日本人が命をかけて食べる魚「ふぐ」——日・中・台・港の食文化比較

文化

日本映画のシリーズものといって、真っ先に思い出すのが『男はつらいよ』である。車寅(とら)次郎こと「寅さん」が日本全国を巡り、恋をし、人情に触れる旅映画の古典だが、そのパロディーに映画『トラック野郎』シリーズ(全10作)がある。

『仁義なき戦い』などヤクザ映画で鳴らした俳優・菅原文太が主役の「桃次郎」を好演、日本の流通を担うトラック運転手として各地でいろんな事件に巻き込まれる。『男はつらいよ』と同じく、各話にマドンナも登場する。本家『男はつらいよ)に比べ、全編において品位に欠けて展開も破天荒だが、1970年代の日本の風俗とエネルギーを垣間見ることができ、筆者の大好きなシリーズである。

その中に、筆者が育った山口県下関市を舞台にした作品がある。題名を『トラック野郎・男一匹桃次郎』(1977年、東映)。桃次郎こと菅原文太が山口県下関まで荷を運んだ際に、ヒロイン・夏目雅子(日本のある世代以上の男性なら名前を聞くだけでうっとりする薄命の美人女優)と出会うシーンが面白い。フグを食べた後、全身にしびれを感じた桃次郎が、解毒のために浜辺の砂に頭だけを出して埋められる。そこにヒロインが現れ、一目ぼれするストーリーである。

下関といえばフグ。フグといえば、中毒。この映画が公開されたのは1977年。おりしも2年前に歌舞伎俳優で人間国宝だった8代目・坂東三津五郎が京都で好物のトラフグの肝を食べ過ぎて中毒死し、フグ毒への世間の関心が高まっていた頃だった。

日台のフグ中毒比較

厚生労働省によれば、現在でも日本で起こる食中毒死亡者の過半数がフグ中毒という(※1)。毎年30件、約50人のフグ中毒事故が発生し、この中の数人が命を落としている。毒の成分を「テトロドトキシン」といい、摂取後20分から3時間でしびれやまひ症状が現れ、それが全身に広がり、呼吸困難で死亡する。日本人は命をかけてフグを食べているのだ。

実は台湾でもフグ中毒は少なくない。1991年から2011年までに起こった食中毒死亡事故15件のうち11件がフグ毒によるものだから、台湾人のフグへの興味浅からぬ、とみてよいだろう(※2)

山口県では数十年、フグ中毒患者を出していない

ではフグ毒にあたった場合、砂浜に体を埋めれば本当に解毒できるのだろうか?

下関市で、フグ料理レストラン「ふくの関」を営む上野健一郎社長に話を聞くと、「全くの迷信です!」と笑いながら切り捨てられた。「ふくの関」は、フグの仲卸の老舗「畑水産」を前身とし、現在は加工会社「株式会社ダイフク」を母体とする、上野社長はいわばフグの専門家である。

ふぐせりの様子(提供:下関市)

山口県では数十年もの間、中毒は出していない。今は山口の他、福岡、大分、東京、大阪などの自治体で、フグを加工するための専門の調理師免許の取得を義務付けられ、資格を持った人に、フグ料理の提供が認められている。上野社長は言う。「山口県の基準はかなり厳しい。ふくを扱う上での安全性に、高いプライドを持っちょるんです」山口県ではフグのことを濁らずに「ふく」と呼ぶ。「福」とかけて縁起をかつぐのだ。

全国で捕れた天然フグと長崎県を中心に養殖されているトラフグなどの8割が、下関に集められている理由は、加工会社が集中しているためだ。加工会社で毒の部分を取り除かれたフグは、無毒の状態で全国へ出荷される。

そんなわけで、映画「トラック野郎」で描かれたシーンのように、レストランや料理屋で出されたフグにあたることは、当時も今もほぼないといって間違いないそうで、今の日本で起こっている中毒事故のほとんどは素人の調理によるものだという。

8代目・坂東三津五郎の中毒死については、また別の事情がある。猛毒のはずの「トラフグの肝」が好物というのを不可解に感じる現代人は多いだろう。実は、当時の食通の間では、肝をわさび代わりにしょうゆに溶いてフグ刺しを食べ、毒の成分で舌がピリピリとしびれてくるのを楽しみながら酒を飲むのが、ひそかに好まれていた。痺れと酔いでもうろうとしながら肝の皿を重ねるうち、許容量を超え、ついには死に至る……このような料理屋は、今はもはや存在しないだろう。

フグ食禁止から解禁まで

下関市が「ふく」の本場として発展してきたのには、こんな経緯がある。

本州の最も西に位置する山口県は三方を海に囲まれている。古くは中国・朝鮮との交易で「西の京都」と呼ばれるほどに栄えて、平家の合戦や明治維新など数々の歴史的事件の舞台となった。

明治維新の功績により、日本の初代首相となった伊藤博文は山口県出身で、郷里に帰った際にとある料理屋を訪れた。その日は海が荒れてよい魚が手に入らず、困り果てた料理屋のおかみは手打ち覚悟で、豊臣秀吉の時代から禁制でありながら、山口では料理法が確立していた「ふく」を伊藤博文のお膳に上げた。

そのおいしさに驚いた伊藤博文は1888年にフグの禁制を解き、その料理屋に「ふく料理公許第一号」の免許を与える。その料理屋の名は「春帆楼(しゅんぱんろう)」、下関で最も格式の高い料亭である。数年後、春帆楼で伊藤博文と李鴻章によって調印されるのが「日清講和条約」(下関条約)だ。現在は改築されたが、戦前にあった元の館(やかた)の2階が調印会場だった。

1895年に調印された「日清講和条約」とは、清(しん)国が多額の賠償金を支払い、朝鮮国を朝貢国から解放した上、台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本に割譲するのを取り決めることだった。清朝全権大使・李鴻章、日本の伊藤博文総理大臣、陸奥宗光外務大臣によって署名された調印文書の1部は日本に、そしてもう1部は蔣介石の手で台湾へと持ち込まれ、現在は台北の故宮博物院にある。台湾が清より日本に割譲され、台湾と日本が運命を共に歩むことになったスタート地点、それが、フグ料理の後任第1号になった春帆楼なのである。

春帆楼の手前にある「日清講和条約記念館」では、当時の貴重な資料の他、当時調印会場となった部屋が再現されている(参観無料、撮影:栖来ひかり)

毒がなければ「珍味の王」にならなかったかもしれないフグ

中国では、2300年前の秦(しん)の頃に記された『山海経』に「フグを食べると死ぬ」という記述があるらしい。その一方、宋(そう)の詩人・蘇東坡もフグのおいしさについての詩をいくつも残しており、中国でもあえてフグを食べてきた歴史があったことが分かる。その後、中国は1990年から法律でフグ食やフグの流通を禁止したが、20年以上輸出を続けてきた実績の高い国内の養殖・加工会社のフグについては2016年に限定的にフグ食を解禁、フグ食への興味は再び高まりつつある。

香港の状況はどうだろう。香港の音楽プロデューサーで美食家としても知られる于逸堯氏に聞いてみると、現在の香港でフグを提供している料理屋は聞いたことがないという。しかし70年以上前は一部の香港人もフグを食べていた。というのも、于逸堯氏の曾祖母(そうそぼ)もフグを食べ中毒を起こしたと伝え聞いているからだ。また台湾の場合、現在フグを食べることができるのは、日本でフグの調理免許を取って帰ってきた料理人による日本料理店が主のようだ。

日本では、縄文時代からふぐを食べていた形跡が日本各地で古代人類のごみ捨て場である貝塚から見つかっているが、豊臣秀吉のときから近代まで綿々と「河豚(ふぐ)食用禁止令」が続いた。どうして禁止されたのか?それは死の危険を冒しても食べる人が後を絶たなかったからだ。

フグ(提供:下関市)

それほどまでに、古代から人間は危険なフグ食に魅了され続けてきた。死と隣り合わせの快楽というのは、それ程までに甘美なのだろうか?底知れない人間の欲望を感じ、何だかぞっとする。しかし、フグに毒がなければ「珍味の王」として君臨することはなかったかもしれない。

今や一主婦が、山口県からトラフグをインターネットで取り寄せ、家庭でその美味を堪能することができる時代となった。何千年もの時をかけ、日本人はその知恵と技術で毒を持つフグを征服したともいえる。養殖の技術も大きく進歩し、「無毒トラフグ」も登場している。また冬の味覚というイメージが強いフグだが、高品質の養殖トラフグが一年を通して味わえるようになっていることは、まだまだ知られていない。

おいしく安全なフグの刺し身。ひんやりと甘くコリコリとしたそれを舌にのせるとき、背負う過去の大きな犠牲を思えば、味わいはまた格別となるかもしれない。

バナー写真=フグ料理(提供:下関市)

中国 台湾 香港 旅行 山口県 ふぐ