台湾~ハワイ 南島をつなぐ民族音楽

文化

日本列島の南に浮かぶ島々は、文化の視点で見れば遠い親戚のようなものだ。東南アジア島しょ部から太平洋のハワイなどの島々は「オーストロネシア語族」と呼ばれる言語圏に分類されているが、そのルーツは台湾にあるという説が有力である。言葉だけでなく、言葉と密接な関係にある芸能(特に音楽)も通じ合う部分が多い。そして今、ばらばらに見える島々が民族音楽でつながろうとする動きが広がりつつある。

ガムランはそのままの自分でいられる音楽

そうした動きを象徴する日本人女性を紹介したい。インドネシアのガムラン音楽の舞踊家・演奏家で、現在は台湾に近い西表島に住む飯島かほる。東京で生まれ、インドに興味を持ち、東京外国語大学ウルドゥー語学科に入学したが、約1年で中退。「暖かいところへ行ってみたい」と1980年代初頭にハワイ大学へ留学、70年からハワイ大学でガムラン音楽・舞踊を教えていたインドネシア人教授のハルジョ・スシロ(1934~2015)と出会ったのが、人生の転機になった。飯島は振り返る。「民族音楽の学生は、ハワイのフラと沖縄の三線が必修。私はスシロ先生が大好きになって、ガムランも始めた。それまでやってた西洋音楽は、自分でない人間にならなくちゃいけない感覚があったのが、スシロ先生に『ガムランは自分がそのまま自分でいられる音楽なんだよ』と言われて気持ちが楽になったし、音楽も踊りも一緒に教えてもらったことが良かったですね」

飯島かほる氏(撮影:隈元 信一)

その後、飯島はインドネシアに留学してジャワ舞踊も演奏も磨き上げ、日本にガムランを広める役割を担う一人になった。「東京は息苦しい」と感じて沖縄で仕事を探したら、西表島に就職口が見つかった。当時小学生の一人息子に「西表島、行ってみたい?」と聞くと、「行ってみたい!」。西表島に高校はなく、息子は今、石垣島の高校生だ。西表や石垣が属する八重山諸島は、芸能の豊かさで知られる。そこに居を構え、沖縄本島や東京などでイベントがあると、船や飛行機を乗り継いで通う。「台湾も近いし、けっこういいポジションかな」と飯島は言う。「台湾の人はまず沖縄本島の那覇市に観光に来て、その次は音楽や文化に関心を持つ。台湾と沖縄は距離が近いだけでなく、文化的にも近い。親近感を抱くのは当然でしょう。昔のように自由に行き来していた時代がまた来ればいいなと思います。もしガムランを教えてほしいという台湾の方がいらしたら、大歓迎です」

飯島かほる氏と他の舞踏家(撮影:隈元 信一)

ハワイにはさまざまなスタイルのガムランが残っている

昨年11月、飯島は久々にハワイを訪ねた。スシロの追悼コンサートに参加するためだ。アメリカ本土をはじめ、各地からスシロの子や孫や弟子たちが集まった。迎える側で忙しくしていたのが、飯島と同じ頃にハワイ大学で民族音楽を学んだ上野道子。大阪出身で、ハワイ大学を出るとそのままハワイに住み、照明技師をしながら、ガムランや日本の文楽、中国の京劇などの芸能に関わり続けている。

スシロの追悼コンサートは、ハワイ大学構内の野外円形劇場で開かれた。ガムランは青銅製の打楽器を中心とするアンサンブルで、同じインドネシアでも島によってスタイルが違う。芸能の島として有名なバリ島のガムランは、エネルギッシュで躍動感があふれる。ジャワ島中部のガムランはもともと宮廷音楽で、優雅さや荘厳(そうごん)さが持ち味だ。この夜は、両方が演じられた。ハワイにいながら、バリ島とジャワ島のガムランが楽しめる。そんな貴重な体験が、両方を教えたスシロの偉大さを物語っていた。インドネシアのガムランは変化しているが、ここには昔のガムランのスタイルが残っていることに私は心を動かされた。スシロがハワイに来た時代のやり方で教え続けてきたからだろう。

米国ハワイ大学で行われたハルジョ・スシロ教授の追悼コンサート(撮影:隈元 信一)

沖縄と台湾が交互に島しょ音楽祭を開催する

飯島はスシロの娘らとともにジャワ舞踊を披露し、演奏ではルバーブ(弦楽器)を担当した。上野は本番寸前まで会場整備をした後、演奏にも加わった。楽団の中には、台湾から来た留学生の姿もあった。その一人、台北の文化大学からハワイ大学大学院に入った官元瑜は、飯島が住む八重山諸島で民族音楽のフィールドワークをしている。「日本各地へ行き、面白いところがいっぱいあったけど、八重山は芸能が豊かで、みんなが僕を歓迎してくれる」。そう話した後、苦笑いした。「調査していると、つい文化人類学的になりがち。論文は音楽で書かないといけないから、苦労しています」

台湾からの留学生・官元瑜(撮影:隈元 信一)

官は「最近は沖縄と台湾で毎年交互に島しょ音楽祭をやってるのもいいことですよね」とも言った。「島しょ音楽祭」は、台湾東部の音楽と沖縄の島唄の交流が狙いで、2014年6月に台湾で最初に開催。昨年は、沖縄で第4回が開かれ、今年は台湾の番だ。台湾側の主催は台東生活美学館。沖縄側は、読谷村、宜野座村などの自治体が中心になっている。昨年のパンフレットに「台湾と沖縄文化の特性、歌は生活の一部であることは類似しています。このプロジェクトはさまざまな地域からの活力を集め、音楽を通じコミュニケーションを行い、刺激を受ける事で文化的な火花を引き出します」とある。総合司会・モデレーターで台北在住の日本人シンガー・ソングライター、馬場克樹によれば、ただ演奏したり歌ったりするだけでなく、生活体験や音楽交流に力点を置く。会期も8日間と長い。「黒潮文化圏沖縄と台湾の類似点」といった興味深いカンファレンスなどもあった。

沖縄、台湾、ジャワ、バリが芸能を通じてつながる

飯島が参加した別の催しもある。例えば一昨年11月、沖縄県立芸術大学の開学30周年を記念して那覇市で開かれた「繋(つな)がる芸能~沖縄・台湾・ジャワ・バリ~」。大学内の沖縄芸能、ジャワガムラン、バリガムランの各グループの他、2011年から姉妹校提携をしている台北芸術大学からも「南管音楽」のグループがやって来た。

沖縄の伝統音楽は、インドネシアのジャワ島やバリ島で伝承されてきたガムラン音楽とよく似た音階を持っている。この催しの野外コンサートは、沖縄とジャワの演奏をバックに沖縄舞踊「四つ竹」で幕を開けたが、沖縄とジャワの楽器・演奏は見事に溶け合って違和感がない。続いて演奏されたのが、台湾に中国大陸から伝わった「南管音楽」。大陸の音楽は変化が激しいが、楽器や演奏法に昔の形を残すのが特徴だ。最後は、沖縄・台湾・ジャワ・バリの合同演奏だった。そこにはまさしく「繋がる芸能」の空間が広がっていた。

この催しの台湾代表を務めた李婧慧(台北芸術大学准教授)は、ハワイ大学の出身。飯島とは重なっていないが、同じくスシロ教授に民族音楽の薫陶を受けた弟子の一人だ。スシロ教授の孫弟子たちが、台湾でも育っていることになる。

撮影:隈元 信一

日本の民俗音楽研究の先駆者・小泉文夫氏

日本にもかつて、スシロのような人物がいた。東京芸術大学の教授を務めた小泉文夫(1927~83)だ。世界中を歩いて民族音楽研究・実践の基礎を築いた。56歳で急逝したが、その弟子や孫弟子たちがいま、日本のガムラン音楽界で活躍している。

小泉は、78年の対談でこんなことを言っていた。

「芸大の学生としていままでピアノしか弾いたことがなかった若い人たちが1年生に入って来て、インドネシアのガムランをやる。すると、あんまりおもしろいものだから、もうほかのことをぜんぶ忘れて打ち込んでしまう」「西洋からの強い影響力というような、頭にのっている一つの石を取り払うと、もう自由にパーッと伸びていく若い人たちの感覚では、アジアを本当に自分たちのものにすることができる、そういう可能性が以前よりずっと強いという感じを受けましたね」(『小泉文夫著作選集5 音のなかの文化』)

撮影:隈元 信一

この発言から40年、小泉やスシロがまいた種がいよいよ花開く時が来た気がする。しかも一つの島の中だけでなく、別の島とつながることによって、さらに豊かで美しい花を咲かせていくことだろう。台湾がその拠点の一つになれば、オーストロネシア語族が生んだ文化の「原郷」として存在感を増していくに違いない。

(文中敬称略)

バナー写真=ハルジョ・スシロ教授の追悼コンサートで踊りを披露する飯島かほる氏(撮影:隈元 信一)

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