象徴天皇の信仰

文化

現在の天皇は、日本国憲法下で即位したはじめての天皇である。天皇は、皇后の体現するキリスト教精神に影響を受けつつ、象徴にふさわしい行為とは何かを追求してきた。その具体的なあらわれが、被災地の見舞いであり、追悼と慰霊の旅である。こうした行為は、どのような信仰に支えられているだろうか。

天皇の信仰は神道なのか

現在の憲法下において天皇に信教の自由はあるのだろうか。

これはなかなか難しい問いである。皇室のメンバーは戸籍法の対象から外されており、その点で一般の国民とは区別される。国民であれば、憲法によって信教の自由が保障されるが、天皇をはじめとする皇室には憲法の規定はそのままでは適用されない。

天皇は明治時代になってから、皇居にある宮中三殿において宮中祭祀(さいし)を営むようになった。ただ、戦後、憲法が改正されるとともに、宮中祭祀は公的な性格を失い、天皇家の私的な行為と見なされている。

では、天皇の信仰は神道ということになるのだろうか。

簡単にそう言い切れないところがある。

神社側の認識では、国民のほとんどは神道の信者であるとされる。各宗教法人は毎年、文化庁宗務課に信者数を届け出るが、その数を見ると、神道系の信者数はほぼ9000万人である。

ところが、世論調査で信仰を聞いた場合、神道の信者だと答える日本人は全体の2%程度にしかならない。各神社の氏子として捉えられているが、神道を信仰している自覚がないというのが現状なのである。

そもそも神道を宗教として捉えていいのか。そこからして議論がある。神道には、キリスト教や仏教とは異なり、創唱者がいない。創唱者がいなければ、教えはなく、教典も存在しない。

そうなると、天皇が日常的に宮中祭祀を営んでいるからといって、天皇の信仰は神道であるとは言い切れない。

仏教に帰依していた明治以前の天皇

実際、歴史を振り返ってみるならば、歴代の天皇が、神道ではなく仏教を信仰してきたことが明らかになってくる。

日本に仏教が初めて公に伝えられたとき、欽明天皇(?〜571年)が仏像の美しさに感銘を受けた話は『日本書紀』に語られている。聖武天皇(701〜756年)の東大寺大仏建立は、天皇自身の仏教に対する強い信仰に基づくもので、それがそのまま国家の総力を挙げての大事業となった。

平安時代に、最澄(766/767〜822年)や空海(774〜835年)の手によって中国から密教の信仰が取り入れられると、天皇は密教の儀礼である灌頂(かんじょう)を受けることに熱心さを示した。平安時代の終わり、あるいは鎌倉時代になると、天皇は、「即位灌頂」という密教の儀礼を経ることで即位するようにさえなっていく。

明治以前の天皇の信仰は何かと問われれば、それは仏教であるということになる。もちろん、神道とも関わりを持ち、宮中では賢所において皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)っていたものの、仏教の信仰の方が天皇との距離は近かった。

しかも、中世から近世にかけては、神仏習合の時代が続き、神道は仏教と深く結びつき、両者を分けて考えることはできない状況にあった。

明治以降深まった神道との関係

神仏習合については、明治に時代が変わる際の神仏分離、廃仏毀釈(きしゃく)によって、それは失われ、今日それを再現することが難しくなっている。朝廷が京都にあった時代には、「お黒戸」と呼ばれる仏壇が存在したものの、神仏分離にともなって、天皇家の菩提(ぼだい)寺である京都の泉涌寺に移されてしまった。

天皇と神道、あるいは天皇と仏教の関係は、明治時代に入ると、それまでとは根本的に異なるものとなったわけだ。明治政府は当初、天皇親政の確立をめざし、神道を機軸として国家建設を進めたため、皇室からは仏教が一掃された。明治時代に、山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)は、かつて出家し、門跡寺院を継いでいた経験もあり、死後に仏教式の葬儀を望んだが、明治政府はそれを許さなかった。

逆に、明治2年には、まだ16歳だった明治天皇が、歴代の天皇としては初めて伊勢神宮に参拝した。なぜ歴代の天皇がそれまで伊勢神宮に行幸しなかったのかは大きな謎だが、これによって天皇と神道との関係はより一層強まった。その際に、沿道にあった195カ寺が破却されている。

明治天皇自身が、こうした変化をどのように捉えていたかは分からない。まだ年齢的に若く、宗教や信仰ということについて確固たる考えを持っていなかった可能性もある。少なくとも、皇室から仏教の信仰を締め出したのは、神道を新たな日本国家の機軸に据えようとした国学者や神道家であった。

明治政府は、神道を宗教の枠から外した。具体的には、最初内務省に社寺局が置かれたものの、それは神社局と宗教局に分割され、神道は、仏教やキリスト教とは異なる扱いをされた。

すでにその時点では、大日本帝国憲法が制定され、信教の自由も認められていた。神道が他の宗教と区別されたのは、宗教の枠から外すことで、国民道徳として国民全体に神道の儀礼への参加を強制するためだった。

天皇は宮中三殿において皇祖神や皇霊、そして天神地祇(てんじんちぎ、全ての神々)を祀る神主の役割を果たす。国民は、神々を祀るとともに、その祀り手である天皇をも崇拝する。そうした体制が明治時代に確立されたのである。

象徴としての行為を支える信仰

現在の天皇は宮中祭祀に熱心であると言われる。これは、天皇の生前退位をめぐる議論のなかで浮上したことだが、有識者のなかには、天皇はこうした祭祀さえ行っていればよいのであって、それ以外の行為は不要であると主張する人もいる。

だが、近代の社会において、代々の天皇は宮中祭祀だけを行ってきたわけではない。大正天皇は病のため十分な活動はできなかったものの、他の天皇は行幸を重ね、戦後の昭和天皇ともなれば、一般の国民とも積極的に関わってきた。現在の天皇は、被災者の見舞いや、かつての戦地を訪れる慰霊の旅を繰り返している。

そして、大日本帝国憲法下では、「天皇大権」と呼ばれる権能を果たし、日本国憲法下では、多様な国事行為を果たしてきた。天皇が果たすべき責務は重い。

日本国憲法においては、天皇は国の象徴、ないしは国民統合の象徴と位置づけられている。ただ、象徴とは何かということについて、憲法には格別の規定が存在しない。

現在の天皇は、退位をめぐる国民に対するメッセージの中で、「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を日々模索」してきたと述べていた。

憲法が象徴とは何かを具体的に規定していない以上、天皇自身がそれを自ら考え続けなければならなかったというわけである。メッセージの中で、天皇は、その具体例として「日本の各地とりわけ遠隔の地や島々への旅」を挙げていた。

私は、この天皇のメッセージを聞いて、天皇が模索してきた象徴としての行為は、仏教の「菩薩(ぼさつ)行」、あるいは「利他行」に当たるのではないかと考えた。それは、自己を犠牲にしてでも他者を救うために行動することである。

天皇は皇后とともに、まだ危険な状況にある被災地をいち早く訪れ、必ずしも天皇に対する好意ばかりがあるわけではない戦地も訪れてきた。その際に、反対派から火炎瓶を投げつけられたこともあった。そうしたことを高齢になってもやり続けてきたのは、天皇に、そして皇后に強い信念があるからにほかならない。

神道の世界には、その性格上、自己を犠牲にしてでも他者の救済に尽くすという教えは存在しない。逆に仏教は、それが生まれた当初の段階から、そうした教えを説いてきた。

日本の仏教信仰の中で極めて重要な位置を占めてきた『法華経(ほけきょう)』には「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という言葉がある。これは、人に尽くすためには自らの体や命を惜しまないことを意味する。

現在の天皇は国政に対する権能を持たない。だが、国家を象徴する存在である以上、自らの行動の支えになるものを必要とする。そこに信仰の役割がある。天皇がそれを、代々の天皇が深く関わってきた仏教の信仰に求めることは自然なことなのである。

バナー写真=関東・東北水害の被災地を訪問し、鬼怒川決壊現場付近を視察される天皇、皇后両陛下=2015年10月1日、茨城県常総市三坂町(時事)

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