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台湾を変えた日本人シリーズ:台湾野球の礎を築いた日本人・近藤兵太郎

古川 勝三【Profile】

[2018.03.25]

1931年、第17回全国中等学校優勝野球大会に出場すべく、台湾の嘉義農林学校野球部は、これまで1勝もしたことなかった台湾全島野球大会に挑んだ。連敗続きでのんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤兵太郎監督の鬼のような特訓を1年間受けると、選手に勝利への強い意志と甲子園出場への夢が芽生え、日本人のみの常勝チームであった「台北商業」を打ち負かして優勝した。台湾野球の歴史を塗り変えた出来事だった。

台湾の代表チームとして日本への遠征を成し遂げた嘉農野球部の快挙に、嘉義市民は歓喜した。全国大会に出場する嘉義農林ナインは、日本人3人、漢族2人、先住民族4人の民族混成チームであった。

近藤は当時、語っていた。「日本人は守備がうまく、漢人(族)は打撃に強く、蕃人(族)(先住民族)は走ることに長(た)けている。こんな理想的なチームはない」と。

身内の相次ぐ不幸もあって、心機一転、台湾に渡る

嘉農チームを育てた近藤は1888年、松山市萱町で生まれた。1903年に松山商業予科に入学し、創部間もない弱小の野球部に入った。手足が短く小柄で野球選手として決して恵まれた身体ではなかったが、誰よりも野球が好きで研究熱心で、内野・外野手として活躍し、主将も務めた。

嘉義農林野球部監督時代(提供:古川 勝三)

その後、野球部監督となり19年に松山商業を初の全国出場(夏ベスト8)へと導くが、両親、おい、姉、長女の相次ぐ死を経験した近藤は、心機一転を図るべく台湾へ渡り、嘉義商工学校に簿記教諭として勤務することになる。渡台しても松山商業の監督は続けていたため、夏休みになると毎年松山に戻り母校の監督として采配を振るった。その結果、甲子園へ6年連続出場するという松山商業野球部第1期黄金時代を築いた。

しかし、25年夏の四国予選で高松商業に大敗したため、監督を辞退し嘉義商工学校の簿記教諭に専念していた。ところが、28年の創部以来1度も勝利なき嘉義農林野球部の選手が、近藤の内地での活躍を耳にした。選手から近藤の指導を熱望された濱田次箕野球部長は、近藤を連日口説いた。その結果、コーチを条件に指導することになったのである。近藤は40歳になっていた。

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  • [2018.03.25]

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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