映画『百日告別』——交わり重なる台湾と日本の死生観
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より「生と死」を考えざるを得ない時代
日本で2月下旬から上映されている台湾映画『百日告別』は、自らの半身と呼べる存在が、突然、目の前から消失してしまったら、私はどうなってしまうのだろうかということを問い掛ける映画である。この点についてはおそらく誰も異論はないところだろう。そして突き詰めるとわれわれは他者の死にどう向き合うかという問題であり、「死生観」という言葉に置き換えてもいい。
海外で比較的長く生活してきた経験上、身につまされて感じるのは、外国人の死生観をきちんと理解することほど難しいことはないということだ。それは普段の交際では決して見えてこない。結婚でもしないと触れることすら難しい領域なのである。日本とこんなに近くて親しいように思える台湾も、死生観については天と地ほど違うのではないかと思うことがしばしばある。
そんな台湾の死生観については、私たちの参考となる映画が本作以外にもこのところ相次いで登場している。『父の初七日(原題:父後七日)』(2010年)は、台湾の葬送儀礼を細部まで描き出し、それを家族の再生に結びつけた名作だ。ほかに『失魂』(2013年)、『共犯』(2014年)なども、それぞれの設定の中で「死」と向き合う台湾の人々の心理を見せてくれる。
どうやら台湾においては、いま「生と死」を考えることが一つの大きな潮流になっているようである。それは、グローバリゼーションと少子化によって格差の間に押し込まれた個々人が、自分の生と死について考える時間が過去よりも増えていることの表れであり、日本にも通じる社会現象と言える。台湾と日本の死生観が次第に交わり、重なる時代に入ってきているとの見方もできる。
その象徴は日本映画の『おくりびと』だった。台湾での上映時、非常に高い人気で受け入れられ、その後も台湾社会に影響を及ぼし続けている。死者を丁寧に送りたいというトレンドが台湾でこの映画を機にいっそう広がった。日本に留学して納棺師の仕事を学ぶ「おくりびと留学」がブームになっている記事を書いたこともあった。納棺師が台湾の政府免許になるという報道も出ている。
戦争や災害による大量死が相対的に少なくなった現代(東日本大震災を経験した日本はやや例外ではあるが)において、「死」が身近なものでなくなるほどに、「死」の衝撃は「生」を危うくする。いずこの社会も「死」と向き合うことを過去以上に考えなくてはならなくなっているのである。
葬送の意味を考えさせられる一作
映画『百日告別』の主人公は2人だ。同じ交通事故で、身重の妻を失ったユーウェイと、結婚直前の恋人を失ったシンミン。2人は共に、偶然の末に生き残る側となった。2人の平行する物語は、交差するようでいて交差しない、それでいて、つながる一本の糸は最後まで切れることはない。
その死が理不尽で自己責任ではなく、そして突然であればあるほど、別れの受容までのプロセスは苦難に満ちたものになる。乗り越えられない人も少なくない。映画の2人も最初は心を閉ざし、何かにつけて周囲とぶつかる。半ば勢いで異性と寝てしまうなど、自分を否定するような愚行も行う。愛する人との「告別(別れ)」を、100日という時間をかけてどうやって受け入れるのかを、徹底的に内面まで踏み込んで検証する作品だ。
宗教的な要素が強く出すぎないようにきちんと配慮されている。しかし、映画の中で登場する主人公以外の人々の言動は、「台湾人はこんな風に考えるんだ」と新鮮な驚きを与えてくれる。
例えば、シンミンがフィアンセの初七日を迎えた日、妹が玄関に塩をまくことを勧めるシーンがあった。「彼が戻ってきたなら、足跡が残っているはず」。冗談ではなく、かなり本気で勧めているところが面白い。一方、亡くなったフィアンセの体に触ろうとしたシンミンを「触ったらこの子の魂が迷うじゃないか」と、フィアンセの母が叱りつける場面もあった。
2人の転機になるのは、ある「儀式」だった。ユーウェイはピアノ教師だった妻の教え子たちに授業料を返して歩いた。シンミンはフィアンセと一緒に行く予定だった沖縄に1人で足を運んだ。一見なんの意味もないような行為をあえて必要とする気持ちが痛いほど伝わってくる。理不尽な死に対して、決して分かりやすい救いは得られるものではないが、何か一つでも主体的に動き出すことによって、未来に向けて、新しい一歩を踏み出せるきっかけになる。何かにぶち当たったときは、少し時間を巻き戻してみることも大切なのである。
人が死ぬと葬儀が行われる。シンミンは初七日にたまたま一緒になったバスの中でユーウェイにこう答える。
「法要は死者の供養というけど、毎回死んだことを私たちに思い出せて、手放させるための期限みたい」
これは本当にその通りで、葬儀の内容が事細かに長期間にわたって決められているのは、主に儒教による葬礼の儀に仏教などが融合したものとして台湾でも日本でも共通しているが、それはあくまでも死者のためではなく、むしろ生者のためであると理解するのが正しいのだろう。
人は、ついさっきまで目の前で生きていた人が「無」になったという現実を受け入れるには、心を整え、段階を踏んで生者が死者となっていくことを見届ける必要がある。その間には、絶えず生者は去ったものとして受け入れることが求められ、人の心には死者を送り出す準備ができていくのである。
煩雑にさえ思える葬送の一連の手順は、死者も生者も安らかになるためのものだと教えてくれることが、この映画の最大の価値である。
シンミンを演じて金馬奨最優秀主演女優賞を獲得したカリーナ・ラム(林嘉欣)は、あまりにもこの役にはまり過ぎる女優であり、彼女を起用したトム・リン(林書宇)監督の眼力に敬服する。人気バンド・メイデイ(五月天)の一員であるも石錦航も、十二分過ぎるほどの演技を見せた。『九月に降る風』『星空』という佳作2本を撮ったトム・リン監督らしい、無駄なシーンがほとんどない、シンプルで味わい深い作品となっている。特に、感情変化の描き方が細やかでいい。病で妻を失った監督自身の体験に根ざす脚本ということもあるだろう。派手ではない演出が、かえってリアリティを伝えていると私は感じた。
【百日告別】
2017年2月25日より、ユーロスペース他にて公開
公式ページ:http://www.kokubetsu.com/