麗しき故郷、台湾——湾生画家・立石鉄臣を巡って

政治・外交

台湾で評価を受け続ける立石鉄臣

立石鉄臣(てつおみ)は戦前の台湾で生まれ、風俗・民俗・工芸を記録した雑誌『民俗台湾』や『媽祖(まそ)』の表紙や挿絵を手掛けたことで、台湾ではよく知られた画家である。『民俗台湾』に見られる、台南関廟の竹細工やロウソク・線香職人、冠婚葬祭における風習など、丹念なスケッチで生き生きと描かれた木版画は、当時の台湾人の等身大の生活を伝える貴重な資料でもあり、1970年代から台湾では評価を受け続けている。

特に近年は注目度が高い。10年以上絶版だった『灣生・風土・立石鐵臣』(邱函妮、雄獅美術出版)が2016年に重版され、同年、台湾国際ドキュメンタリー映画祭でプレミア上映となった映画「灣生畫家 立石鐵臣」(監督:郭亮吟・藤田修平)はチケットが早々に完売し、観客賞を受賞して話題をさらった。

また立石が戦後、台湾での生活を思い出して描いた画集『台湾画冊』の中に、基隆(キールン)から出港する引き揚げ船の見送りに来た多くの台湾人が、当時は禁じられていた日本語での「蛍の光」を合唱する絵がある。絵の中で3度、絶叫するように添えられた「吾愛台湾!」という言葉が台湾人のシンパシーを手繰り寄せたのか、インターネットを通じて広く拡散され、若い世代でも知られる存在となった。

立石鉄臣は、台湾総督府の土木部事務官を務めた立石義雄の4男として、1905年に台北で生まれた。父親の内地転勤に伴って9歳で台湾を離れるが、この地で生まれ育ったことは、後の人生に大きな影響を与えた。

戦後の引き揚げ前に立石が暮らしていたと思われる、台北市温州街の住宅(撮影:栖来ひかり)

幼いころの立石は、体が虚弱で内向的だったことから、同級生たちと遊ぶよりむしろ絵を描くなど一人で遊ぶことを好んだ。まるで対象の魂を絵筆で捉える冷静で孤独な観察眼は、この頃に育まれたのだろう。19年に14歳で鎌倉に転居、16歳で地元の画家について日本画を学ぶようになり、身の回りにある植物を熱心にスケッチするようになる。21歳で同じく鎌倉に転居してきた、麗子像で有名な洋画家の岸田劉生に付いて洋画へ転向。幾つかの美術展で入賞を果たし、岸田の死後は日本近代美術の巨匠、梅原龍三郎に師事するようになる。

師の期待がプレッシャーに

立石にとって梅原から受けた影響は計り知れない。梅原に師事して以降、大きな美術賞を立て続けに取って才能を開花させる立石に、梅原は「いつか日本画壇を背負って立つ一人」と将来を期待した。南国の強烈な太陽を感じさせる立石の日本人離れした色彩感覚にも、梅原は注目していたのではないかと府中市美術館の学芸員・志賀秀孝氏は述べている。

だが、梅原のこの大きな期待が、戦後の立石の画家としての生き方に重いプレッシャーとなっていたようだと、立石の家族は後に語っている。

梅原の勧めで、立石は33年(28歳)より数回にわたり再び台湾の地を訪れた。台湾に「帰る」前の気持ちを立石はこう記している。

「台灣はわたしの生地で、九つまでを暮らしました。ですから私の記憶には、そこはまるで天國のやうです。童話の國のやうです……強いはげしい南國の風物は再び私に新しい夢を見させてくれ、前後を忘れて仕事に狂喜させてくれることでせう……」(「立石鉄臣展――生誕110周年」立石雅夫・森美根子・志賀秀孝の論考より)

そんな弾むような気持ちを抱いて台湾に渡った立石は、台湾の風景を描いた油絵を多く残す。陳澄波、楊三郎、李梅樹ら主だった台湾人画家によって設立された台陽美術協会にもただ一人日本人として参画し、日本人と台湾人の間に対立もあった当時の台湾美術界において立石は台湾人にも愛された。台湾の画家仲間は立石の作風を「台湾のゴッホ」「湾生後期印象派」などと評したという。しかし、戦前のそれら作品の多くは、今も行方知れずのまま見付かっていない。

『民俗台灣』で立石が連載していたコラム「台灣民俗図絵」より「竹の揺籃」、1943年(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)

『民俗台灣』1944年4月号表紙(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)

立石はその後、台北帝大の標本画制作の依頼を請けて昆虫や植物の細密画を究める一方、人類学者の金関丈夫、民俗学者の池田敏雄や文学者の西川満らと親交を深め、『民俗台湾』の編集に参加する。皇民化運動が高まり、媽祖像や土地公に代わって天照大神の神棚が備え付けられ、『民俗台湾』や『文芸台湾』の発行も当局に歓迎されるものではなかった。しかし、内容は情熱、好奇心、愛情とユーモアにあふれ、失われた多くの台湾文化を記録した人類学的にもかけがえのない資料となった。

戦後、中華民国政府の下で民俗学者の国分直一らと共にしばらく技術者として留用された立石は、現在の台湾師範大学に近い温州街で暮らし、台北日本人学校の最初の美術教師も務めた。

台湾人弾圧の引き金となった二二八事件(1947年)後の48年12月、日本に引き揚げてからは図鑑の挿絵などで生計をたて、戦後の画壇では無名のまま80年、75歳でその生涯を終えた。

それから30数年。

2015年、銀座「泰明画廊」での回顧展を皮切りに、16年春には東京府中市美術館で初の大型回顧展「麗しき故郷『台湾』に捧ぐ――立石鉄臣展」が開催され、日本でもようやく、立石への本格的な再評価がスタートした。

「府中市美術館・立石鉄臣展」の大型看板:作品「春」、昆虫系秘画など、2016年(撮影:邱函妮)

再評価に70年もの月日がかかる

立石鉄臣は、時代によって作品の方向性が変わる作家で捉えどころがないが、どの時代の絵も一度見たら忘れられない魔力がある。共通するのは、対象の中に見付けた面白さや美しさの全てを絵で伝えたいという欲求と情熱だ。

立石が戦後から70年もの間、日本の画壇の中で無視されてきたのは、戦後日本人の台湾に対する態度と無関係ではないのかも知れない――16年のドキュメンタリー映画「灣生畫家 立石鐵臣」を見ながら、ふと思った。

台湾をはじめ、朝鮮や満州などの「外地」の美術の流れを抜きにして、日本の近代美術史を語ることはできない。しかし、この70年間に日本近代美術史で台湾の位置付けはいまだになされていない。理由の1つは、引き揚げ時の荷物制限から、戦前の台湾で評価された作品が残されていないことが挙げられる。しかしもう1つ、画壇という名の日本人社会が、「湾生」という存在、ひいては台湾から目を背け続けたことに、原因があるのではないかと考えた。

引揚げ以降、立石は二度と台湾を訪れていない。台湾に対しては激しい思慕を抱きながらも、それを閉じ込めざるを得ない屈託の中で戦後を生きていたのだろう。

『民俗台灣』で立石が連載していたコラム「台灣民俗図絵」より「打綿被」(ふとん打ち)、1941年(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)

東日本大震災以降の日本社会で台湾への態度は大きく変わった。毎月のように雑誌で台湾特集が組まれ、台湾に関する本が出版され、大なり小なり毎日のようにテレビで台湾が取り上げられる。かつてはお世辞にも良いとは言えなかった台湾のイメージが「おいしい・楽しい・癒し」へと変わり、その距離は戦後もっとも縮まっていると言っていい。

日台のはざまでひそやかに絵を描き続けてきた湾生画家の立石鉄臣。その作品にある台湾の痕跡は、まるで70年という歴史の泥の中から砂金のように浮かび上がってきらめく立石の台湾への思いのようだ。

参考文献

『灣生・風土・立石鐵臣』邱函妮、雄獅美術、2004年
「立石鉄臣展——生誕110周年」立石雅夫・森美根子・志賀秀孝の論考より、泰明画廊、2015年
「立石鉄臣展——麗しき故郷『台湾』に捧ぐ」府中市立美術館、2016年

バナー写真=1935年の台湾での展覧会にて。左から5番目の、斜め上を見ているような背広の人物が立石鉄臣。その右前で腕を組んでいるのは梅原龍三郎。右後ろに陳澄波がいる。(提供:陳澄波文化基金会)

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