台湾を変えた日本人シリーズ:台湾全島に電気をともした日本人——松木幹一郎

歴史

観光地として有名な日月潭は、発電所としても80年以上の歴史を持つ

台湾中部南投県に台湾最大の湖がある。北側が丸形で南側が月形をしていることから日月潭(にちげつたん)と呼ばれる。風光明媚(めいび)な標高748メートルの湖は、年間600万人が訪れる一大観光地としても有名である。また湖を一周する39キロメートルのサイクリングロードは、世界中のサイクリストの憧れの地となっている。しかし、この湖が83年前から発電用ダム湖として利用され続け、台湾最大の水力発電所に寄与していることを知る者は少ない。

現在の大観発電所(提供:古川 勝三)

1931年に完成した日月潭第一発電所(現大観発電所)は、10万キロワットの発電量を誇る東洋一の水力発電所として台湾全島に電力を供給し続けた。その結果、当時の台湾で「人間が居れば、そこには必ず電気がある」とまで言われるようになる。この巨大事業に取り組んだ日本人が「台湾電力の父」と今もって台湾人から尊称されている松木幹一郎である。

松木幹一郎(提供:古川 勝三)

松木幹一郎は1872年愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現西条市河原津)で庄屋の長男として生まれた。松山中学校を経て京都の第3高級中学校を7月に卒業、9月には東京帝国大学法科大学法学科に入学した。3年後の7月に卒業すると直ちに逓信省に就職している。25歳のときである。

広島郵便局長、文書課長、横浜便局長などを歴任し、1908年に鉄道院秘書課長となったとき、松木の将来に大きな影響を与える人物に出会うことになる。逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平がその人である。

後藤は有能な人材を生かして登用することに優れていた。台湾総督府の民政長官時代には、米国から38歳の新渡戸稲造を三顧の礼で迎え、殖産局長心得に抜てきし、臨時台湾糖務局長に据えて台湾糖業発展の基礎を築くことに成功している。その後藤が松木の有能さを認め重用した結果、後藤の片腕として活躍することになる。松木も後藤の人材活用術を学び、同郷で12歳下の十河信二を後藤に紹介している。十河はその期待に応えて、後に新幹線事業の偉業を成し遂げ「新幹線の父」と称されるようになる。

後藤新平に引き抜かれて電気局長に就任する

1911年、後藤の推薦により東京市初代電気局長に就任した松木は、4年後に愛媛県県北宇和郡吉田町(現宇和島市吉田町)出身の山下亀三郎に請われ、山下汽船の理事、副社長を務める。さらに、松木は道路法が制定された19年には、社団法人道路改良会(日本道路協会の前身)を設立し、理事に就任して道路の普及に努めた。

23年9月1日に関東大震災が発生、東京は壊滅的な被害を受けた。4月まで東京市長だった後藤は、自ら総裁とする帝都復興院を設置し松木を副総裁兼物資供給局長に、十河を経理局長に任命し、市長時代に作成していた「都市計画」を採用することにした。この案には復興院内部でも異論があったが、松木や十河らが主張する全面的な土地区画整理事業が採用される。ところが政党間の争いに遭い24年2月に復興院が廃止され復興局に縮小されると、後藤とともに松木も辞任した。

しかし後藤・松木が採用した復興計画は、今日に続く東京の都市づくりの基本となっている。30年3月には帝都復興完成記念式典が開催されるが、後藤はそれらを見ることなく29年4月に亡くなった。後藤は死ぬ前に「いいかよく聴け、銭を残して死ぬやつは下、仕事残して死ぬやつは中、人を残すやつが上だ。分かったか」と言ったという。台湾、満州、東京の都市計画を手掛けた73年の生涯であった。

復興現場を視察する後藤新平(左5人目)と松木幹一郎(左2人目)(提供:古川 勝三)

後藤が東京市長当時、台湾では近代化に必要な発電用ダムの建設と米の増産を目的とするかんがい用ダムの建設が急務だった。そこで台湾総督府は二つの巨大プロジェクトを計画した。日月潭水力発電所建設計画であり、もう一つが15万ヘクタールの不毛の大地をかんがいする嘉南大圳新設工事計画である。

日月潭水力発電用ダム工事は明石元二郎総督の決断により19年に開始された。3000万円で台湾電力株式会社を創設し、堀見末子技師らが設計を行った。巨大な予算もさることながら、その工事計画も驚く規模であった。

台湾最長の河川である濁水渓の海抜1300メートルの武界に高さ48.5メートルのコンクリート製重力式の武界ダムを設置し、そこから日月潭まで延長15.1キロメートル の距離を8本のトンネル、3カ所の開渠(かいきょ)、4カ所の暗渠で、毎秒約40トンの水を送る計画である。

日月潭の名称は、湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。中央の島にはサオ族の守り神(祖霊)が祭られていた。この計画によって日月潭の水位が上昇するため、2カ所に土堰堤(どえんてい)を築き、湖の水位を約18メートル上昇させることにした。このため二つの湖は完全につながり一つの人造湖ができることになった。この工事により、海抜748メートル、水深27メートル、周囲長37キロメートル、貯水量1億4000万トンの台湾最大の淡水湖が誕生する。日月潭の水は、約3000メートルの水圧トンネルと約640メートルにおよぶ5本の水圧鉄管により約330メートル下の発電所に送ると言う大規模な工事計画である。

着工から15年がたってようやく完成。台湾全島に電気が通る

工事に着手したものの第一次世界大戦後の不景気に見舞われ、さらに関東大震災が追い打ちをかけたため、資金不足により1926年に中止が決まった。既に3800万円を投資していた日本政府と台湾総督府は、機会があれば日月潭での水力発電事業を再開したいと考えていた。

建設中の日月潭発電所(提供:古川 勝三)

そこで当時の石塚英蔵台湾総督は、三顧の礼で松木を呼び29年12月、台湾電力社長に迎えた。翌年1月、松木は台湾着任後すぐに峻険(しゅんけん)な現地視察を行うと共に最も権威ある専門家を集め、工事計画の見直しを行った。その結果、残りの工事に必要な金額は4860万円と算定された。この年の日本の実行予算は16億1000万円であり、必要工事費はその約3%に相当する巨大工事のため、日本国内ではこの資金を集めることができないことが分かり、外国から借金して集めることにした。

当時は、世界恐慌などの経済情勢だけでなく、国際政治情勢も混沌(こんとん)としていた時代であったが、31年6月に外国に債券を売却することができ、必要な工事費を確保し、10月には工事に着手することができた。

工事は鹿島建設が行うことになったが困難を極めた。湿気の多い熱帯雨林の環境下で、マラリア、アメーバ赤痢、ツツガムシなどの被害が想像以上で、担架で山を下りる患者が列をなし、病院は患者で溢(あふ)れかえった。

そこで、工事を中断してマラリアを媒介する蚊の根絶のために周囲の山を燃やし、宿舎の周りには草を生やさず、窓には二重網戸をし、売店や娯楽設備を完備し、日本・朝鮮・台湾料理の店を設け、鹿島神社を造営し、直営病院を増やすなど、環境整備を徹底した。その結果、工事は順調に進み34年6月に完成し、同年9月に発電を開始した。着工から15年が経過していた。「日月潭第一發電所」と命名された発電所は最大出力10万キロワットであり、当時、東洋一の規模を誇った。さらに37年には「日月潭第二発電所」を完成させた。この発電所の完成によって、台湾全島に電気が送られ台湾の近代化に拍車がかかることになる。しかし、社長の松木は完成から2年後の39年6月14日に急逝した。67歳であった。

45年の日本の敗戦後、日月潭第一発電所は大観発電所と名前を変え、戦後の台湾の経済復興に貢献し、建設当時と変わらずに現在も運転を続けている。現在でも日月潭の水を利用した発電量は、台湾の水力発電全体の56%を占めている。

松木が急逝した翌年、日月潭湖畔の取水口に松木の銅像が建立された。大東亜戦争中の44年に金属類供出令で撤去され台座のみになっていたが、2010年3月、台湾電力を引き継いだ台湾の人たちによって、再び銅像が造られ、残された台座上に復元されている。

戦前の松木幹一郎の銅像(左)と戦後造られた銅像(右)(提供:古川 勝三)

バナー写真:工事現場を視察する松木幹一郎(提供:古川 勝三)

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