯一の外国人だ。近くの小学校の子どもたちは夏休み中だが、式典に参列するため、制服を来て後方に並んでいる。お坊さんたちが読経し、その中の1人が説話をする。自らの祖母が被爆者であること、オバマ大統領が今年5月に広島の平和記念公園を訪れたことなどを語った。線香があげられ、慰霊式は45分足らずで幕を閉じた。

広島の伝統的な「盆灯籠」。竹を6角形のアサガオ型に組んだものに、赤、青、黄の色紙を貼ったもの

8月4日の慰霊の式典に参列した子どもたち

未来への希望を育む島として

式典の後、似島学園に向かいながら、郷土史家の宮崎さんに島の歴史についていろいろと教えていただいた。学園は今では何らかの理由で家族と一緒に暮らせない子どもたちのための居場所となっている。ここでは、子どもたちが自分の感情や思いを抱え込まずに言葉にできるようにと、子どもたちの気持ちに寄り添ってカウンセリングを行っているそうだ。こうした取り組みは、日本の教育現場ではまだ少ないと聞く。

似島学園の高台に立つ「いのちの塔」

宮崎さんは、学園の上の丘に立つ彫像に私を案内した。遠くからは、それは緑の森の中に浮かぶ子どものように見える(編注:聖徳太子の2歳像)。台座には「いのちの塔」と刻まれている。この像は1971年、学園の設立25周年を記念して建立された。この像の前で、職員と生徒が原爆で亡くなった人たちを供養するそうだ。

私が乗る予定の広島行きのフェリーが学園桟橋に到着する時間が近づいたので、私たちは丘を下った。学園のグラウンドに向かう子どもたちの一群とすれ違うとき、私は心から願った。子どもたちがいつか、より良い未来に向かって似島を巣立つ時が来るようにと。過去から呼び戻された記憶のように、これからも遺骨は掘り起こされるだろう。だが、悲惨な原爆の記憶に取りつかれるのではなく、この島が島民の人たちが植えた花々のように、癒やしと新たな希望を育む地であってほしいと願わずにはいられない。

(原文英語。バナー写真: 広島港宇品ターミナル側から見える似島の安芸小富士/提供: 宮崎佳都夫)

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