私は日本人なのか?中国人なのか?台湾人なのか?——楊威理『ある台湾知識人の悲劇』からアイデンティティーの葛藤をみつめる

文化

司馬遼太郎も注目した台湾青年

『街道をゆく 台湾紀行』

台湾に関心を持つ日本人の間でよく読まれている司馬遼太郎『街道をゆく 40 台湾紀行』(朝日新聞社、1994年)は、日台関係を考えるうえで話題に上るさまざまな人物に言及しているが、葉盛吉についても一章を割いて紹介している。植民地だった台湾出身者としてアイデンティティーの揺らぎに苦悩し、戦後の白色テロで命を奪われた若き知識人の生きざまは、司馬にも強い印象を残したようだ。

司馬が種本にしたのが、楊威理『ある台湾知識人の悲劇──中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』(岩波書店、1993年)である。著者の楊は葉盛吉の親友だが、後に大陸へ渡り、文化大革命の苦難を生き残るなど数奇な生涯を送った人である。その経緯については、楊の自伝『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』(岩波書店、1994年)に詳しい。『ある台湾知識人の悲劇』は台湾でも、『雙郷記』(人間出版社、1995年)というタイトルで中国語版が刊行されている。訳者の陳映眞は投獄経験もある著名な作家で、2006年に中国へ渡るなど論争的な人物でもあった。

葉盛吉の一生とアイデンティティー

葉は1923年10月25日に台北で生まれた。まだ幼い頃に母が病死したため、台南県新営に住む叔父・葉聡の養子となる。養父は台北師範学校の卒業生で日本式教育を受けており、新営の塩水港製糖株式会社に勤務、最後は人事課長にまでなった。日本人中心の社宅に住んでいたため、葉も日本的な生活環境の中で育つ。公学校(台湾人向けの小学校)卒業後は、日本人子弟が多数を占める台南第一中学に入学。日本人優位の植民地社会の中で矛盾を感じ取っていたものの、後に「自叙伝」で中学時代を振り返る中で、「日本人との対立、二重生活の矛盾は、私を駆って民族意識に目覚めさせたというよりは、むしろ、それからの逃避という型を取った。私が民族意識を強く持つに至ったのは日本に行ってからであった」と記している。

日本の皇民化教育を素直に受け入れた彼は抜群の成績を修めて中学を卒業、日本へ留学して仙台の旧制二高へ入学する。ここで本書の著者、楊と出会った。日本人同級生からも慕われる優等生であった葉の人生は順風満帆にも見えたが、その内面では深刻な精神的葛藤を抱えていた。中国人留学生と出会って民族意識が芽生えた一方で、「八紘(はっこう)一宇」の「大理想」の中に「良き日本人」と「良き台湾人」を両立させようとしたり、さらには国粋主義やナチズム的なユダヤ問題研究会に関心を寄せたりするなど、思想的に極端なまでの振幅を示している。生真面目であるが故に、過剰適応の無理が葛藤をいっそう強めたのだろう。そうした中、戦争末期の44年頃から中国語の勉強を始め、「中国人」意識を強めていく。

45年、葉は二高を卒業して東京帝国大学医学部へ入学する。同年8月、日本の敗戦によって侵略戦争は終わり、台湾は植民地支配から解放された。このときの開放的な気分は、理想に燃える若者たちにとって、未来への希望を熱く語り合う絶好な機会となった。葉は翌年に台湾へ戻り、台湾大学医学部へ転入したが、医学部の先輩から誘われて共産党に加入する。マルクス主義のイデオロギーに引かれたわけではない。搾取も圧迫もないユートピアを漠然と求める心情に見合った政治勢力が、当時としては共産党しかなかったからである。腐敗した国民党政権への幻滅が深まる一方で共産党が着実に勢力を広げている情勢下、中国のリベラルな知識人が共産党に傾くのは自然な成り行きであり、葉も例外ではなかった。

49年、台湾大学医学部を卒業、結婚して間もなく、台湾南部の町・潮州にあるマラリア研究所へ赴任した。ところが、翌年5月29日、勤務先で逮捕され、台湾省保安司令部軍法処へ連行される。軍法処での判決は無期懲役だったが、上層部(おそらく蔣介石)の指示により死刑に変更された。そして、同年11月29日、台北の馬場町にて銃殺。まだ27歳の若さであった。10月に生まれていた息子・光毅と生前に会うことはかなわず、ただ遺書のみが残された。

葉の残した自叙伝、日記、手記等は遺族の手で守り通された。白色テロの時代、こうしたものをあえて残しておくのは、よほどの勇気が必要だったのではなかろうか。息子の光毅(後に台南の成功大学都市計画学科教授)は父親が日本語で書き残したものを自ら読みたいという一念に駆られ、日本語を学ぶため留学先にあえて日本を選んだという。教授となった光毅が整理した資料が本書『ある台湾知識人の悲劇』の基礎となっている。

戦後の葉については、台湾大学医学部後輩の医師顔世鴻が提供した「霜降」という回顧録も活用されている。顔は葉に誘われて共産党に加入したが、やはり50年に逮捕され、緑島の監獄へ送られた。80年代に書き始めた回顧録「霜降」には「S.Y.に捧(ささ)ぐ」と献辞を添えている。葉のイニシャルである。顔は「もともとアナーキズムの信奉者で、ボルシェビキや毛沢東とは縁もゆかりもなかったのだが、葉さんの人格にほれ込んだ」ために弟子入りしたのだという。この回顧録を顔は公表する意図はなかったそうだが、後に改稿して『青島東路三號』(啓動文化、2012年、邦訳なし)として台湾で出版された。青島東路三號とは、彼らが連行された台湾省保安司令部の設置されていた場所である。顔は葉が日本語でつづった自叙伝を自ら中国語訳して本書に掲載している。

アイデンティティーの葛藤

『ある台湾知識人の悲劇──中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』

「日本人」と「中国人」というアイデンティティーの矛盾に葛藤した「台湾人」という点で、葉、楊、顔の3人は共通している。最終的には「中国人」アイデンティティーを選び取っているが、そこに至るまでの葛藤は一様ではない。葉の場合、植民地の生活環境や戦時下の熱狂によってもたらされた「日本人」であるべきという規範意識が、さまざまな葛藤を経て「中国人」意識へと変化していくプロセスが本書『ある台湾知識人の悲劇』から見て取れる。楊の場合、二高へ進む前には大連二中にいたので大陸の事情を知っていたし、父親の影響で早くから「中国人」意識を抱いていた。顔の場合、祖父は日本の領台時に劉永福の義勇軍に参加し、父は日本の特高に2度逮捕されたという筋金入りの「抗日」家系の出身である。「中国人」意識といってもひとくくりにはできない。さらに下の世代の陳映眞も含め、個人的背景の違いを考慮して検討する必要があろう。

同時に、彼らの「中国人」意識は決して排他的なものではないことに留意しておきたい。顔にインタビューした「霜降晩鐘」(呉宏翔監督、陳梅卿監修、未公開)というドキュメンタリーの日本語字幕製作を手伝った関係で筆者は顔に会ったことがある。自宅の書棚には日本語の本もたくさんあり、哲学・文学関係が特に目立った。かつての旧制高校的教養主義を垣間見る感じだ。顔は「日本の植民体制の中で差別されたが、困ったときに助けてくれたのも日本人の友人だった。日本の国家を恨んではいるが、日本の人たちは恨んでいない」という趣旨の発言をしている。抑圧的な政治体制の中で民族差別を受ければ、自らの尊厳を守るため対抗的に民族意識を高揚させようともするだろう。だが、顔にとって、本当に目指すべきは種族や階級の差別もなく国境もない一つの世界である。戦後になっても白色テロで投獄されたが、過酷な体験の中でもくじけず、こうした理想主義は一貫して失われなかった。そして、葉にしても、振幅の激しい精神的葛藤の向こうに見ようとしていたのは、やはり顔と同様な理想だったろうと思われる。

彼らが「中国人」意識を選び取ったという結果自体は、それほど重要ではないと筆者は考えている。むしろ、アイデンティティーの多元性が認められなかった時代の中でいかに葛藤したか、そのプロセスを見つめるところに本書を読む意義がある。

バナー写真=台湾新竹駅(Masa / PIXTA)

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