漁業と海でつながる台湾と沖縄

文化

台東成功鎮の張旺仔さんが語る船上の「沖縄体験」

昨年、日本で公開されたドキュメンタリー映画「台湾萬歳」(酒井充子監督)の中で一人の小柄な老人がこう話していた。

「2、3年間、私ね、沖縄人と一緒に魚捕りして、多少は、簡単のは、話がちょっと覚えていますよ」

声の主は、台東県成功鎮に住む張旺仔(チョウ・オウシ)さん(86)。

カジキ漁の様子について語る張旺仔さん、2017年10月4日、台湾・台東県成功鎮の自宅(撮影:松田 良孝)

「台湾萬歳」は、自然本位に流れていく時間の中で巧みに暮らしを立てていく台湾東部の人々が主役だ。カメラは、狩りのために山に分け入るブヌン族の人々や、カジキを狙って海に乗り出す漁民の姿を追いかけていく。山と海が織りなす台東の地誌を、生活者の視線から切り取ったといえるだろう。

張さんは、カジキ漁の元漁師。作中の語りは、沖縄からやってきた漁師と一緒に海に出たことがあるという証言である。

台湾の港町は、日本統治期とその後しばらくの間、沖縄からやってきた漁師が足跡を残しているケースが少なくない。成功鎮も例外ではなく、終戦当時の状況を示した資料には、沖縄出身者201人分の記録が残されていることが分かっている。

張さんの「沖縄体験」とはどのようなものなのだろうか。お話を伺っていくうちに、沖縄漁民の「台湾体験」と重なり合う部分が見えてきた。日台間に国境が引かれて70年以上を経てもなお、海をめぐる台湾と沖縄の結び付きは漁師の記憶として刻まれているのだ。

佐良浜の漁師がカジキ漁を振り返る

張さんが乗っていた船で台湾の漁師と一緒に魚を追っていたのは、ほとんどが佐良浜(さらはま)の漁師たち。佐良浜は南西諸島の中で西部に位置する宮古地方伊良部(いらぶ)島にある港町だ。吉浜金市(よしはま・かないち)さんという50代半ばの船長や、仲松正勝(なかまつ・せいしょう)さんという30代半ばの副船長、張さんとほぼ同世代の久高忍(くだか・しのぶ)さんという船員らがいた。張さんは、これら佐良浜の漁師たちとともに宜蘭県の南方澳で25馬力の焼玉エンジンを搭載した「福源(ふくげん)11号」に乗った。1931年生まれの張さんが20歳だったというから、1950年代初頭である。佐良浜の漁師たちとは翌年も一緒に船に乗り、今度は基隆で「逢盛(ほうせい)1号」に乗った。2隻はいずれもカジキの突き棒漁を行うための「突き棒船」である。船首から「突き台」という台が伸びていて、海を泳ぐカジキにそこから直接モリをたたき込むのだ。張さんは佐良浜の漁師と共に佐良浜に上陸したこともある。

突き棒船、2011年2月24日、台湾・台東県成功鎮の新港漁港(撮影:松田 良孝)

カジキの突き方にも決まりがある。「船長が突いたら、副船長はすぐ突かないといけない。船長が突かないうちに突いたら、怒られますよ」。船長がまずモリを投げ、副船長が間髪入れずに続けるのだ。

張さんの話に耳を傾けながら、私には気になり始めていたことがあった。

もう5年ほど前のことになる。2012年から13年にかけて、私は佐良浜に足を運び、台湾体験のある人から話を聞いたことがあり、その中には元漁師もいたのだ。

故・山口銀朝(やまぐち・ぎんちょう)さんは1928年生まれなので、張さんより3歳年上である。

山口銀朝さん、2013年9月13日、沖縄県宮古島市伊良部の自宅(撮影:松田良孝)

山口さんは佐良浜の尋常高等小学校高等科で学んでいたころ、澎湖島にいた長兄を頼って佐良浜を離れ、新竹で終戦を迎えた。いったんは佐良浜に戻るが、再び台湾に渡り、突き棒船の船員として10年ほど働いた。南方澳で乗り込んでいたのは「福源」という船だ。

福源?

張さんが南方澳で乗り込んでいた船も福源だった。これは同じ船なのか。張さんに電話で尋ねてみると、「福源の親方は林永泉という人で、福源という船を2隻持っていたんです。船長はどちらも沖縄の人で、他の船員も沖縄の人が多かったですよ」という答えが返ってきた。

これだけの手掛かりで、張さんと山口さんの間に接点があるとは言えない。その可能性はあるといったところがせいぜいである。電話の向こうからは「そういう人はいたと思いますよ」という張さんの声が聞こえてきた。自分の記憶に向かってヤマグチ・ギンチョウという人物の所在を確かめるような声だった。

漁の稼ぎを金の指輪で妻に渡した

もう一人紹介しておこう。故・仲松利雄(なかまつ・としお)さん。

利雄さんはアジア太平洋戦争末期に疎開で初めて台湾の地を踏み、台湾を引き払ったのは25歳の時だったというから、日本の台湾統治が終わって10年が過ぎた1955年である。戦後は南方澳や基隆でカツオ船や突き棒船に乗っている。

故・仲松利雄さん、2012年5月29日、沖縄県宮古島市伊良部の自宅(撮影:松田 良孝)

日本の植民地統治が終わると、台湾と沖縄の間には国境線が引かれるのだが、そのボーダーをまたいで人々が活発に往来したことはよく知られている。利雄さんの場合は、自分が台湾で稼ぎ、妻が佐良浜で留守を預かるという生活をしていた。利雄さんは台湾で船主から給料をもらうと、基隆で金の指輪に換え、それを妻に渡していたそうだ。妻はこの指輪を今度は宮古島で換金してくる。当時の沖縄は米軍統治下。B型軍票、いわゆる「B円」が通貨として流通していた時代のことである。

山口さんにも台湾で金を買った経験がある。

「(受け取った給料で)金を買って集めてきました。佐良浜へ密航する船が分かったら、頼んで(実家へ)持たせていた」

ただ、カジキ漁での稼ぎは自分の生活のためにも、取っておかなければならなかった。台湾から佐良浜へ向かう船の消息にしても、確実に耳に入るわけではない。山口さんの場合、台湾での稼ぎのほとんどが自分の生活費に消え、佐良浜に送「金」できた分は多くなかったようだ。

佐良浜漁港でキハダマグロの計量が行われていた、2013年9月13日,沖縄県宮古島市伊良部(撮影:松田 良孝)

宮古島を訪れるも久高さんとは再会を果たせず

張さんは5、6年前に宮古島へ行ったことがある。基隆発着のクルーズ船で寄港したのだ。「福源11号」と「逢盛1号」で一緒だった久高さんが「沖縄へ戻ったら、試験を受けて警察になりたい」と語っていたことを覚えていた張さんは、もしかしたらという思いで、島の警察官に目をやった。仮に警察官になっていたとしても、すでに退職していることは張さんもよく分かっている。この言葉が重たいのは、昨年2月に久高忍さんという同姓同名の人物が宮古で亡くなったという消息を張さん自身が知っているからである。

寄港の時、張さんは団体で観光していたため、人探しは無理と諦めたそうだ。そう長くない上陸時間で、探し当てられる保証はないが、このころ久高さんは存命だったわけだから探そうとさえしなかったことが悔やまれる。「忍君がね、もし警察になって立っていたら、岸壁の脇あるいは派出所のところに(久高さんの)顔があってという考えで(宮古島に上陸した)」と振り返る。

佐良浜のある伊良部島は2015年1月、全長6.5キロの伊良部大橋によって宮古島と結ばれた。伊良部大橋は宮古島の人気観光スポットとなり、この橋で海を渡って伊良部島へ向かう観光客も多い。こうした人たちの中には佐良浜を訪れる人もいることだろう。張さんが若かりし頃の思い出として記憶にとどめる漁師町は、その風景を変えようとしている。

バナー写真=2015年1月に開通した伊良部大橋。宮古島から伊良部島を望む、2016年8月19日,沖縄県宮古島市(撮影:松田 良孝)

<参考文献>

小池康仁『琉球列島の「密貿易」と境界線 1949―51』(森話社、東京、2015)

西村一之「移動・移住の経験と実践」(上水流久彦ほか編『境域の人類学』風響社、東京、2017所収)

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